At the eve that snow does not fall
訳:雪の降らない前夜祭にて
「ンンン~♪」
十二月に入り、街はすっかりイルミネーションで着飾っていた。ここ、美しが丘駅前は夜でもイルミネーションで昼よりも明るい場所となっていた。そんな中、藤沼翔は有名なクリスマスの定番曲を鼻歌で歌っていた。休日である今日は学校がないため、恐らくは友達と遊んだ帰りなのだろう。
不気味なほどに上機嫌なその様子に、偶然彼を見かけた新井浩太は声をかけ辛かった。
「お、おい、藤沼……?」
「ンンン~ン~♪」
浩太は決意して後ろから声をかけたものの、翔の耳には届かなかったようだ。
「藤沼~!」
「ンンン~ン~、ンンン~ン~♪」
「……藤沼っ!」
「うわぁぁぁっ!?」
浩太は先ほどよりも大きくハッキリと呼ぶと、彼はオーバーに跳ね上がる。そして、恐る恐るといった感じで翔は振り返る。
「び、ビックリした……新井じゃないか」
「“新井じゃないか”じゃないだろ……さっきから呼んでいたのにさ」
「わ、悪い……ぜんぜん気づかなかった」
バツが悪そうに翔は言った。浩太はやれやれといった感じで、ため息を吐く。
「それで、そんなに上機嫌そうにどうしたんだ?」
「あ、ああ……実は宝くじで三億円が当たった――」
「嘘吐け」
浩太は特に感情を込めずに、翔の面白くも無いボケに突っ込みを入れる。
「うん、そうそう、一万円札が十枚も入った財布を拾ってさ」
「交番に届けようなー」
情け容赦のない突っ込みに、翔は顔をしかめる。しかし、浩太にしてみれば、ここで翔のペースに乗ってしまうと話が終わらないので仕方が無いのだ。
「くぅ……! 分かったよ、本当のことを話すよ」
「最初からそうすればいいのに」
浩太は再びため息を吐く。しかし、ボケるからこそ藤沼らしい、と彼のみならず誰もが思うところなのだが。
「もうすぐクリスマスだろ?」
「もうすぐって……まだ半月ほどあるけどな」
「だから! ワクワクしていた、だけだ……」
恥ずかしいのか、大声で主張することでもないと思ったのか、語尾の部分は消え入りそうな声量だった。そして、それを聴いた浩太は今回三度目となるため息を吐く。
「藤沼、お前は気楽でいいな……羨ましいよ」
「何を! 新井こそ、楽しみじゃないのか!」
翔は自分の楽しみを否定されたように感じたので、しかめっ面になって抗議する。
「いや、確かに俺だって楽しみさ。だけど……」
「だけど?」
「その前に、期末試験があるだろ」
「……あっ」
彼は、浩太の“試験”という言葉を聴いて、固まってしまった。学生ならば誰もが越えなければならない壁として立ちはだかる期末試験。乗り越えれば、その先には休みが待っている。しかし、美しが丘高校の学期末試験は試験範囲が相当広いため、試験直前の準備だけでは撃沈必至。成績優良者は、一ヶ月前から準備をしていると噂されている程、期末試験は量が多いのだ。
そんな苦しみを思い出した翔は、遠い目をしながらブツブツと呟き始める。
「いいさ、いいさ、俺は試験なんて気にしない。試験が終われば、休みなんだし」
「おいおい、試験で赤点を取ったら、クリスマス期間中、補習だぞ」
「ががががーんっ! が・が・が・が~んっ!」
翔は浩太の追い討ちに、某クラシック調のフレーズを口に出しながら、その場でひざをついた。もちろん、周りにいる人々も何事かとこちらをチラチラ見ていた。
「そ、そんなにショックか」
追い討ちをかけてしまった浩太も、予期せぬ翔の行動に少し引いてしまう。しかし、翔は浩太や周りの視線に気づかず、スクッと立ち上がった。
「いや、まだだ! 今から勉強すれば間に合う!」
そして、大声で決意を口にして、瞳に決意の炎を灯すのだった。浩太としては、彼がやる気になったのはいいことだが、もう少し落ちついて欲しかった。なぜならば、今の大声でこちらを見る視線がさらに増えたからだ。さすがにこうも注目されると、恥ずかしくてしょうがないのだ。
「そうと決まれば、期末まで残りわずかだ! 急いで帰って、風呂入って寝るぞ!」
「……今日からやるわけじゃないんだな」
もはや、そのテンションについていけなくなったので、呟くように浩太は突っ込んだ。
「じゃあな、新井。俺はクリスマスのために生まれ変わる!」
そう簡単に挨拶すると、翔はさすが陸上部といった速さで住宅街に向かって走り出した。一人残された浩太はクスクスと笑う衆人の視線にいたたまれなくなり、そそくさとその場を立ち去るしかなかった。
そして、試験終了のチャイムが鳴った。答案は回収され、長かった期末試験もようやく終わり、教室の中はざわついていた。
「ようやく終わったか」
島津陽正は帰り支度を始める。そこに既に支度を終えた浩太がやってくる。
「島津、帰ろうぜ」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
筆箱をしまい、バックを持つと、陽正は立ち上がる。
「お、島津に新井、ちょうど良かった!」
いつの間に入ってきたのか、翔に近衛素直がいた。
「どうした、藤沼?」
「フッフッフッ、お前たちに相談があるんだ」
なにやら怪しい笑みを浮かべながら、翔は言った。その様子に、陽正や浩太はもちろん、隣にいる素直まで呆れ顔だった。
「そ、相談って……何の?」
「まぁ、それは後で話すとして、一緒に帰るぞ」
既に決定事項なのか、断るに断れないと二人は悟った。
そして、向かった先は定番イタリアンファミレス『ギ・ラブカ』。
平日の昼ではあったが、客は学生を中心にほぼ満席だった。
「昼食べてないだろ? だったら、一緒に食おうぜ」
その翔の一言でここへの寄り道は決まった。
各々は注文を済ませ、ソフトドリンクを持ってくる。
「さてと、それで相談というのは?」
「ああ、相談というのは……クリスマスイブに一緒に遊ばないか?」
「「「はい?」」」
三人は相談というから、てっきり別の何かと思っていたようだ。
「な、何か変か?」
ただ、翔だけは三人の驚きが意外だった。なので、当たり前の質問をする。
「い、いや……別に変じゃないさ」
「そうだな、変ではないか」
「ま、最初にボケを言わなかっただけマシか」
浩太、陽正、素直はそれぞれ回答する。
「近衛! なんだ、その言い草は」
「事実を言ったまでだ。それよりもイブに集まろうというのは?」
「あぁ、俺たちで集まって、ワイワイガヤガヤやろうという話さ」
翔のことなので、ただ一人でクリスマスを過ごしたくはないのだろう。ともかく、反対する人は誰もいなかった。
「だけど、試験で赤点とったら、二十四日から補習じゃないのか、藤沼?」
素直は思ったことを口に出す。まるで、“お前は赤点じゃないのか?”と言うかのように。
「チッチッチッ、甘いな、近衛」
「なっ、お前、まさか……!?」
「そうさ、今回の試験、バッチリ手応えあったんだぜ!」
親指を立てて、ニヤリと笑う翔。その自信タップリの様子に誰もが驚くのであった。翔はいつも後ろから数えた方が早く見つかるほど成績が悪いのだ。赤点の数で他の人を競い合うほど、それはそれは徹底していた。成績上位者に連なることがある陽正や素直にしてみれば、それは見ていて悲しい光景だった。
そんな光景が記憶に焼き付けられている三人の驚きがどれほどのものか計り知れなかった。
「な、なんでそんなに驚いているんだ。失礼だぞ」
翔は皆の反応がお気に召さなかったようで、心外だと呟く。
「わ、悪い。どうも、お前は赤のイメージが強くて……」
「元々俺のシンボルカラーは赤だ。三倍速く走れるようにってな」
何か突っ込まなくてはいけないような発言をサラッとする翔に、誰も突っ込むことはしなかった。ともかく、二十四日は絶対に空けておく、という結論になった。
「お待たせしました、本日の日替わりパスタです――」
風呂から出た辻本紗織は髪をとかしていた。窓から差し込む月の光に淡いロマンを感じながら。
「新井くんも、同じ空を眺めているのかしら?」
紗織は髪をとかし終えると、日記をつけようと、シャーペンを手に取った。そこに携帯が着信音を発しながら振動し始めた。彼女は慌てて携帯を手に取り、画面を確認する。
「……藤沼くん?」
隣のクラスである彼から電話がかかってくる理由は全く分からない。ともかく、電話に出なければ始まらない。
「もしもし、藤沼くん、どうしたの?」
『あ~、もしかして寝ていた? なんか不機嫌そうだけど……』
まだ深夜と呼ぶには早すぎる時間ではある。だが、電話をするには十分非常識な時間ではあった。
「いいえ、起きていたけど……こんな時間にどうしたの?」
『ああ、あのさ、クリスマスイブに何か用事入ってない?』
「え、ええ……何も用事はないけれど」
『じゃあさ、イブに遊ばないか?』
「……ごめんなさい、藤沼くんとデートはできないわ」
『え? あっ、ああ! 違う、違うって! それは誤解だよ!』
翔は紗織の断り方から、言葉を端折りすぎたことに気づき、慌てて訂正する。
「誤解?」
『二人っきりじゃなくて、皆とだから!』
「皆って、誰がいるの?」
『えーっと……俺、島津、新井、近衛、遠藤、船越の六人だ』
「……うん、分かった」
『詳しい時間と場所は後日連絡するから』
じゃあ、遅くに悪かったと言って、電話は切れる。紗織は切れた携帯電話を見つめ、もう一度窓の外を見つめる。先ほどと同じく、月が黒い空に映えていた。
「クリスマス、か……」
あと一週間ちょっとで訪れるその日まで、きっと一日が長く感じるだろう。
それだけ、二十四日が楽しみで仕方のない彼女だった。
そして、十二月二十四日。キリストの誕生を祝福するクリスマスの前日がやってきた。本来、無神論者である日本人がクリスマスを祝うなど馬鹿げているとしか思えない。ましてや、その前日であれば、本来意味をなさないのである。
しかし、日本人は行事が好きなのだとも言えるだろう。だからこそ、大切な家族や恋人と行事は過ごすのだ。
美しが丘駅のデパートにはカップルと思しき組が続々と入っていくのを、紗織はただ見ていた。
「皆、遅いな」
隣にいる素直が白い息を吐きながら呟いた。二人はバスの中で偶然一緒になり、こうして待ち合わせ場所の駅広場で待っていた。
「遅いと言っても、私たちが早いだけだよ」
まだ約束の十五分前なのだから、紗織の言うとおりである。こういうとき、時間に余裕を持って早く来る人は損だなと、彼は心の中で思った。
「あ、あれは……島津くんかな?」
「隣にいるのは、藤沼か。どうやら主催者は本当に赤じゃなかったらしい」
そんなことは終業式の時点で分かってはいたけど。二人の言葉通り、やってきたのは陽正と翔だった。
「いやぁ、二人とも早いね。逢引のつもりかい?」
「こんなに寒いのに、よく待っていられるな」
二人は相変わらず彼ららしい挨拶をした。
「え、いや、その……これは、あの……」
だが、紗織は翔の言葉に真面目に反応してしまい、赤面していた。
「辻本、気にするな。藤沼はよくボケるから、反応すれば面白がらせるだけだぞ」
「わ、分かったわ」
冷静に素直がフォローに入り、紗織は落ち着きを取り戻した。
「藤沼、俺や島津は慣れているからいいけど、辻本は慣れてないんだから遠慮しろよ」
「人の趣味に口出しされても困るんだよね、これが」
「悪趣味すぎる」
陽正がボソッと呟くが、誰にも聞こえなかったようだ。
「ま、今度からは気をつけるよ」
「さて、約束の時間まであと十分というところか」
陽正が腕時計を見て言った。ちなみに、今の時刻は十七時五十分である。十八時に集合予定という、かなり遅い集まりである。これは、折角のクリスマスイヴなのだから夜を楽しもうという翔の意見があったからだった。
「あと来ていないのは、新井に遠藤、船越か」
そう言って、翔は駅入り口を見る。残りの三人は皆電車に乗ってくる。素直もつられて駅の方を見ると……。
(ん、あれは……保村?)
街灯に照らされたその人は、コートを羽織り、マフラーで口元まで隠しているが間違いない。同学年の保村孝也である。
「おーい、保村!」
素直は彼に向かって手を振る。彼はそれに気づき、駅広場に向かった。
「近衛……だけじゃないのか。何をしているんだ?」
「これから、皆で遊ぶ予定なんだ。そうだ、保村も一緒にどう?」
孝也が質問すると、素直の代わりに翔が答えた。
「せっかく誘ってくれたのに悪いな。これから知人の見舞いに行かないといけなくて」
そういって、箱が入っている袋を掲げる。
「見舞いって……入院しているの?」
「ああ。だから、皆ごめんね。その人、俺のこと待ってるから」
じゃあと言って、彼は早足で病院のある方角に消えていった。残された彼らは今しがた彼の話を重く受け止めていて、口を開こうとする人はいなかった。
「どうしたんだ?」
そのためか、浩太や遠藤裕美に船越真理子が到着しても、重苦しい雰囲気のままだった。口を開こうとしない彼らを代表して陽正が先ほどの出来事を説明する。
「実はな――」
「そうか、あの保村が……」
三分ほどの説明が終わると、浩太はそう言った。口にはしなかったが、他の二人も同じような感想をもっただろう。
「なぁ」
孝也と会ってから、口を閉ざしていた翔が口を開く。
「これから、保村の知り合いの見舞いに行かないか?」
「藤沼、お前……」
「なんかさ、イライラしてくるんだ。クリスマスは楽しむものなのに、楽しめない人がいるのって」
いつもの翔はそこにいなかった。真剣に悩み、苦しんでいた。
「それなのに、俺たちだけ楽しむなんてこと、できないよ」
「そうね……どちらにしても、この状況じゃ、私たちも楽しむことができないでしょうし」
真理子が翔に同意する。
「うん、保村くんはああは言ってたけど、やっぱりイブだもの。友達と一緒に過ごしたいんじゃ……」
裕美や紗織も翔に同意する。
「……主催者がそういうんじゃ、仕方が無いか」
陽正たち男性陣も賛成する。
「よし、なら病院に行こう! きっと、保村のことを聞けば病室も分かるだろうし」
そうと決まれば、翔は元の明るい顔に戻る。
(うん、藤沼はこうでないとな)
それを見て、素直はそう思った。
「保村さん? 彼なら三〇四号室にいるわよ」
「ありがとうございます」
看護士に孝也の居場所を聞いた翔はお礼を言った。
「よし、三〇四号室に行こう」
幸いなことにエレベーターはすぐに降りてきて、彼らを載せて昇った。話によれば、彼は三〇四号室に入院している中原佳代という患者の見舞いによく来るらしい。
「でも、保村くんもこんな日にお見舞いで、大変だよね」
裕美のその言葉に全員がうなずく。そうこうしているうちに目的の病室の前にまでやってきて、ノックをせずに開く。
「おい、翔、ノックぐらいしないと――」
素直の注意は、そこで止まってしまった。なぜならば、先ほどまでの考えが間違いだったことに気づかされたからだ。
「すごいケーキだね、孝也……くん?」
「だろ? ちょっと奮発して買ったん……だ……」
ドアの方を向いて固まる病室内の二人。外の人も予想とは違った光景に唖然としていた。患者用のベッドに置ける机の上には丸太を模した長さ五十センチ程度のロールケーキ。孝也が用意したのか、二つの小皿に、二つのフォーク、そしてケーキを切るための包丁も置かれていた。
部屋の中を、沈黙が満たしていく。どちらも何も言えないまま、時間だけが過ぎ去っていった。
その後、孝也の発した「何、やっているんだ、お前ら?」という言葉にみんな一斉に動き出した。佳代専用の病室は一人にしてはやたら広いため、全員が入ってもまだスペースに余裕があった。椅子だけでなく、病院から七人分の小皿とフォークまでも用意してもらう。
「ねぇ、中原さんはロールケーキが好きなの?」
「うん、このスポンジのふんわりとした触感が大好き」
「私も! この中の生クリームがたまらないのよね」
女子は佳代を囲んで、和気あいあいとしていた。孝也も佳代のそんな様子に安心していた。
「なぁ、彼女はケーキを食べて大丈夫なのか?」
「ああ、大丈夫さ。主治医にも聞いたら、今日ぐらいなら平気だって」
ロールケーキを少しずつつまみながら、素直の疑問に孝也は答える。そんな彼に翔は耳元でささやく。
「しかし、保村も隅に置けないな」
「な、何でだよ」
「あんなに可愛い彼女がいるんだ。そりゃ、クリスマスイヴでもお見舞いに行きたくなるよなぁ」
翔のそのささやきに、孝也は一気に真っ赤になる。
「な、なななな、何を馬鹿なことを、言い出すんだ!」
「そこまで照れることはないんじゃないかい?」
彼のからかい半分の言葉に慣れていない孝也は慌てる。そんな彼の様子に満足したのか、翔はフフフと笑い出した。
「藤沼も、その辺で止めておけ。病人の前で失礼だ」
静かにそう言ったのは陽正だった。翔も彼が当たり前のことを言っていることがわかっているので、笑うのを止める。
「でも、皆さんが来てくれて良かったわ」
佳代は嬉しそうに微笑んでいた。
「クリスマスなのに、広い病室で二人だけっていうのは、それはそれで淋しかったから」
ニコニコしている彼女の笑顔に、男性はおろか女性までもが唖然としていた。本当に彼女は入院患者なのだろうか。実は大して酷い病ではないのかもしれない。そんな思いが全員の胸に作り出されたとき。
「うっ……!」
突然、彼女が苦しそうに呻き、心臓に手を当てている。いや、服――パジャマなのだろうが――をも引き裂かんばかりに押さえつけていた。額には玉の汗がものすごい溢れている。痛みなのか苦しみなのか、それに耐えるように彼女は歯を食いしばっている。
「佳代!!!」
孝也の声がひどく病室に響いた。
あの後、孝也が急いで医者に連絡を取ろうとして枕元のナースコールに手を伸ばした。駆けつけた医者に全員追い出され、廊下でただただ待つだけだった。十数分後に出てきた医者から告げられた言葉は冷たく、感情がなかった。
「今日はもう面会は無理だ、今は薬で眠っているし、いつまた発作が起こるやもしれん」
突き放すように言うと、医者は再び病室に入っていった。誰も、何も、言えなかった。冷たい廊下で時間だけが過ぎていく。
「……な、なぁ、彼女は一体、何の……?」
翔が恐る恐る聞くと、孝也は小声で答えた。
「心筋、漸次、弱体症。心臓の筋肉が弱っていく、治ることのない病気なんだ」
「嘘! それじゃあ、彼女は……」
真理子はそれ以上、言葉を続けることができなかった。他の皆は口にこそしないが、誰もが同じ想いだった。
「あ、でも、心臓を移植するとか、ペースメーカーを使えば……」
紗織がおもったことを口にしてみる。他の皆も、その手があったかと顔を明るくするのだが……。
「移植をしても再発する恐れがきわめて高いし、電気ショックには弱った心筋がなぜか反応しないんだ」
「当然、薬での治療も……効果がないのか?」
陽正がすでに返ってくる答えを予想した上で、発言した。そして、彼の予想どおり、孝也は否定した。
「薬で一時的に心筋の力を戻すことも出来るけど、副作用が強すぎる上に完治するわけじゃないんだ」
そこまで黙って話を聞いていた翔は、ようやく口を開く。
「心筋漸次弱体症なら、確か人工心臓でポンプの代わりなるんじゃないのか?」
「藤沼の言うとおり、人工心臓なら延命は出来る。けど、費用はかかるし、体にかかる負担も大きいんだ」
そこまで言い切ってから、孝也は瞼を閉じ、少し深呼吸をして、続けた。
「それに……彼女は、そんな延命を、望んじゃいないんだ」
きっと孝也本人はそのことに納得はしていない。誰の目にもそのことが明らかだった。なぜなら、彼の顔には悔しさや悲しみがあったからだ。
「さっきの医者たちが行っていたことは、心臓マッサージでただひたすら心臓を動かすだけなんだ」
「そ、そうか……なんて、言っていいのか分からないけど……ごめん」
浩太は無意識の内に謝っていた。孝也がそれに対して、『謝らなくてもいい』と言いかけたそのとき。
「待てよ、勝手に殺しちゃいかんだろ。今もちゃんと心臓だって動いているんだし」
まるで暗さを払拭しようとするかのように、明るく軽い口調で翔が言った。その明るさが、周りとかみ合わないため、女性陣は彼のことを不審がった。
「そうさ、俺たちが信じないで、誰が彼女を信じるんだよ。きっと彼女は今、辛いはずなんだ」
「藤沼……お前……」
素直が何かを言いかけたが、翔はそれを聞かずに次の句につなげる。
「それに彼女、結構可愛いから、今すぐ死んじゃうなんて、もったい――ぐぁっ!!!」
最後まで言い終わらないうちに、その場にいた女子三人の拳骨が見事に後頭部に決まった。
「藤沼くん、最っ低!」
「どうして、そういう空気の読めないことを平気な顔して言うの!?」
「いくら冗談にしても、言い過ぎよね!」
散々な言われようである。傍目から見て、彼が場を考えずにそう言ったのだから仕方がないことである。だが、そんな光景を見て、孝也や浩太といった他の面子はみな笑っていた。
ただ一人、素直だけは怒りも笑いもせず、ただ傍観していた。
それから、孝也は一人病院に残ると言い、他の皆は駅前まで来ていた。あの場に残っていても、何も出来ないのだから。
「それじゃあ、後は各自解散ってことでいいのかな?」
翔は腕時計を見ながら、皆に確認をとる。現在の時刻は、二十時過ぎ。まだまだ夜も早いが、区切りの良い時間であった。
「んー、ちょっと早い気もするけど……仕方ないか」
浩太はそう言うと、紗織に向き合う。突然顔を向けられて、彼女は驚いた。
「あ、新井君、どうしたの?」
「辻本さん、今から東西京に行ってみないか?」
東西京というのは、美しが丘からさらに東京都に近い区の名前である。紗織の記憶が正しければ、確かそこで巨大なクリスマスツリーが置かれているという。彼はそれを自分と見に行くために誘っているのだろうかと、彼女は考える。もしも――万が一にもそうならば、彼女には断る理由は全くなかった。
「うん、私、東西京に行ってみたかったんだ」
そう言ったとき、彼女は頬が少し熱くなるのを感じた。
「なら、俺は家に帰るかな。読み物はまだたくさんあるし」
陽正はいつもの調子だった。クリスマスでも、正月でも、彼にとっては特別なものではないのだ。
「じゃあ、私も帰るわ。今からなら家族でのお祝いに間に合うかもしれないし」
真理子も同じようなことを言い出した。
「よし、ならば、遠藤さん、俺と――」
「ごめんなさい!」
「拒絶、早!」
翔が裕美を誘おうとしたとき、即座に拒絶される。一応、冗談だったとはいえ、ちょっと傷つく翔であった。
「私、近衛君と過ごそうかと思っているし……」
裕美がそういうと、素直は少し思案する。彼女にしてみれば、かなり大胆なことを言っているのは明白だ。言われたコチラとしても、もう頭に血が上りすぎて、倒れてしまいそうだった。
しかし、今日中に確認しておきたいことが出来た素直は、想いとは別の返事を口にした。
「遠藤さんには悪いけど、今日じゃなくて明日にしないか?」
「明日!?」
断られる可能性がなかったわけではなかったが、やはり言葉にされるとショックだった。
「えっ! あ、ああ、今日は多分どこへ行っても混んでいるだろうから、明日遊ぼうっていうこと」
彼の最初の驚きの言葉に、裕美はさらに不機嫌になったが、次の言葉でようやく納得した。裕美は、人ごみは好きではない方だ。だから、彼が自分のことを気遣ってそう言ってくれたのだと思うと、先ほどの不機嫌などはどこ吹く風となる。
「うん、じゃあ、明日にしましょう」
「ごめんな、今夜またメールするから」
彼女の驚きで、傷つけたと思った素直はフォローを入れる。
「では、藤沼、今日は男二人で過ごすか」
「なっ! ちょっと待て、俺には男趣味はねえよっ!」
逃げようとする翔の首を素直は二の腕で抱え込む。彼の顔は笑顔で歪んでいた。何か企んでいる、そんな顔つきだった。
「逃げんなよ。遠藤さん、それじゃあ、また後で!」
「うん、メール待ってるから」
駅に向かう裕美に手を振りつつ、素直は翔を駅とは反対の方向に引っ張る。
「いてぇ! 痛いって、近衛ぇ!」
それを合図に、他の面々も解散するのだった。
「――んで、話はなんだ?」
駅から離れた、喫茶店に向かう道のりの途中、翔はぶっきらぼうに言った。ちなみに、とっくに素直は彼の首を離している。
「おや、バレていたのか」
彼は先ほどまでの行為を詫びることなく言った。電灯の光による銀色が街を照らす。これで隣にいるのが女の子だったら……と、二人は考えていた。
「まぁ、さっきの病院でのお前の振る舞いが気になってな」
「俺? 別に変じゃなかったと思うけど?」
素直は翔の顔を改めて見る。確かに翔のいうとおり、病院での彼の様子は普段どおりだった。学校でもいつもバカをやっているのだ。アレでこそ、藤沼翔という男なのかもしれない。
だが、素直にはどうしても腑に落ちない点があった。
「いつものようにバカをやる直前の台詞、あれがどうもお前らしくない」
「俺らしいって、何だよ? シリアスな俺は駄目なのか」
「そうじゃない、あのときのお前の顔は他人事じゃないみたいだった。それに、あの心筋なんとかに対する延命方法が詳しかったしな」
ばれている。これほどまでに驚かされたのは久しぶりだった。
「……言い訳しても無駄みたいだな」
「言えない訳があるなら聞かないさ。お前のプライバシーを侵害しようなんて思ってないしさ」
「いや、言っておくよ。実はな、俺には昔からよく人を笑わせてくれる叔父がいてな」
「ちょっと待て、長くなりそうだな。どこかに寄るか?」
定番イタリアンファミレス『ギ・ラブカ』。しかし、いつものように料理を注文することはなかった。食べながらだと、どうしても食べることに集中してしまうためだ。
「――んでな、そんなこともあり、その叔父は、俺から見ると本当に面白い人でさ、会うたびに笑わせてくれたんだ」
話し始めこそ明るかった翔の声がだんだん暗さを帯びてきていた。先ほどまでは叔父の人となりを翔が説明するだけだったが、いよいよ話は核心に迫る部分にきたようだ。
「けど、二年前の冬に、急逝したんだ」
「急逝って……亡くなったの、か?」
「ああ、死因は心筋漸次弱体症による心臓麻痺だった」
「そ、そうだったのか。それでお前は……」
叔父の死を口にした翔の顔は、病院で見た医者のように感情がなかった。
「叔母さんによれば、誰にも相談することがなかったみたいでさ」
そのため、素直は彼がどんな感情を胸に今抱いているのか分からなかった。
「俺が思うに、叔父は治らないことを知って諦めたんだと思うんだ」
その拳は固く握られていた。
「でもさ……俺はそれが悔しくて、悔しくて堪らないんだ」
歯を食いしばるその頬に涙はない。とっくの昔に涙は枯れ果てたのかもしれない。あるいはもう心の整理がついているのかもしれない。
「諦めて欲しくなかった、最後まで生きようとして欲しかった。あの叔父だからこそ!」
素直は黙って聞いていた。彼は身内の死を看取ったことがないからだ。今年の夏に母方の祖父母夫婦の家に遊びに行ったときにも、まだまだ二人は元気そうだった。だから、素直には身内の死について口を挟めることは出来ない――はずだった。
「その叔父さん、誰にも相談しなかった訳は、中原さんが延命を断る理由と同じかもしれないな」
なのに、素直はそう口に出していた。
「話を聞く限り、治らないからって命を投げ出すような人には聞こえない」
翔は素直の顔をじっと見ていた。自分のつたない説明で、叔父の人柄を知ってくれた素直が嬉しかった。だから、翔は彼の次の言葉に期待する。
「人を楽しませてくれる人だからこそ、家族や友人、同僚に心配されたくなかったんだ」
素直は頭をフル回転させる。
「自分が病気になったばかりに、家族に介護とかお金とかの苦労を、背負わせたくなかったんだよ、多分」
自分の考えを言葉にしても、全て相手に伝わることはない。なぜならば、思考と言葉との間には距離があるからだ。誰かからそう教わった記憶が頭をよぎる。
「中原さんも、家族が苦労するのが嫌で延命を断っているんだと思う」
だからこそ、素直は自分の浅はかな想像を一所懸命に伝えようと努力する。
「アイツも――保村もそれが分かっているけど、納得していない感じだった」
自分で言っていて、素直は心苦しかった。こんな言葉は既に誰かに言われているかもしれない。何も知らない友人が言う言葉に、怒りしか感じないかもしれない。
「俺が言っても説得力はないけど、叔父さんのこと、少し考えを変えてみないか?」
だというのに、素直は翔が涙していることに気がついた。その翔はいつの間にか涙を流している自分に気づいた。素直の言葉が、翔の心の琴線を弾いたのだろうか。翔は涙を拭うと、素直を改めて見た。自分の友人、種目が多少違うが部活内では互いに競い合うライバル。これほどの友達がいることは、神に――キリストに感謝しなければならないかもしれない。
「そう、だな……そうだよな!」
吹っ切れたとは断言できない。それどころか、叔父のことを素直に話しても、翔の中で何も変わらないかもしれない。だけど、変わる決意はしなければ、いつまでも気持ちばかりくすぶるだけだ。なぜならば――。
「俺は、人を笑わせる人間でなければならないんだからな!」
大声でそう言う翔の頭を、素直はひっぱたく。
「いってぇな! 何するんだよ」
「ファミレスで大声だすな、迷惑だっての。それに、お前のギャグはつまらないし」
しかし、彼の正論に翔は納得できないようで、しかめっ面をしていた。素直はその様子の翔を見て、いつもの彼に戻りつつあるのを感じたのだった。
その夜、帰宅した翔はベッドで横になりながら、物思いにふけていた。保村に電話してみようか。彼も、自分の大切な人を心筋漸次弱体症になったのだ。悲しみや苦しみを分かち合おうと思っているわけではないが、話をしてみれば彼の気分も変わるかもしれない。うん、そうしよう。
そう決意した翔は夜の十二時を過ぎていることも忘れ、電話を取り、孝也に怒られるのだった。
終