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或る家の灯  作者: 前田雅峰
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後編

 本当に価値有るものを前にすると、人は自分で自分を律する事が出来るのです。自分で自分の至らない処を責める気持ちが働くのです。

 尊さ、いつの時代もそれが人を導くのです。

 順次は気にもしながら毎日仕事を続けていた。不謹慎な話であるが川桁出発の時には幾分落ち着けない順次だったが、この娘の家を通り過ぎるとその分運転に全神経を集中させる事が出来た。順次は淡い期待を抱きながら過ごしていたのである。


 そんな或る時、順次の中学の同窓生が数人都会から帰って来た。川桁の駅前で同窓会を開こうという話が持ち上がり、都会に出ての成功組を発起人メンバーに宴席が設けられた。川桁駅前の順次が給料日にだけ食べに行く食堂の二階座敷の会場に集まった面々は、もう立派な社会人だった。都会に出ての成功組は一人残らず落ち着いた背広で、鞄も黒々とした新しい革製のもので中には手巾なんかもっている人間も居た。これが八九年前には腰に手拭をぶら下げて夏は半ズボンにシャツ一枚だったのが到底信じられない。また川桁や会津に残留した人間達でさえここぞとばかりにそれなりに立派な衣服に身を包んで来た。背広ではないにせよ真新しい白のワイシャツとスラックス、そして取り出す財布も中身がどれだけ入っているのかは分からないがそれでも外観は取り敢えず立派なものである。髪も綺麗に後ろに撫で付けている。

 そんな中順次の外貌は全くの純然たる労働者だった。さすがに軌道会社の運転士の制服でも普段着の作業服でもなかったが、父親から譲られた脚の長さが合っていない最早表面が起毛した様な状態になっていたズボンに、かなり古くなったワイシャツ、何より順次は中学生以来の腰手拭の姿のままだった。財布に到っては猛烈に時代がかっていて江戸時代の巾着袋そのままだった。これは順次があまり紙幣を持ち歩かない事の良い証明だった。これらの人間達と順次の間には明白な収入の格差があったのだ。それが残酷なまでに現れていた。そんな順次の衣装を見てか或いはそれ以外の理由でか誰も順次には声をかけてくれなかった。しかしその時点では順次は特に何も思わなかった。皆の大人になった姿をただ眺めていたに過ぎなかった。

 そこに一組の男女が入って来た。順次は驚いた。女の方は順次が軌道の川桁駅発車から暫く落ち着く事が出来ない原因たる物干し台の綺麗な娘だったのである。美しい真白な洋装の姿だった。薄いレースの手袋まで嵌めている。男の方は都会に出て行った順次の同級生のうちの一人で顔は知っていた。立派な服装だった。二人は落ち着いて部屋に入って来て、娘の方が襤褸(ぼろ)で一際目立つ順次に直ぐに気付き軽く頭を下げてにこりと笑った。座の司会役の一人が言った。

「やあやあ、やっと来たかね」

「遅れて悪い。彼女の御両親に挨拶してきたのでね」

「そうかそうか。で、了解なのかな」

「ああ」

 そう言って男の方は娘を見詰め、娘は恥ずかしそうに俯いた。司会役が言った。

「えー、皆さん。此度、吾等の友人の山田君が奥さんを貰う事になりました。この野郎ー」

 此処(ここ)で一同がどっと笑った。

「山田君は東京に出て暫く良い就職口が見付からずに悶々としていましたが、三年前に大きな会社に勤める事が出来ました。すると彼の能力を認めた見識有る上司の力で、彼はとんとんと出世して、今や部下三十人を従える課長さんなのです。この野郎ー」

 今度は『ほほー』という感嘆の声が其処(そこ)彼処(かしこ)から上がった。

「奥さんは見ての通り、川桁、いや会津でも一番の美人さんです。此奴、課長になった途端に奥さんを貰いに故郷に帰って来た許せない奴なのです。この野郎ー」

 また『わはは』と笑声が上がった。

「近くご結婚のご予定という事ですが、まだ間に合います。この綺麗な娘さんを横取りしたい人は、是非急いで奥さん、じゃなかった、この娘さんに攻勢をかけて下さい。でももうこの奥さん、じゃなかった、この娘さんのご両親は、お二人のご結婚を承諾した模様です。たった今。この野郎ー」

 拍手が起こった。二人は立ち上がり四方に何回か礼をした。良い、幸せそうな笑顔だった。そして今一度拍手が起こり一気に雑談の声で座はがやがやと賑やかになった。

 順次はこの司会役の男から事の経緯を聴きながら段々もやもやと自分の内にあるものが大きくなってくるのを感じた。順次は時々娘の顔を横から眺めた。そうしているうちにそのもやもやは一つの具体的な感情に集約してきた。

 順次は初めて自分の衣服を恥ずかしいと思ったのだ。あまりにも差があり過ぎる。向こうは綺麗で如何にも新風の軽快な洋装、垢抜けた良い品物だ。一方順次はいつも着ている万年の普段着と大差無かった。実際順次は外出着というものを一着しか持っていなかった。軌道会社入社の時即ち順次が中学卒業の時に作った背広だけである。しかし当然もう今の順次の体格に合っていなかった。母親は何度も新調しろと言っていたのだが順次が自分でそれを断っていたのだった。

「僕には、そんな外出着は要らないよ。そんなものが必要な所には行かない。僕にはこの家さえあればいいんだ」

 順次はいつも胸を張って母親にそう返事していたのだ……。

 もとより収入に大きな差はあろう。順次は思った。

「しかし、しかし、自分がこの姿のままであの綺麗な娘に好きだと言っていたら、あの娘は何と言って返事した事だろう。そんなに悪い娘には見えないから、婉曲に断っただろうか。いや、いや、それよりも、恥ずかしくて、言い出す事なんか出来なかった。そうだ、あの娘に決まった相手がいようがいまいが、言い出す事自体が出来ない。それに、今から新しい服なんか買って、着て、それで何になるのか。そんな事をしなければうまく行かない事なんか、どうして本当に自分に必要な事なものか」

 宴席がお開きになり仲間の数人を若松方面に送る為に皆が国鉄の川桁駅に集まる頃、順次は自分が恥ずかしくて堪らなくなってきた。しかしみすぼらしい丈の合っていない服がではない。収入のそんなに多くない自分がでもない。それを恥ずかしいと思った自分がである。自分は老いた両親と共に生きて暮らす為にこの土地に残った。勿論である。それが理由だ。それで十分に自分は幸福なのだ。『ただいま』と家に帰れば其処(そこ)には自分に必要な全てのものが揃っている。逆に言えば其処(そこ)に無いもので自分が本当に必要とするものなど無いのだ。有り得ないのだ。なのに自分は自分が納得して着ている父親の昔の服装を恥ずかしいと思った。それは自分を支えてくれているあたたかでこの上もなく大切な家族を恥じたに等しい。自分が許せなかった。

「それを恥じて、御前は一体何を欲しがったのだ。何を得たいと思ったのだ」

「御前は馬鹿だ。そんな事も判らないで、どうして平気であの家に居る事が出来るのか」

 容赦の無い、厳しい詰責が順次の心に向けられた。自分は両親のあのあたたかで平和な家に入る資格が無い様に感じられた。若松のホテルに向かう例の娘と順次の同級生を乗せた列車が川桁の駅を出る頃、順次はもう其処(そこ)に居られなくなり独り駅を出て家に向かって歩き出した。


「帰ったら、この事を父ちゃんと母ちゃんに話そう。そして、謝ろう」

 順次はそう思っていた。すると突然、

「あの……」

と声をかけられた。誰かと思って順次が振り向くと其処(そこ)には知らない娘が立っている。もう辺りは薄暗く順次には本当にそれが誰だか解らなかった。俯いていたその娘がおずおずと顔を上げたので順次がしげしげと確認すると、何処(どこ)かで見た顔だった。しかし思い出せない。

「失礼ですが、あの、どなたでしたか」

 娘は一瞬悲しそうな顔になったが、暫くしてその悲しそうな顔のまま順次に何かそんなに大きくない風呂敷包みを両手で差し出した。順次が不思議そうにそれを見ていると、

「あの、お店で余ったものなんですけど……」

と言う。

「お店?」

「駅の売店」

 その言葉で順次は思い当たった。国鉄の方の川桁駅にある売店の売り子さんだ。時々駅のプラットフォームで停車中の列車に駅弁や御茶を売っている時もあった。

 さてそれは良いのだが、お店で余った、まあ多分お弁当なのであろうが、それを何故自分にくれるのか順次は全く解らなかったが何となく、

「何故、これを僕に?」

と尋ねるとこの娘がもっと悲しそうな顔をする様な気がしたので、

「有難う、今夜家族で頂きます」

と答え、この事に感謝している事を示す為間違っても迷惑だとか不審そうな顔付きをしない様ににこりと笑った。娘は悲しそうな表情がちょっと和らいだ様子だった。娘が軽く腰を折って挨拶し小走りに国鉄の駅の方に去って行こうとするのを見た時、順次に或る想念が湧いた。順次は後ろから娘に声を掛けた。

「駅でのお仕事が今日で最後という事は、ないですよね?」

 順次は自分で自分が信じられない気がした。明らかにこの状況でこの娘に掛ける言葉としてはおかしいと自分でも思った。しかし、それでも掛けたかったのである。何か瞬間的に順次の頭を過った想像があったのだ。それが何かは解らなかったが、それがとても大事で間違っても見過ごす事の出来ないものである事だけは分かった。いや、賭けたのだ。順次はほんの一瞬でこの名状し難い説明出来そうもない何かに賭けたのだった。賭けてしまったので娘に声を掛けたのだ。娘は驚いて振り向いた。しかし直ぐに嬉しそうな顔をして、

「はい」

と返事した。順次は言った。

「また会いましょう」

 娘は頷いて、もう一度お辞儀をして、矢張小走りに国鉄の駅舎に入って行った。

 その後娘に貰った風呂敷包みを両手に持って歩き乍ら家路を辿る順次は考えた。

 初対面の相手にいきなりその日の弁当の売れ残りを贈るというのも中々聞かない話だ。何かあげるとしてもまあ街で買った商品こそが所謂御贈答向けというものだろう。勿論その御贈答向けの何かを受け取る謂れは自分には全く心当たりが無いのだが、謂れはさて措き何か渡すとすれば兎も角そうしなければならないだろう。それが駅の売店の売れ残り弁当とはなかなかに意表を突く話だ。しかし……。そう、しかしなのだ。しかしこれがまた順次は気に入った。物を大切にする順次である。最早売り物にはならない商品を無駄にせずちゃんと頂く。またそういうものを見ず知らずの人に食べてもらってでも捨てるなどという勿体無い事をしない。娘のしてくれた事は順次の気持ちにとても自然に寄り添う行動だった。そしてよく判らない気持ちのまま歩いていたがそのうち或る事に気が付いた。若しも娘が自分に好意をもってくれているのだとしても、何故今これをくれたのだろう。川桁の駅迄列車を運転して駅舎内の職員用の小ぢんまりした部屋で持参の弁当を食べる。食べた後時々ではあるが国鉄の川桁駅の改札口近辺をうろうろし、到着してはまた発車して行く列車を観て次に自分が運転する列車までの時間をつぶしていた順次である。くれるならその時でもよかったし、その時の方が自然な筈だ。

「そうか、それは昼間だな。まだ昼から、弁当は売れるよな」

 順次は自分が冷静でいるつもりだったが、この前提の誤まった思い付きで自分が冷静ではない事を知った。頭が混乱しているのだ。

「いや、夕方の列車を川桁迄運転してそこであがる日に、時々あの娘はこっちの駅の方にも弁当を売りに来ていた」

 これは確かにそうだった。弁当の売れ残りならその時刻でも売れ残りと確定した筈だから、そういう時にくれる方が確かに今くれるよりも自然だった。若しかしたら、若しかしたら、娘は自分がいつもと違って悄然としているのを駅で見ていたのではないだろうか。それで何か励ましてあげなければと思ってくれたのではないだろうか。或いは自分がどんな気持ちで駅から独り歩き出したのかもおよそ想像出来ていたのではあるまいか。だとしたら……。

 見通していたのかも知れないが見透かしていた訳ではない。それを知って得意気に嗤うのではなくそういう時に寄り添いたいと思ってくれたのか。何かしら励ましてあげる事は出来ないかと思ってくれたのか。仮に娘が順次の心の何も()もを知っていたとしても順次は恥ずかしいとは感じなかった。事柄の全体が、彼女の行動の全部が、思い遣りで満たされていたからだ。正に順次の家の様に。

 娘は何の化粧もせず本当に仕事をする普通の粗末な衣服だった。初めに娘の見せた悲しそうな表情とその後順次が声を掛けた後に見せた笑顔とが、悉皆(すっかり)陽が落ちて星が瞬き始めた青黒い夜空の下を歩く順次の頭を何度も(よぎ)った。そしてこの出来事が順次の悲しく心から恥ずかしかった今日一日の記憶の中に割り込み、全体としてそれを悲劇的でないものに変えてしまった事に(やが)て順次は気付いた。その時にはもう順次はこの娘に感謝を感じて落ち着いていた。


 この話、つまり物干し台の綺麗な娘の話と自分の同級生がその結婚相手だった話から始まって、駅の売店の駅弁の残りを貰った話、更にその後家まで順次が歩いて帰る間に考えた事まで一つ残らず順次は家で両親に話してしまった。すると順次の両親は声をあげて大いに笑った。その後家族で娘のくれた風呂敷を開くと矢張弁当だったので皆で分けて食べた。そして順次は自分の服装を恥ずかしいと思った事を本当に額を畳につけて平伏して両親に詫びた。母親はにこにこ笑っていたが、父親は最後に嬉しそうに笑っていつもと何も変わらずこう言った。

「それでええ」

 すると珍しくその後で母親が笑顔で口を挟んだ。

「今度、その娘さんをこの家に連れておいで。屹度(きっと)、誘ったら恥ずかしそうな顔して黙ってるだろうけど、結局最後に黙ったまま首を縦に振るからね」

 順次の家の灯りはいつもより遅くまで(とも)っていた。そして順次がこの晩いつにもまして平和で安らかな眠りに入った事は説明するまでも無いだろう。


 私は、会津の川桁の駅から沼尻迄延びていた今はもう無い高原鉄道にこういう物語を託す。『託す』と言ったのは本当にこういう事があったに違いないと信じるという意味である。それはそう信じる私に、現実の世界を生きる今の私に、虚構ではない本当の生きる力をくれるからである。


(了)


 ブログには他の手紙や小説も掲載しています。(毎日更新)

https://gaho.hatenadiary.com/

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