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りく也30才 ユアン30才 (3)


 四月の第四週、ひよこ達=医学生のE.R.ローテーションも最終週に入った。研修前半はお荷物だった医学生も今では立派な戦力となり、重宝に使われている。

 彼らが使えるようになったとは言え、E.R.の忙しさが緩和されるわけではない。患者を捌けるようになった分、受け入れる人数が増えるわけで、相変わらずオフも休憩もままならない現状は、一ヶ月前とさほど変わりはなかった。

「それでも、気分的に余裕が出来るってもんだわ。あーあ、やっと仕事を覚えてくれたと思ったら、次に回って行くんだから、まったく割に合わない」

 スタッフ・ドクターのナンシー・コーンウェルが嘆く。

「また何ヶ月後かに回って来るだろう?」

 慰めるのはケイシーである。

「新しいのがね。レジデンシィで戻って来てもリセットされてるわ」

 ナンシーは肩を竦めて、名前がひしめき合っているクランケ・ボードを見ながら言った。

 そんな忙しいE.R.スタッフの最近の関心事は、受付とドクター・ラウンジに飾られているバラの花である。

 バラは三日と空けずに送られてきた。ビロードのような手触りの花びらを持つ深紅のバラは、素人目にも高価だとわかる。それがニューヨーク一高級な花屋から医学生のリクヤ・ナカハラ宛てに、国際的なピアニストのユアン・グリフィスの名前で送られてくるのだ。否が応にも関心を引くと言うものだ。

「また来た。すごいわねぇ。ざっと見ても五十本よ」

「八百ドルは下らないわね」

「花言葉は『熱愛』よ。どう、リック? 熱愛されてる気分は?」

 受付でナース達が新たに来た花束を前にさえずっている。通りかかったりく也は感想を聞かれ、

「光栄だね、何たって名高い『黄金のグリフィン』からだ。ああ、良かったらナース・ルームに持って行ってくれていいよ」

と笑顔で答えた。しかしその胸の内は穏やかではない。自然、踏み出す足には力が入っていた。

 最初に花束が届けられた時、休む間もなくこき使われているサクヤ・ナカハラの弟を、励ます意味かとりく也は思った。話題には上ったが、花束が病院に送られてくることは珍しくないので、その場だけで済んだ話の筈だったのだ。ところが二日後にまた花束が届けられた。そしてその三日後にも。一週間に三回も届けられるとなると、さすがに周りもざわめき始める。ユアン・グリフィスはゲイであることをカミングアウトしていた。更なる憶測の嵐が吹き荒れたのは自明の理である。

 りく也とて黙ってもらい続けていたわけではない。まずウィーンのさく也に電話をし、ユアンの連絡先を聞いた。彼のニューヨークの住居に電話を入れたが、執事と名乗った男が出て「主人は演奏旅行に出て留守だ」と事務的に答えるだけだった。

 ユアン本人はヨーロッパだと言うのに花は届き続けた。配達人にもう持って来るなと言うと、「ご本人に直接言って下さい」の一点張りで、りく也が受け取りを拒否するや、他の人間にサインを貰ってバラを置いていくようになった。

 そんなわけでドクター・ラウンジは芳香で満たされている。疲れた心の癒しとはなっているが、りく也にはいい迷惑だ。花のおかげで話のネタにされ、りく也自身が不本意ながらスタッフを癒す一因になっている。

「これもあとちょっとだ。来週はここにいないんだから」

 花瓶がわりの特大のコニカル・ビーカーに生けられたバラに独りごちる。

「リックは次、どこなんだ?」

 テイク・アウトのハンバーガーを頬張りながら、ロバートが尋ねた。

「外科」

「僕は小児ICUだ。ここより楽かな」

「子供は恐いわよ。薬の些細な量の違いが命取りなんだもの。心肺蘇生じゃ肋骨折るかと思ったわ」

 カーラは前回が小児ICUのローテーションだったとかで、その大変さをロバートに語って聞かせた。

 医学生達の気持ちはすでに次のローテーションに移っている。やっと使い物になった頃に学生は去って行く。teaching hospitalの宿命とは言え、スタッフが愚痴るのも無理からぬことだ。

「君達、出来ればレジデンシィはここを希望して欲しいもんだね。E.R.は面白いぞ。緊張感みなぎる現場は、退屈しないこと請け合いだ」

 学生達の会話に、カインが口を挟んだ。二年間の臨床研修で揉まれてそこそこ成長したレジデントは、万年人手不足の科にとって貴重な戦力になる。医学生研修の時に「これは」と思った学生に目星をつけるのだが、たいていの場合、E.R.は敬遠された。

 今回の学生達も御多分には漏れず、カインの言葉にアルカイックな笑みで応える。

「僕には向きませんよ。判断力も悪いし。この緊張感が続くと、胃に穴が開きそう」

 ロバートが最初に意思表示した。カーラもそれに同意して頷く。

「その緊張感がいいんじゃないか、まったく」

「ジェフリーはE.Rを希望してますよ」

 落胆するカインに、カーラは慰めるように言った。ジェフリーの評価はここに来て上がっている。物覚えが良く、応用を利かせる能力に長け、遅刻は相変わらずだったが、その分居残りも厭わないので、いつの間にかスタッフ・ドクターの人気を、りく也と二分するほどになっていた。

「本当かい? これでリックが来てくれたら、取りあえずはここ数年は安泰だ。リックはもちろん来てくれるんだろう?」

「希望は精神科なんです」

 当然、E.R.をレジデンシィ・プログラムで選ぶと目されたりく也の口から意外な専攻科が飛び出て、一同、「えーっ!?」と声を上げた。

「なんでまた…、その腕が泣くぞ」

 カインは身を乗り出す。 精神科医は需要が高い割に評価が低い。メディカル・スクールと臨床研修で学んだ技術的処置が不要な上に、派手さを好むアメリカ人気質に合わないこともある。E.R.は多忙を、精神科医はインカム(基礎所得)と評価の低さを理由に、医学生が避ける診療科だった。

 それよりも何よりも、りく也の判断力の良さと臨機応変な対応は、E.R.向きだと誰もが思っていた。驚きの声は当然と言えた。

「俺は最初から精神科医になるつもりで、医学部入ったんですもん」


『いつかきっと笑える日が来る。君がこんなに一生懸命なんだから。焦らないで。君の焦る気持ちは彼に伝染するよ。疲れたら、いつでも私の所にくればいいから。いいね?』


 そう言ったのは、ボストンで兄の主治医だった小児精神科医のドクター・グレッグだ。兄の感情を取り戻したくて、子供なりに焦っていたりく也を支えてくれた。第一は兄の為、第二は彼のカウンセリングに影響を受けて、精神科医の道を選んだ。

「でもまあ、まだ一年あるんで、気が変わるかも知れませんけどね」

 兄にはもう精神科医は不要だった。加納悦嗣が治しつつある。

「それはぜひとも期待したいもんだ。あ、でもここのE.R.を選んでくれよ」

 期待を込めてカインが言うと、「考えておきます」とりく也は笑った。

「リック、お客さまよ」

 ラウンジのドアが開いて、ナースのエミリーが顔をのぞかせた。意味深な笑みが口元に浮かんでいる。

「誰?」

「バラの騎士」




 りく也とユアン・グリフィスは、緊急車両の進入口脇に立っていた。

 西の空にオレンジ色の雲を残して陽は沈んで行った。摩天楼のシルエットが美しい日没は、ニューヨークの自慢の一つだが、マンハッタンの中に在るマクレインからは、残念ながら見ることは出来ない。従ってりく也はそれを堪能する為に、ユアンと佇んでいたわけではなかった。

 この場所はE.R.から死角になっている。ユアン・グリフィスがりく也に会いに来たと知ると、手の空いたスタッフ達の好奇な目が受付に集中した。見世物になるのは真っ平御免のりく也は、みんなの前で平静に挨拶をし、さっさとその場を離れたのである。それにここなら表通りがすぐ。一言言ってやってユアンを追い返せる。

「いい加減に、花を送ってくるのはやめろ」

 りく也の開口一番に言った。それに対してユアンは、「好きな相手には基本だろう?」と笑顔付きで答えた。

「迷惑だ」

「花は嫌いだった? じゃあ、次は違うものにするよ」

「だから、そう言うことじゃないだろ。だいたい、好きな相手って何だ? おまえとは一回しか会ってないぞ」

 ズボンのポケットからタバコを取り出す。ラウンジを出る際に突っ込んで来たので、潰れて曲がっていた。少し形を修正して、りく也は口にくわえる。ライターを忘れたので火は点けられない。それを承知でくわえるのは、気持ちを落ち着かせるためだ。もともとは激情型のりく也にとって、タバコは感情の抑止力として必須アイテムだった。

「回数なんて関係ないよ。恋に落ちる時は一瞬でだって落ちるものさ。それに僕は恋がしたかった。そうしたら目の前に君が現れたんだ。運命的にね」

 ユアンがそう言うのを呆れた表情で見やり、咥えたたばこを手に戻す。

「とにかく花もプレゼントもお断りだ。送ってきても、俺は受け取らない。じゃ、これで」

 用は済んだ。りく也は病棟に戻ろうと足を踏み出す。

「あの時、君はとても切ない目をしていた」

 呼び止めるように、ユアンが言った。

「何だと?」

 不覚にも相手の思惑通りに振り返ってしまった自分に、りく也は舌打ちした。

 ユアンは真顔になっていた。

「ドアから二人を見ていた時だよ。とても切なくて、僕は声をかけずにいられなかった」

 搬入口でさく也と加納悦嗣が話している姿を見ていた時のことを、りく也は思い出した。自分の知らない笑顔の兄――「まったくムカツクね」とりく也の胸中を代弁するかのような、背後で聞こえた言葉も。

「俺はそんな顔した覚えはない」

「大事なものを取られたって顔をしていたよ?」

 頬が一瞬、熱くなったようにりく也は感じた。

「その気持ちはよくわかるから、間違っていないと思うけど?」

「気持ち?」

「サクヤを他の人間に取られるって言う気持ちさ」

 ユアン・グリフィスがパートナーにするために、兄のさく也を追いかけまわしていたことは知っている。ヴァイオリニストとしてもあったが、恋人として求めていたのだ。当のさく也にはまったくその気はなく、また音楽性の違いもあって――これは曽和英介の言葉だ。りく也は音楽に対して無知に近い――、ついに「YES」と言わなかった。

 そんなヤツの気持ちと一緒だと言うのか?

(他人のおまえに、何がわかるって言うんだ)

 恋愛感情と一緒にされてたまるものか。

「それがどうした。俺は筋金入りのブラザー・コンプレックスなんだよ。そんな顔してもおかしくないさ」

 だから開き直ってやる。ムキになって反論し、相手を喜ばせたくはない。にっこりといつものように外面宜しい笑顔を浮かべて、りく也は答えた。

「君はチャーミングだね。色んな表情を持っていて、サクヤとはまた違った魅力がある。ますます好きになりそうだよ」

 今しも抱きしめる勢いで、長い両手を広げた。りく也は身をかわす。

「生憎、女には不自由してないんだ。男を抱きたいとも思わないしな」

「僕は抱く方が得意だ。心配ないよ。きっと君も満足するさ、男同士のセックスも」

 シュッと空気のなる音が聞こえた。りく也の右ストレートがユアンの頬に向かう音だった。あわててかわしたユアンは、無様にアスファルトの上に尻餅をついた。そうして避けなくても、りく也の手は頬には到達せずに止まるはずだった。

「誰が本気で殴るか。次、また戯けたこと言って見ろ、今度は頬骨、折ってやる」

 白衣の胸ポケットでベルが鳴った。

 尻餅をついたままのユアンに背を向けて、大またで踏み出した。

「リクヤ、僕と恋愛しようーっ! 僕はあきらめないからー。追いかけるのは得意なんだー」

 背後で叫ぶ彼に向かって、りく也は中指を立てた右手を走りながら思い切り振った。それに対して『黄金のグリフォン』が極上の笑みを贈ったなど、知る由もない。




「あ、何だぁ、一人で帰ってきたの?」

 息を切らして戻ったりく也を、ナース達の落胆を含んだ声が迎える。彼女達に舌を出して答えにした。

 外で話したのは正解だった。息抜き代わりに面白がられることは目に見えている。今だって、本当の呼び出しかどうか怪しいものだ。外来はスムーズに流れているし、緊急搬送の連絡が入っている様子はない。戻って来たりく也を見る目は、ナースに限らず、興味津々だった。

「呼び出されたんだけど?」

 受付のスミスは「知らない」と首を振った。

「みんな退屈してるのよ。今日は珍しく暇だもの。ちなみにベルを鳴らしたのはケーシー」

 カルテを戻しに来ていたナンシーは、患者を診ているケーシーを指差した。視線に気づいて彼は、親指を立ててりく也にウィンクして見せた。

「忙しけりゃ文句を言い、暇ならすぐに退屈する。ここはやっかいな所だなぁ」

 りく也は苦笑した。

「そ。あきない所よ。だから、ぜひともレジデンシィはここにしてね」

「もう営業ですか? まだ一年もあるんですけど?」

「優秀な学生には早いとこ唾つけとかなきゃ。精神科なんかに盗られたら、大損失だもの」

 ナースが持って来たカルテに投薬の指示を書き付け、ナンシーは時計を見た。

「今日は時間通りに帰れそうだわ。たまにはこんな日もなけりゃね」

 彼女が首にかけた聴診器を外して首を回したところで、緊急電話が鳴った。乗用車同士の衝突事故による怪我人の受け入れ要請が入る。人数は五人で、うち二人はかなりの重傷らしい。五分後に到着予定だと告げて、電話は切れた。

「あと十分でオフなのにぃ」

「退屈だなんて言うからさ」

 天を仰ぐナンシーに、スミスが皮肉った。外した聴診器を首にかけ直し、彼女は搬入口に向かった。手の空いているドクターも、次々と搬入口に走る。五分なんてすぐだ。りく也も後に続く。

 いつもの風景が戻って来た。不思議な高揚をりく也は覚えた。案外、自分はここに合っているのかも知れない。はっきりとした現実感が、余計な思考を止めてくれる。兄の代わりに自分を必要としてくれる――心の奥底に出来た小さな隙間を、忘れさせてくれる。

 こう言う日常に埋没するのもいいかと、近づいて来るサイレンの音を聞きながら、りく也は思った。



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