49話 治癒室に患者が来ません
治癒室に、患者が一人も来なかった。
入学第六百二十日。
喜ばしいことである。
少なくとも、学園の責任者なら喜ぶべきだ。
「このままだと、実習が始められません」
実習責任者だけは、困っていた。
白い治癒衣を着たエリスが、受付机の前で両手を組んでいる。
壁際には寝台が六つ。
包帯、添え木、洗浄水、薬草、それから痛そうな色をした消毒液まで、きれいに並んでいた。
準備だけなら、今すぐ六人まとめて階段から落ちても大丈夫そうだ。
落ちないけど。
「誰か、怪我してこい」
「アルトくん。それは治癒実習の目的と逆だよ」
カイルに正論で撃ち抜かれた。
今日の授業は、二年生合同の救護実習だ。
一人が治癒術を使い、一人が患者役になり、残りが搬送と記録をする。
ところが、患者役という言葉がよくなかった。
包帯を巻くだけだと説明しても、他クラスの生徒は治癒室の入口で消えていった。
エリスが安全に厳しいことは、二年生全員が知っている。
患者役になったら、爪の先から昨日の夕食まで調べられる。
そんな噂まで流れていた。
「昨日の夕食は聞きます。体調に関係しますから」
「噂を補強するなよ」
「でも、爪の先は見ない」
ルナが寝台へ横になったまま言った。
「ルナさん。眠いだけの方は患者に数えません」
「重力が強い」
「この部屋では測定値に変化がありません」
「心の重力」
「それは保健相談で伺います」
エリスは強かった。
ルナが毛布へ沈む。
治癒室の外には、召喚獣用の待機柵を作ってある。
フェンリルは日向で寝て、ストーム・ホークは柵の上、クラウド・シープはその上で寝ていた。
スカイ・ツナは水桶から鼻先だけ出している。
エリスのカーバンクルだけは、包帯籠に丸くなっていた。
傷の洗浄水を温める役目を頼まれたらしい。
ナビはエリスの肩で、受付板を読んでいる。
『本日ノ患者数、零名デス』
「読み上げなくていい」
『昨日モ零名デス』
「昨日は授業をしてません」
エリスが少しだけ眉を下げた。
実習を成立させないと、担当教員から評価をもらえない。
評価がないと単位が危ない。
そして単位が危ないと、俺の卒業証が遠くなる。
患者はいなくても、俺の心には深い傷ができていた。
「じゃあ、ボクが患者役になる!」
ミィナが元気よく手を挙げた。
頭、右腕、左膝、腹に包帯が巻かれている。
「どこを怪我したのよ」
「どこも!」
「全部外しなさい」
「患者役には焼き菓子が出るって聞いた!」
「出ません」
「じゃあ治ったー!」
ミィナは包帯をほどきながら走っていった。
治癒術より速い。
「軽い火傷なら、私が作れるわよ」
アリエスが指先に小さな火を灯す。
「作らないでください」
「浅い切創なら、長さと深さをそろえられるよ」
グレイが定規と小刀を出す。
「同意があっても駄目です」
「まだ何も言ってないじゃないか」
「同意書を出そうとしていました」
グレイの背中から、長い紙が半分見えていた。
あいつは次の授業まで待った方がいい。
教員は時計を見て、とうとう諦めたように息を吐いた。
「患者役が集まらないなら、本日の実習は中止だな」
「待ってください」
エリスが一歩前へ出た。
「治癒室へ患者が来ないなら、私たちが外へ出ます」
教員が目を細める。
「往診か」
「いいえ。患者になる前の方へ、困っている動作がないか伺います」
「本人が困っていないと言ったら?」
「本当に何もなければ帰っていただきます。隠しているなら、話したくなる場所を作ります」
エリスは即答した。
教員が俺たちを見る。
廊下から顔だけ出していた生徒が、また一人引っ込んだ。
「二刻で組み直せるか」
「やります」
エリスの返事は、治癒術より早かった。
治癒室の寝台を運び出すわけにはいかない。
そこで受付机だけを中庭へ出した。
ノアが白い布へ大きく書く。
『患者ではない人の相談所』
「矛盾してないか?」
「患者という言葉が嫌なら、使わなければよいのです」
入口で逃げた生徒が、布の陰から戻ってきた。
「肩が重いだけで、怪我じゃないんだけど」
「いつ重くなりますか?」
「剣を下ろした時」
「なら、剣を下ろす動きを見せてください」
最初の相談者である。
エリスは脈も体温も測らなかった。
木剣を上げてもらい、ゆっくり下ろしてもらう。
上げる時は平気。
下ろす途中だけ、右肩が跳ねた。
「持ち上げる筋肉ではなく、下ろす時に支える側が疲れています。今日は素振りを減らして、痛みが出る角度を教官へ見せてください」
「治癒術は?」
「今は使いません」
「何もされてないのに、終わり?」
「悪くなる前に終わりです」
相談者は不思議そうに帰った。
五分後、友人を二人連れて戻ってきた。
一人は、走ると左の靴だけ脱げる。
靴を並べると、左の踵だけ潰れていた。
一人は、朝だけ杖が重い。
鞄を開けると、教科書を七冊余計に入れていた。
「来週の試験が不安で」
「杖ではなく、鞄を軽くしてください」
治癒術の出番はない。
単位は遠い。
相談者だけが増えていく。
「患者じゃない人、こっちだよー! 話すだけなら無料にゃ!」
ミィナが中庭を走り回った。
「授業だから全員無料だ!」
「焼き菓子も無料?」
「それはない!」
「じゃあ相談した人から半分もらう!」
治癒室より先に、猫の手数料を止める必要がある。
グレイは相談机の横へ、小さな札を置いた。
『希望者には安全な範囲で負傷の再現も』
エリスが無言で裏返す。
「ねぇ、まだ誰も希望してないよぉ」
「希望できるようにしません」
「予防が徹底しているね」
「褒めても駄目です」
ルナは『朝、寝台から起きられない』と相談した。
「夜は何時に寝ましたか」
「……昨日」
「時間です」
「今日になる前」
「何時間眠りましたか」
「まだ途中」
「相談中に寝ないでください」
相談所の机へ伏せたまま、次の人へ席を譲らない。
シープごと日陰へ移された。
アリエスは相談することがないと言いながら、右手で受付の羽ペンを取った。
紙へ名前を書き、机を離れる時だけ左手で椅子を戻す。
「右手、痛いんですか?」
「さっき火を出したから熱いだけよ」
「では冷めるまで休んでください」
「書いただけで見つかるの?」
「自分から見せていました」
治癒室の外へ出ると、人は診察されているつもりがない。
扉の開け方。
椅子から立つ時、どちらの手をつくか。
呼ばれて振り返る向き。
痛い場所を隠そうとしても、毎日の動き全部までは隠しにくい。
「探偵みたい!」
ミィナが両手で目を囲む。
「犯人を捜しているのではありません」
「怪我を隠してる犯人!」
「本人です」
「じゃあ全員犯人かも!」
相談者が一歩下がった。
「怖がらせないでください」
そこへ、砂袋を持ったカイルが中庭から帰ってきた。
「終わったよ。僕も異常なしだね」
呼吸は整っていた。
笑顔もいつも通りだ。
ただし、中庭の戸を左手で開けた。
右利きのカイルが、である。
砂袋も左肩。
右腕は、歩いているのにほとんど振れていない。
ミィナが相談者から受け取った焼き菓子を投げた。
「カイル、半分!」
菓子は右側へ飛ぶ。
カイルの右手が上がる前に、ストーム・ホークが窓から飛び込み、くちばしで奪った。
「ホーク、僕のだよ」
ホークは返さない。
代わりに、カイルの右肩へ翼を一度当てた。
カイルの笑顔が、ほんの少しだけ歪んだ。
エリスは最初から見ていた。
「カイルくん。今朝、何をしていましたか」
「普通に朝の練習を」
「何発ですか」
「いつもと同じくらいだよ」
「弓を見せてください」
「今日はもう終わったよ」
「では、弦を外すだけで結構です」
カイルは左手で弓を持ち、右手で弦を外そうとした。
指が途中で止まる。
持ち替えようとすると、ホークが矢筒をくわえて逃げた。
「ちょっと、返して」
追いかける一歩目も左足からだった。
右肩を前へ出さず、体ごと横へ向けている。
エリスが進路を塞いだ。
怖い。
患者が来ない理由の半分くらいは、たぶんこれだ。
「右腕を見せてください」
袖を上げる。
前腕の外側が、左よりわずかに赤い。
「戸も砂袋も左。焼き菓子を取らず、歩く時は右腕を振らない。弦も外せませんでした」
「そこまで分かるんだ」
「数字は一つも測っていません。カイルくんが、ずっと痛くない動きを選んでいました」
エリスはカイルの弓袋を見た。
「本当は、何発撃ちましたか」
しばらく沈黙が続いた。
ストーム・ホークが窓の外から、くちばしで硝子を一度叩く。
カイルが観念したように肩を落とした。
「百二十発」
「いつもの三倍じゃない!」
アリエスが怒鳴った。
「来週、精密射撃の試験があるからね。一発でも外したくなかったんだ」
「その腕で受けたら、一発どころじゃなく外すわよ」
「分かってる。でも、僕だけ皆より決め手が少ない気がして」
カイルは笑おうとした。
今度は、うまく笑えなかった。
「心配をかけたくなかったんだ。エリスは最近、他の生徒の救護まで任されてるから」
エリスがカイルの右手を取った。
叱ると思った。
けれど、声は静かだった。
「隠されると、私は心配することも手伝うこともできません」
「ごめん」
「謝るだけでは終わりません。今日は練習禁止。明日は半分。痛みと熱が消えなければ、試験前でも休みます」
「厳しいね」
「嫌ですか」
「ううん」
カイルは首を振った。
「無理をして外すより、止めてもらった方がいい」
エリスがようやく少し笑った。
「では、止める合図を決めましょう」
ストーム・ホークが窓の外でもう一度鳴いた。
「あの子にも頼むよ。僕が聞かないときは、矢筒を持って逃げてくれ」
窓の外で翼が広がる。
了解したらしい。
「待ってくれ。カイルが患者なら、実習を始められるんじゃないか?」
俺は大事なことに気づいた。
「治癒術は使いません」
「なんでだよ」
「筋肉の使いすぎは、魔法で痛みだけ消すと悪化することがあります。休息と冷却を優先します」
痛みは敵ではなく、止まれという合図でもある。
合図だけ消して走れば、傷が深くなる。
魔法で何でも治せる世界ほど、治さない判断が必要だった。
教員が記録板を見て、うなずいた。
「実習内容を変更する。今日の評価は、予防救護だ」
「単位は?」
「出す」
「よし!」
俺の心の傷は治った。
治癒術は使っていない。
授業が終わる頃には、廊下に列ができていた。
怪我人はいない。
昨日から肩が重い生徒。
走ると片足だけ疲れる生徒。
朝になると魔力が戻らない生徒。
全員、自分は患者ではないと言いながら並んでいる。
『本日ノ患者数、零名デス』
ナビが受付板を更新した。
その下へ、小さく書き足す。
『相談者、二十三名デス』
エリスが次の記録板を取った。
「一人ずつ伺います。痛くなる前に来てください」
治癒室に患者は来なかった。
代わりに、患者になる前の生徒が帰らなくなった。




