The summer vacation is not yet over
訳:夏休みはまだ終わらない
「――だから、ごめんね」
男の目の前にいる彼女がそう言った。彼は、その言葉を信じられず、ただ口をポカンと開けているだけだった。
「明日からは昔のように、仲の良い友達でいましょ?」
ショックがでかすぎて、彼女の言葉など、右から左へ抜けていく。
「それじゃあ」
彼女は彼に背中を見せて、夕焼けで紅に染まった公園から出て行った。振り返ることは、なかった。彼が手を伸ばしても、もう届くことはない。後に一人、取り残された男は呆然と夕日を眺めるだけだった。
「ちっくしょう」
夜の帳が下りた頃。彼は美しが丘駅北口の繁華街をブラブラ歩いていた。先ほどから何度も同じ言葉を繰り返し繰り返し。永瀬雄也は呟きながら歩いていた。
(折角の夏休みだというのに、俺は何をやっているんだ?)
折りしも、高校二年生にとってはまだ喜ばしい夏休みという時期であった。長い長い、夏の休みのときに彼女に振られるとは、情けない話である。
(はぁ、本当に悔やみきれない)
ふと見上げると、オーロラビジョンではある商品のCMをしていた。彼は足を止めて、それを眺める。今を時めく人気アイドルのタッキーこと北上舞香が飲料水を飲んで何かを言っている。
「へっ、女の子なんて、捜せば他にもいるさ!」
雄也はそう勇気付けて、再びその歩を進める。だが、足を出した途端、前から歩いてきた人と衝突してしまう。
「うわっ!?」
「きゃっ!」
二人は互いに後ろへ吹っ飛ぶ。雄也は不幸なことに、道路に頭をぶつけてしまう。
「いったぁ」
「だ、大丈夫ですか!?」
彼と衝突した女性が顔を覗いてくる。
「あ、ああ、たぶ――」
雄也は彼女の顔をマジマジと見る。ショートカット、綺麗な顔、そして身につけているイヤリング。一度自分の頬を叩く。再び彼女の顔を見てみても、間違いない。
「き、君は、タッキー!?」
先ほどまでオーロラビジョンに映っていたアイドルだったのだ。これにはさすがに誰もが驚くであろう。
「あれ、サングラスが……でも、私のことを知っているんだ、嬉しいな」
「当たり前じゃないか、何だってアイドルなんだから!」
目の前に本物のアイドルがいることで、雄也は知らず知らずのうちに高揚していた。
「そうだね、あっ、ねぇ、あなた、今暇?」
「え、ああ、うん」
「それなら、ちょっと付き合って欲しいの」
「そう、雄也っていうんだ」
彼女に言われて着いてきた場所は、美しが丘公園だった。つい先ほど、彼女に振られた場所だ。
「ああ、美しが丘高校に通っているんだ」
「高校かぁ、私も通っているけど、ほとんど行けていないんだ」
「アイドルって、大変そうだもんな」
ここまで歩いてくる間に、彼女と話をしてみて分かった。目の前にいる少女は、テレビで見る北上舞香とは大分違う。雄也は彼女に質問する。
「ところでここまで何も聞かずに着いてきたけど、そろそろ教えてくれないかな?」
「うん、いいよ」
そう言うと、前を歩いていた彼女はこちらを振り返る。
「見せたい景色があるの」
「景色?」
「ほら、着いた」
彼女の隣に並んだ俺の眼に映ったのは、美しが丘駅周辺の夜景だった。決して、綺麗だとは思わない。だが、あの光の中で、人が一人一人生活していると思うと感動してしまった。
「うわぁ、この景色を見るためにわざわざ?」
「そ、仕事で疲れたときは、時々こうして、ね」
そのとき、舞香の眼に一瞬だけ黒い影が宿ったのを、雄也は見逃さなかった。だが、こんなことを質問しても良いのだろうか。そんなためらいの感情が湧き出る。
「俺と一緒に見て欲しかったのは、どうして?」
「独りじゃ、寂しいから」
ポツリと、その口から漏れるように言った。
「そっか、独りの辛さは良く分かるよ」
「えっ? どうして?」
「今日、彼女に振られたばっかりなんだ」
初対面でもある彼女に言うべきことじゃないかもしれない。だが、彼女には暗い顔をしてほしくはなかった。だから、雄也はあえて明るく言った。
「『永瀬くんよりもカッコいい人を好きになっちゃったの』とか言ってさ、なんてカッコ悪いんだろう」
「え、雄也くんは十分カッコいいじゃない!」
「君の言うとおりさ、アイツももったいないことをしたよな」
この言葉に、舞香は思わず笑った。そして、その後彼の顔を最初に会ったときと同じように覗いてくる。
「ねぇ、じゃあさ」
「ん、何?」
先ほどまでの、笑い声がなくなったのをいぶかしげに思い、目線を景色から彼女に移す。舞香は真剣な眼差しでこちらを見てくる。
「私と、付き合ってみる?」
「……え?」
突然、言われたので、その言葉を反芻する。
「えええぇえーーーっ!!」
そして、意味を理解した雄也は、思わず叫んでしまった。同時に、顔を紅潮させる。
「い、いや、あ~、あのさ、だけどアイドルを発言が――」
最早何を言っているのか分からないほど、彼は焦っていた。だが……。
「プッ」
「え?」
彼女は吹き出したかと、次の瞬間大爆笑をする。
「アハハハハハ! 雄也くん、驚きすぎだってば」
笑いすぎて、涙まで出てきたのか、涙を拭っていた。
「いや、だって」
「さっきのは冗談だってば」
状況を理解できなかった雄也に、舞香は真実を告げる。
「じょ、冗談!?」
「そ、冗談だよ!」
「こらぁ、タッキー!」
彼は拳を振り上げ、舞香を殴る真似をする。
「ごめんごめん、ほんとにごめんね」
口では謝っているが、顔は満面の笑みである。
(でも、笑ってくれるだけど、俺は)
「ねぇ、明日の夜もここで会わない?」
「勿論!」
「何をニヤニヤしているんだよ?」
「え? あっ」
雄也と近衛素直はイタリアンファミレス『ギ・ラブカ』で昼食を取っていた。だが、向かいの席の彼に指摘され、雄也はハッとする。ほっぺをつねり、たるんだ頬を引き締めさせる。
「傍目から見てて、気持ち悪かったぞ、大丈夫か?」
「当たり前だろ! なんせ今日も――」
そこまで言って、彼は口を押さえる。
「今日も、どうした?」
「いや、今日も彼女と会う約束をしててな、今から楽しみでさ」
どうして、こうもとっさに嘘がつけたのだろうか。彼にはまだ昨日の振られたことを話してはいないのだ。ともかく、素直にとっては、なるほどと思ったのか頷いていた。
「俺は今晩も走るだけだ」
コーヒーを手に取り、飲みながら言う。
「近衛、最近、毎日走っているんだろ?」
大丈夫なのかと言いたいかのように、雄也は聞いた。
「中三で陸上を捨てた男がな、今からやり直すっていうのは、そういうことなんだ」
「ほんと、どうしてまた陸上を始めたのか、不思議でしょうがないよ」
雄也と素直は、中学からの同級生だった。もっとも中学時代は互いは顔も知らなかった。だが、素直が中学の全国大会で優勝したことで、彼は素直を知る。そして、美しが丘高校に入学し、間もなく素直と知り合いになる。それから、彼とはたびたびこうして出かけては遊ぶ仲になった。
「永瀬には関係ないだろ? 走りたくなったから、走るだけだ」
「遠藤さんが関わっているんじゃないのか?」
そこで、素直は飲んでいたコーヒーを気管を詰まらせる。
「ゲホッ、ゲホッ、なんで遠藤さんの名前が」
「ビンゴか、やっぱり遠藤さんがキーパーソンか?」
「悪い、今はまだ言えない」
先ほどまでと雰囲気が違う。雄也はそれを察知して、それ以上聞くことはできなくなった。
「分かった、お前が話してくれるのを待つさ」
「すまない、お詫びとして缶コーヒー一本ご馳走してやるから」
「いや、コーヒー飲めないから」
約束の時間、約束の場所。雄也は、先に来た。少なくとも、女性をこんな夜にこんな場所で待たしてはいけないからだ。待って、五分ほどして彼女はやってきた。
「こんばんは、雄也くん」
「こんばんは、時間ピッタシ」
二人は、夜景を見ず、公園内を歩くことにした。
「こうして歩いていると、昔を思い出すな」
「昔?」
雄也は聞き返す。
「私、お母さんが早くに死んじゃって、お父さんも仕事一筋でなかなか会えないの」
雄也は黙って、耳を傾けることにした。
「だから、昔はこうして公園で家族仲良く散歩していたなぁ、って」
「そっか、タッキーにも辛い過去があるんだ」
昨晩彼女が言っていた、『独りじゃ、寂しいから』という言葉を理解する。彼は、平凡な家族に囲まれて生きてきた。彼女のように、誰かと死別したわけでもなく、両親共に厳しくも親としての役目を果たしている。
ふと、気づけば、彼女がじっと雄也のことを見ていた。
「あ、あのさ、そのタッキーていう呼び方は、辞めて欲しいんだけど」
「え? どうして?」
「雄也くんには、テレビの中の私じゃなくて、ここにいる私を見てもらいたいの」
舞香は恥ずかしいのか、消え入りそうな声でボソボソと言った。テレビの彼女ではなく、ここにいる彼女。確かに、一緒にしては失礼かもしれない。
「タッ――北上、さん?」
「それも堅苦しいよ。私も下の名前で呼んでいるし、舞香でいいよ」
大胆なお願いに、雄也の心臓はバクバクと音を立てていた。きっと、顔も真っ赤になっているに違いない。
「ま、舞香」
「雄也くん」
気のせいか、彼女の頬も紅潮している。互いに見つめあう。二人は時間も忘れ、ただ見つめあっていた。
「あれ、永瀬じゃないか!」
突然の声にギクッとして、二人はハッと声の方に振り返る。彼らの後ろから、誰かが近づいてきた。
「こ、近衛!?」
「やっぱり永瀬か」
公園の電灯で顔を照らされ、誰なのか判明した。トレーニングウェアを着て、この辺りを走っていたらしい。この暗闇でも、汗を掻いているのが良く分かる。
「あれ、彼女、タッキーじゃないか!? お前、彼女はどうしたんだよ?」
「長くなるから、ベンチに座ろうか」
雄也は心臓をバクバクさせながら、心の中で涙を流していた。
「――そういうことか」
雄也の説明を受けて、素直が漏らした第一声はそれだけだった。
「そういうこと、舞香がここにいるのもそういういきさつさ」
「でも、近衛くんって、面白い名前ね、『素直』だなんて」
「『すなお』じゃなくて、『もとなお』ですけどね」
先ほど買った缶コーヒーを飲みながら答える。
「ま、それは置いといて、ジャマをして悪かった」
「いや、気にするなよ」
素直の謝罪に、雄也は軽く答える。彼が意図的にジャマをしたのであれば怒るだろう。しかし、彼が人のジャマを意図的にする人間ではないことは、この二年間で分かっている。
「さてと、ここから家まで走るとするか。じゃあな」
そう言うと、缶をゴミ箱に投げ入れ、走り去った。さすがに陸上部だけあって、ジョギングも早い。
「じゃあな!」
「近衛くん、バイバーイ!」
見送る二人は背中に向かって、叫ぶ。その声が届いたのか、素直は振り返らずに手を上げて左右に振る。そして、気づけば視界から消えていた。
「もう少し、一緒にいたいけど、時間だから帰らなくちゃ」
「もう九時か」
名残惜しいが、楽しい時間はあっという間である。
「じゃあ、ここで」
公園の入り口まで来ると、雄也は別れようとする。だが、それに反して舞香はそっと彼に近づく。そして、背伸びをして――。何か、柔らかい感触が唇に触れた気がした。
「また……明日もね」
暗闇でもハッキリ分かるほど、彼女は頬を赤く染めていた。そして、恥ずかしいのか、慌てて走り去った。一人残された雄也は呆然と、唇を指でなぞっていた。
「俺、今……」
(キス、された?)
だが、それ以上に、彼は強く思ったこと。それは、『この時間が永遠に続けばいいのに』ということだった。
雄也の夏休みはまだ終わらない。
終