9:画家さんのお気に入り
男性は洗濯機の蓋を開けて、何やら洗濯物らしきものを取り出してから笑顔で声をかけてきた。
「君たち、僕の部屋に来てお茶でもどうだい? お饅頭ぐらいなら茶菓子で出せるよ」
白河氏が答えた。
「いえ、今は遠慮しておきます。でも私からお尋ねしたい事があるので、窓辺でお話させてもらえませんか?」
「僕に? うん、別にいいよ。じゃあ先にこれを干してくるからちょっと待っててね」
男性は扉に入って姿を消した。本当に気さくな人だな。いや、人なのかな。
突然、白河氏がどさりと座り込んでうつむいたので私は焦った。
「大丈夫ですか?」
「うん……なるべくすぐに終わらせる。ひのかさん、悪いけど俺の後ろに座ってて欲しい。もし何か聞かれたら普通に答えて。危ない内容なら俺が遮断する」
私は、はいと言ってからサチヨさんを抱えて白河氏の背後に正座した。目の前に、きれいに編まれた三つ編みがある。こんな時なのに、毎朝自分で編んでいるのかな? 誰かが編んであげているのかなと、ふと思った。
「ひのかさん、向こうの部屋に前みたいに黒い首吊り死体は見える?」
うつむいたままの白河氏に言われて、私は急いで良く見てみた。
部屋の造りは同じぽいけど、前回は家具などは無かった。でもそれ以上に、何か違うという感じがする。
「首吊り死体は見えません。でも同じ部屋みたいですけど、今の方が時代が古いように感じます」
「そうか。時間の流れまで違うのかな……」
白河氏は、顔を上げた。
男性がまたタバコを咥えて部屋の奥から現れたところだった。窓際にもたれ掛かって笑顔で話しかけてくる。少し離れているようにも、すぐ近くにいるようにも感じる。窓の大きさも、視線を動かすたびに変わる。視覚の何かもが歪んでおかしくて、私は思わず顔をしかめた。
「それで、僕に尋ねたいことって何かな?」
そう言ってから、白河氏の背後に座っている私の方を見て、ぱあっと顔を輝かせた。
「うわー立派な市松人形だなあ。僕、人形が大好きなんだ。もっと良く見せてもらえる?」
「ええ、いいですよ」
白河氏が手を伸ばしたので、私はサチヨさんをそっと手渡した。
男性は窓から少し身を乗り出すようにして、白河氏が持つ市松人形を熱心に眺めた。
「可愛いねえ。赤いおべべも似合ってる。そうかモモヨって言う名前なんだ」
にこにこ笑顔の男性に白河氏が言った。
「……名前が聞こえましたか?」
「だって、自分でモモヨって僕に自己紹介してくれたよ。お利口だねえ」
サチヨさん、あちらの男性と意思が通じたんだ。凄い。そういえば、白河氏がサチヨさんは『強い人形』だと言ってたっけ。
白河氏が穏やかな声で質問を始めた。
「私は白河眞琴と言います。あなたのお名前を教えてもらえますか?」
普通に話している時と、口調が全く違う。そうか、今白河氏は霊能者として男性に話しかけているんだ。
男性は首をひねった。
「うーん、申し訳ないけど、実は僕、名前を忘れちゃったんだよねえ。でも名無しじゃ呼びにくいだろうから、画家さんと呼んでくれるかな?」
「わかりました。画家さんは、自分が死んだ事を理解していますか?」
「もちろんだよ。死ぬ前の事はほとんど覚えてないけど、今と同じように画家だったんだ。そして電車に飛び込んだ。いつだっけ……覚えてないな。昔なのは確か。後で周囲に迷惑をかけたのを知って、やっぱり首吊りにしておけば良かったと思ったなあ」
私は手を握り締めた。あっさり話しているけど、この人死者なんだ。白河氏はすぐに解ったみたいだけど、私にはどうしても霊に見えない……。ふと、世界の隅に見える、遠くの線路が気になった。そういえば電車が走る音も聞こえたっけ。
「画家さんは、ずっと今の部屋に住んでいるんですか?」
「そうだよ。僕は貧乏だから、家賃の工面も大変でさ。でもこの部屋はね、幽霊が出るからって借りる人がいなくて、とても安く借りられたんだよ」
「幽霊が出る理由を知っていますか?」
「噂だけどね、5人ほど首を吊って自殺したって聞いた。何にせよ気の毒だよねえ」
「本当にそうですね。それで画家さんは、その部屋で幽霊を見ましたか?」
「時々、天井から真っ黒な死体みたいなのがぶら下がってるのを見たりする。でも先入観から来る思い込みっていうか錯覚じゃないかなと思ってるよ」
私は、以前見た黒い風船のような首吊り死体を思い出して、ぞっとした。でも画家さんは笑顔を絶やさず、タバコをふかしている。煙がどこかに流れていくけど匂いはしない。
白河氏の質問は続く。
「画家さんは、どうやってこの世界に来たかは覚えていますか?」
画家さんは、初めて少し悲しそうな表情を浮かべた。
「それがねえ、どうやら忘れちゃったみたいなんだよ。ずっとこの部屋に暮らしているけど、それ以外はさっぱりなんだ。元の部屋に同じように住めるのは家賃が安いし助かったけど。でも朱山さんが、部屋の外は僕が描いた世界にしていいって言ってくれたから、嬉しくなって家や世界を描いたんだ。いっぱい描きすぎたかなあ」
朱山さん? ってあの大家さん? 白河氏は少し黙ってから返事をした。
「……そんな事はありませんよ。のどかで暖かな世界が描かれていると思います」
画家さんが両手をぱっと広げて嬉しそうになった。
「そう言ってもらえると最高だなあ。君も絵を描くの?」
「いえ、私は鑑賞するだけです。それで画家さんは、朱山さんとは今でも会っているんですか?」
「そりゃ、大家さんだからね。毎月家賃を取りに外からこの部屋に来てくれるよ」
大家さん、こんな不思議な世界にも出入りできるのか……いや家賃への執念だろうか。この妙な世界、お金があるのかな。
「画家さんから家賃を受け取る時に、朱山さんは何か言いますか?」
「いつも、次回もきちんと払うようにって言うよ。僕は家賃を遅らせた事はないんだけどなあ。ちゃんとタンスにお金を入れてあるからね」
「朱山さんは、この部屋や画家さんの描いた世界に来た時に他に何かしますか?」
「そうだなあ。毎月じゃないけど、この窓から出て、君が座っているそっちの部屋に行く事があるな。すぐに戻って来るけど」
「こちらの部屋にですか? 朱山さんはそんな事をする理由を画家さんに話しましたか?」
「きちんと掃除しないといけないからって言ってた。そりゃそうだよね。君はあんまり掃除をしないの?」
「……私は普段この部屋にはいないんです」
「ふうん。だから君の代わりに掃除をしてあげているんだ。そういえば、洗濯機もいつの間にか置いていってくれたんだ。最初は使い方が良くわからなくて大変だったけど、今は楽しいからいつも洗濯をしているんだ。いい人だよね」
「ええ、とても面倒見のいい人です」
白河氏の背後で私は絶句していた。私の部屋にって来た侵入者は、もしかして大家の朱山さんだったの!?
――部屋に色々余計な物を入れるんじゃないよ。面倒だからね。
あれは、私の部屋を実際に見たからだったのか……そして市松人形のサチヨさんが余計だから浴槽に放り込んだ……? じゃあ「馴染んできた」ってどういう意味だろう?
私は思わず白河氏の背中を掴んでしまった。何だか、ものすごく怖い。気づいた白河氏は、少し首を動かしてから低い声で言った。
「大丈夫。俺が絶対に切るから」
その時、画家さんがタバコをぽいと窓の外に捨てて言った。
「今日はここまででいいかな? 僕はまた洗濯をしないといけないから」
「ええ、結構です。長い時間お話を聞かせてもらい、ありがとうございました」
「いや、僕も久しぶりに色々話せて楽しかったよ。今度はぜひ3人で僕の部屋に来てお茶を飲んでね。お饅頭ぐらいなら、茶菓子で出せるよ」
「ありがとうございました。これで私の話は終わります。失礼します」
画家さんが手を振って窓から去り、部屋の奥のどこかに姿を消した。
白河氏が少しよろけながら立ち上がると、窓を閉めて鍵をかけ素早くカーテンを閉めた。洗濯機が動く音が聞こえ、でもすぐに消えた。再度白河氏がカーテンを開けると、あの画家さんの世界は消えていて、夜のビルの壁面だけになっていた。
私が「白河さん……」と呼びかけるのと同時に、白河氏は窓にもたれるようにずるずると座り込み、私が慌てて支えようとすると手で目を覆って呻いた。
「さすがに応えた……ひのかさん悪いけど……濡れタオルを持ってきてもらえるかな……目を冷やしたい……部屋は暗いままにしといて……」
「はい! すぐに」
私が離れたあと、白河氏が目を覆ったまま膝上のサチヨさんにぼやいているのが聞こえた。
「まったく……時と場合を考えて下僕に話しかけろよ……頭の中が無茶苦茶になったぞ」
私が急いでダイニングキッチンに戻ると、菜々子がちゃぶ台の前で座ってうたた寝をしている。そっとしておくと、濡れタオルで目元を冷やして再びメガネをかけた白河氏が戻ってきた時に、気づいて目覚めた。時計を見ると30分ほど経過している。もっと話していたような感覚だったけど。
「うー寝てた。で、話は終わったんですか? 白河さん、顔色悪いみたいですけど」
私に白湯を希望して、ちびちび飲んでいる白河氏は、確かにまだ顔色が少し悪い。
「うん。ひのかさんのおかげで色々見えたよ。見えすぎて頭が割れそうになった」
私と菜々子が顔を見合わせると、白川氏はまだ膝上にいるサチヨさんを見下ろしながら呟いた。
「……そろそろケリをつけられそうだ。まだ少し調べる事はあるけど」
私はどきっとした。そうしたら、会えなくなるのかな……。菜々子が身を乗り出して真剣に尋ねた。
「白河さん、見えた見えないはともかく。ケリをつけるって、ひのかを危険な事に巻き込まないでくださいよね。彼女、引っ込み思案なくせに、何かあれば猪突猛進するんで心配なんです」
何を言い出すんだ! おまけにどういう意味だ! と私が菜々子を軽く睨んでも知らん顔をされた。白河氏は菜々子の顔を見ながら少しだけ笑った。
「ひのかさんの性格は良く知ってるよ。大丈夫、巻き込んだりしない。けど神代さんはいい友人だね」
そう言ってから、白川氏はもう帰るねと立ち上がった。コートを着てストールを巻き付け、まだ何か言いたげな菜々子に辞去の挨拶をし、玄関で見送る私にお茶のお礼を言って、しばらく私の顔を思案気に見てから囁いた。
「近いうちに、事情を詳しく話すよ。全部終わってからと思っていたけど、どうやらひのかさんも知っておいた方が良さそうだ」
私はまたどきまぎしてしまった。でも確かに目的は復讐とか、色々気になる事は多い。
「えっと、はい。ご迷惑でなければ、お願いします」
「うん。あらためて俺から連絡するよ。ベランダ窓には結界を張っといた。しばらくは朱山の婆さんも近寄れないだろうから安心して。画家さんの方は危険はないから。それじゃあ、おやすみ」
おやすみなさいを言い、閉じられたドアの鍵をそっと掛けてから、室内に戻ると菜々子がちゃぶ台に頬杖をつきながら呆れたように言った。
「ひのか、きっちり白状しなさい」
「え? 白状って。何を白状するの」
「白河さんのこと、好きなんでしょう?」
自分でもはっきりわかるくらい、耳まで真っ赤になった。顔が熱い。うううう。何も言い返せず、視線を誤魔化すためにサチヨさんの方を見た私は、あれ? と思った。
サチヨさんは完全に無表情で、それはまるで魂が抜けてしまったようだった……。




