The morning moon which is in his eyes
訳:彼の瞳に映る明けの月
午前五時。しかも、今日は日曜日という学生には嬉しい休日。そんな時間に起きている学生は、大会などで遠出する場合を除いてほぼ皆無だろう。
けれど、例外は常にあるものだ。近衛素直も今日がそんな例外だった。秋で涼しいとはいえ、布団から出るにはまだ早い時間。いつもの彼の起床時間は七時なのだ。素直は横にある目覚まし時計を見て、それよりも二時間早く起きたことに気がつく。
(……ム、時計、壊れた……?)
だが、思考までは目覚めていなかったようで、勘違いをしていた。そのため、外がまだ薄暗いことにも気づかず、ノソノソと布団から這い出て、服を着替える。彼の日課でもあるジョギングをするためである。本来、彼は二百メートルの短距離選手のため、そこまで持久力に力を入れる必要はない。二百メートルでは、コーナーでの技術で決まると言われているからだ。むしろ、単発のダッシュを何本かやった方がはるかに練習になるだろう。
しかし、彼は単純に走ることが大好きなのだ。そのため、中学に進学してから毎日といっていいほど走ったものだ。中学である怪我を負うまでは。
それは、彼が中学最後の大会で全国優勝を飾った次の週。まだ疲れも取れていないというのに、彼は限界に挑戦すべく、学校のトラックで走りこんでいた。そして、躓いた。ただ単に転んだだけだと彼は思い、そのまま帰宅するが、次の日には立ち上がれないほどの痛みとなった。
病院での検査の結果、重傷の『肉離れ』と診断される。それは、陸上選手である彼に対しての事実上の引退宣告だった。しかし、陸上はともかく、走れないことが彼にとってショックだった。そのまま、治療のために入院することになった。満足に走れない日々は彼にとってストレスでしかない。
そうして、三ヶ月病院で過ごし、彼の中学生活は終わった。
「おはよ――」
トレーニングウェアに着替えた彼は一階のリビングに降りて驚く。誰も居ないどころか、電気さえもついていないのだから。そして、壁にかかっている時計を見てようやく理解する。
「……壊れていたのは、俺の頭だったか……」
しかし、今更また布団に戻るのは癪なので、いつもどおりコーヒーメーカーをセットする。そして、トーストを一枚焼いて、そのままコーヒーと一緒にがぶりつく。とても陸上選手とは思えない朝食である。
「さてと、行ってきます」
誰も居ない部屋に向かって、彼は出かけの挨拶をする。
五時半という時間は素直を多少ワクワクさせる。いつも八時ぐらいから走るのだが、そのときは近所のおばさんの路地端話などが聞こえてくる。そして、公園には元気な子供たちがこれまた元気そうに走ったりしているのだ。
まるで、昔の自分のように。
だが、まだ薄暗い中、道中には誰もいない。あるのは、空で輝きを失っていく月のみだった。まぁ、それがこの時間の当たり前なわけで……。
「はっ……はっ……」
さすがにまだ白い息にはならないが、それでも肺に入ってくる空気は冷たい。住宅街を抜け、駅前にやってくる。さすがにチラホラと休み返上でサラリーマンが数人いる。その誰もがこちらにチラリと視線を向けてくる。素直はその視線も気にせず、ただ前に向かって走っていた。
そして、目的地でもある美しが丘公園にまでやってくる。そういえば、三ヶ月前にはここで雄也と舞香に会ったことを思い出す。
永瀬雄也と北上舞香。雄也は、近衛と同じ中学校出身の友人だ。部活に入っていないだけで無個性とよく言われてしまうものの、それなりにもてるようだ。そんな彼のガールフレンドでもあるのがタッキーと呼ばれている舞香なのだ。人気アイドルなのだが、実は自分とそう変わらない年齢である。あの二人は現在、大層仲が良く、ときどきここで逢引(雄也はこの言葉を否定している)している。
休憩のため、一旦芝生の上に寝転ぶ。冬間近の秋とはいえ、汗は関係なくしたたり落ちていく。瞳を閉じて、呼吸を整えようとする。
『でも、近衛くんって、面白い名前ね、『素直』だなんて』
すなお……か。漢字も一緒なので、そう呼ばれることは決して少なくない。だが、それはからかい程度の、いわばニックネームとでも言う代物になっていた。事実、親しくもない人から時々『すなおくん』と呼ばれる。
しかし、ただ一度だけ……そう、一度だけ真面目にそう呼ばれたことがある。まさか、その読み方で人名はないだろうと思っていたのにだ。それで自分のことをそう呼んだ人の名前は――。
「近衛素直くん!」
ようやく進級して、クラス替えのお祭り(素直はそう表現した)も収まった五月だった。確か、桜も散ってしまい、夏草がチラホラと見られたと思う。そんな平和とも言うべきある日の昼下がりに、その声は教室に響いた。
待ちに待った昼休みで、弁当をカバンから出したときだった。隣に座っていた友人の藤沼翔は何事かと周りをキョロキョロしている。自分も、最初誰のことだか理解できなかった。『近衛』と読んでいるが、自分は『すなお』などではない。確かに、知り合いがあだ名としてそう呼ぶときもあるが……。
「素直くんッ!!」
二度目の『すなお』コール。
「おい、アレ……お前のことじゃないか?」
翔が小声で言った。ここで、初めてハッとする。
「俺なのか!?」
「だって、『すなお』と呼べそうな名前の持ち主はお前しかいないだろ?」
頭の回転の悪さゆえの迂闊だった。ともかく、その声の主に会いに行かなければ。翔に小声でお礼を言って、席を立つ。
「やっと来てくれたね、素直くん!」
これで三度目。目の前にいるショートカットの女の子がそう言った。間違いなく、勘違いしている。
「あのさ、俺は――」
「ちょっと話があるから、来てくれない?」
名前も知らない女子に連れられ、来たのはグラウンドだった。その校舎とグラウンドを挟んで通路がある。その通路は、校舎と反対側では芝生の斜面となっており、グラウンドになっている。その芝生の斜面に二人は座った。
「それで、話って?」
昼飯の弁当も名前の訂正にもようやく諦めがつき、大人しく彼女の話を聞くことにする。
「うん……あ、その前に、自己紹介を忘れてたね」
これで素直の疑問が一つ、解決されそうだった。
「私は遠藤裕美。同じクラスだから、これからよろしくね」
同じクラスと言っている彼女を素直はもう一度見てみるが、クラスにこんな女子がいたかなとしか思えなかった。もっとも今日以降は二度と忘れないだろうけれども。
「遠藤さんか……俺は近衛――」
自分も自己紹介すれば、誤解が解けると思い、言葉を出すが……。
「知ってるよ、近衛素直くんでしょ?」
彼女の先だしによって、それも防がれてしまう。しかし、どうして彼女は自分の名前を知っているのだろうか。素直はそれが気になったので口にしてみる。
「何で俺の名前を知っているんだ?」
「だって、全日中の二百メートルの優勝者でしょ」
全日中――全国中学校体育大会の略称のことである。そこで優勝することは文字通り全国一となるのだ。だが、そこまで知っていながら、どうして間違って名前を覚えているのかが不思議でしょうがない。
「ん、まぁ……確かにそうだ」
「それでね、質問なんだけど……」
彼はそこで初めて彼女の目を見る。一瞬、その目に惹かれそうになった。これは、恋とか愛だとかの類ではない。ただ、その純粋な眼差しに心を奪われそうになったのだ。
「どうして、陸上部に入らないの?」
ドウシテ、ハイラナイノ。
気がつけば、その言葉を頭の中で何度も反復させていた。しかし、時間はまるで止まったまま。頭の中だけが、時間と切り離されたかのようにただその言葉をリフレインさせていた。
ドウシテ、ハイラナイノ。
「素直くん?」
そこでリフレインは止まる。彼女が心配そうにこちらを見ていた。そんな目で見られると、さらに答えにくかった。
「ごめん……!」
気の利いた言葉もかけられず、素直はただその場から逃げるしかできなかった。
「素直くん!」
「俺は『すなお』じゃない、『もとなお』だ!」
まるで怒っているかのようにそう言うと、彼は校舎に入っていった。呆然とする彼女を一人残し。
ドウシテ、ハイラナイノ。
答えは簡単だ。肉離れによる入院生活で陸上を捨てたからだ。
走ること自体が嫌いになるほど、彼は子供ではなかった。あのとき疲れが残っているのに走った自分が悪いのだから。リハビリしたから人並みに走ることは可能だ。
しかし、あのときの足を要求されたくはなかった。もう再現不可能だろうから……。
その日の放課後。昼間の時のことを謝りたくて、彼は裕美を探す。しかし、彼女はカバンを掴むとサッサと教室を出て行ってしまったようだ。だが、下駄箱に彼女の革靴が残されているので、まだ学校内にはいるようだ。どこにいるのだろうかと、クラスに残っていた数名の女子に聞いてみる。
「なぁ、遠藤さんがどこにいるか知らないか?」
「裕美のこと? 彼女なら陸上部じゃないかな?」
「近衛君、まさか……裕美に気があるの?」
「んな……そういうんじゃなくて、ただの用事だ」
彼女たちのまさかのからかいに素直は思わず不機嫌になる。
「ごめんごめん、ともかくグラウンドだと思うよ」
「ああ、ありがとう」
女子たちにお礼を言うと、素直は教室を飛び出す。彼女たちはそんな様子の彼をちょっと首を傾げて見ていた。
「次、ダッシュ行くぞ!」
「「「はいッ!」」」
グラウンドに言ってみると、女子の言うとおり確かに陸上部がいた。その中にマネージャーとして裕美も混じっていた。飲み物作りや選手のタイム測定などで忙しいそうで、とても話ができる状況ではなかった。
「仕方ない……終わるまで待つか」
次の日に持ち越すと、ズルズル引きずってしまいそうなのでそう決めた。
「「お先に失礼しますッ!」」
陽もとっくに沈んだ頃。ようやく仕事が終わり、裕美ともう一人のマネージャーは先に部室を出る。
「やれやれ……一年経っても相変わらず辛いものだよね」
隣にいる船越真理子がそう言ってくる。彼女は同じ時期にマネージャーとして陸上部に入部した。裕美とは違い、中学でもマネージャーだったので、仕事には慣れているようだった。そんな彼女が辛いという仕事によく自分がついていけるな、と思った。
「でも、真理子はすごいよ、いつもテキパキしていて」
「裕美の成長振りには負けるって。あなた、すごいもん」
お世辞でも嬉しいことを言ってくれる。真理子はそんな気遣いもできる良い友人なのだ。
「あら……誰だろう?」
真理子は何かに気づいたようだ。校舎とグラウンドを挟んだ通路に、ポツンと人影が一つ。すっかり陽も沈んでしまい、最初は誰なのか分からなかった。だから、それが昼休みに話をした素直であると気づくのに随分と時間がかかった。
「す……近衛、君?」
思わず『すなお』と言いそうになり、苗字で呼ぶ。彼の名前でもある素直という文字はとてもシンプルだった。そして、その文字が表す意味を考えても、良い素敵な名前だと思った。だから、わざわざ下の名前で呼んだのだが……。
昼間の最後に怒っていた様子から、文句を言いに来たのかなと彼女は思った。考えてみて恐ろしくなったが、非があったのは自分だから、と言い聞かせる。
「遠藤さん、話があるんだけど……いいかな?」
だが、その声の感じから、どうも文句を言いに来た訳ではなさそうだった。真理子が居る手前、どうしようか悩んでいたときに……。
「あ、じゃあ、私は先に帰るから、裕美はゆっくりしていって」
「え、でも……」
願ってもない申し出ではあるが、真理子を一人にするのは罪悪感がある。けれども、彼女は裕美の気を知ってか知らずかただ笑顔でいるだけ。
「うん、ありがとう、真理子」
裕美は彼女の厚意に甘えることにする。
「気にしないで、彼も大事な話みたいだからね。じゃ、また明日!」
そう言うと、真理子は二人から遠ざかっていく。
「うん、バイバイ」
裕美も彼女の背中に手を振る。そうして、見えなくなったところで彼女は素直と向き合う。少し見上げる形で、彼の顔を見る。
「それで、話って……?」
「歩きながら話そうか、遅くなっちゃうし」
空には星がいくつか輝いていた。雲が多少あることが残念と言えば残念だった。素直と裕美は並んで歩いていた。駅までの十分の間で話さなければならない。
「えっと、その、昼間はごめん」
まさか謝られるとは思わなかったため、裕美はキョトンとしていた。
「私、何かされた?」
事情が飲み込めないため、仕方なく彼女は質問する。素直はばつが悪そうに言葉をつむぐ。
「その……昼間に怒ったように叫んだこと」
「あっ」
名前を訂正したときのことか。裕美は納得をした。だが、悪いことをしたのはこちらだから、そこまで謝罪されても困るだけだった。
「ううん、私こそ、近衛君の名前を間違って呼んで……」
「いや、それはそこまで気にしていないから大丈夫」
「けど……私、あなたの名前がキレイだと思ったから」
素直は最初、彼女が何を言っているのか分からなかった。
「素敵な名前に惹かれたから、私……私……」
そこで裕美はなぜか涙を流している自分に気づく。素直も突然泣き出した彼女に対してどうすればいいのかオロオロしている。自分が泣かせたのでは、と心配までしている。
「ごめんなさい、泣き出したりして……」
「あ、いや……けれど、俺の名前がキレイで素敵だから、『すなお』と呼んでいたのは分かったよ」
彼女が泣き出した理由は分からないが、名前についてはよく分かったつもりだ。確かに、『素直』とは良い言葉だと思う。今までは、単に自分の名前と同じだったから、むしろ嫌いだったのに。
「そう思うことが悪いことだなんて、誰も思わないから。ほ、ほら、涙、これで拭いて」
自分にしては気が利いていると思った。素直は後ろポケットに忍ばせてあるハンカチを裕美に差し出す。彼女もそれで、彼からハンカチを受け取り、涙を拭いとる。まだ鼻をグズグズしていたが、しゃべれないほどではなかった。
「うん、近衛君がそう言ってくれて、気持ちが楽になった」
「それで、あのときに言わなかった質問の答え、今――」
『どうして、陸上部に入らないの?』という、その質問に対する答え。彼女は彼の口から言葉が出るのを待った。
「俺、足を怪我して……弱気になっていたんだな」
「怪我?」
「ああ、それでもう以前のように走れないんじゃないかって、怖かった」
向こうから、帰宅中のサラリーマンやら何やらが通り過ぎていく。水銀灯の光で二人が歩く道は白く照らされていた。
「だから、陸上から逃げたんだよ。もうあれだけ速く走れないだろうって」
それが本当なのか、正直自分には分からなかった。ただ、素直が思う心に秘められた理由がそれなのだ。
「……今から――」
「えっ?」
裕美が何かをボソッと言ったので、彼は聞き返す。
「今から、走ればいいじゃない」
恐れず、前に向かって、止まらずに。そんな続きの言葉が思い浮かぶが、彼女はそのあとに何も続けなかった。素直は、その言葉に衝撃を覚える。同じような言葉を、何度聴いただろう。そのどれもが、これほどまでに心には響かなかった。名前を褒めてくれた、瞳が純粋な彼女だからなのか。
それとも――いや、それは違う。素直はその感情を彼女に持っていることを否定した。
「うん、そうだね。走ることを怖がらなくても良かったんだ」
ただ、いずれにしても、彼女の言葉で彼は軽くなった。四肢を押さえつけていた鎖の枷がいっきに外れたように、自由だった。そこで、二人のその話題を終わった。駅につくまで、二人とも何も話さなかった。
「それじゃあね、近衛君」
美しが丘駅改札口前で、裕美はそう言った。その目は昼間と変わらず、純粋だった。
「ああ、また明日」
素直は彼女にそう返す。そこで、人ごみに紛れて少女の小さな背中は改札の奥へと消えていった。
「近衛君?」
目を開けると、目の前には裕美の顔があった。
「遠藤さん……なんでここに?」
広場にある時計を見ると、既に九時を過ぎている。大体二時間は寝ている計算だ。
「なんで、じゃないよ。今日は一緒にお出かけしようと思って携帯に電話したのに」
携帯は部屋に置きっぱなしだ。恐らく、電話に出ないので、ジョギングから帰ってきていないと判断して、探しに来たのか。だとすれば、健気だなぁ、とのんきに思った。
「それなのに、ここで寝ているんだから……風邪、引いちゃうよ?」
そう言って、手を差し出してくる。素直は少し悩んだ挙句、その手を掴んで立ち上がる。
「そうだな、風邪を引いたときは、お見舞いに来てくれるかな?」
ちょっとした冗談として言ってみる。すると、彼女は予想以上に慌てていた。からかいすぎたと思い、謝ろうとするが――。
「うん」
と、短くだが、OKの返事が返ってきた。その仕草に、胸が脈打つのがハッキリと聞こえる。だが、素直はまだ信じない。これが、恋なのだとは……。
「と、ともかく、帰ろうか」
「そ、そうだね」
二人とも、どこかギクシャクしながら芝生の広場から立ち去る。その光景を見た人は、誰もが彼らが恋人同士に見えたようだ。
月が、おぼろげに空に映えていた。
終




