第18話:虚無の深淵と静かなる帰還(大マゼラン雲巡察)
第8部
α 銀河団における統理体制の
調整を終えた旗艦 AGは、
超弩級旗艦Asgard α を伴い、
多宇宙間跳躍システムITSが形成する
空間位相のトンネルを抜けた。
次元穿孔の光芒が収束し、
前方モニターに広がったのは、
α 銀河団とε 銀河団の間の
超巨大な虚空に孤立して浮かぶ、
大マゼラン雲(LMC)外縁・
巨星崩壊宙域であった。
かつてこの宙域は、
超新星の残滓と
濃密な星間ガスが入り混じり、
開拓民たちが
激しい重力嵐と戦いながら
拠点を築いていた苛烈な領域
であった。
だが、いま窓外に広がる光景は、
苛烈さすら奪い去られた
「絶対の虚無」であった。
かつて
暴威を振るった高エネルギー放射線も、
激しい素粒子の乱れも存在しない。
そこにあるのは、完全に平坦化され、
色彩を失ったかのような
無機質な星間空間である。
「……空間定数が、完全に
『平坦』に固定されています」
Asgard α の艦橋で、
端末の前に座るAsgard付き副官が、
感情を挟まない平坦な声音で
報告を上げた。
その手指は洗練された動作で
光量子キーを叩き続けている。
「物理的な障害、
重力異常、
放射線危険値、すべてゼロ。
軍事的な航行障害は
一切認められません。」
その傍らで、
ITSの位相データを監視していた
ITS付き副官が静かに言葉を継ぐ。
「ITS補給ノード、ならびに
沿岸開拓居留地群の
生命維持システム、数値上は
すべて正常値の範囲内。
障害発生確率、ゼロパーセント。」
数値上は、完全なる安全。
何一つ問題のない「完璧な宙域」。
だが、艦橋の
メインモニターに映し出された
大型採掘プラント
『第4LMCステーション』の
内部映像は、
その数値の完璧さと
真逆の凄惨さを物語っていた。
巨大なドーム状居留区の中では、
数万人の開拓民と現場作業員たちが
黙々と動いている。
誰一人として
会話を交わす者はいない。
事故も起きず、
作業効率は極めて高い。
だが、彼らの瞳には光がなく、
その顔容はまるで
精巧に作られた人形のようであった。
自分たちがどれほど汗を流し、
知恵を絞って拠点を築こうとも、
高次元の絶対的な暴力が
一瞬訪れれば、
すべての努力も苦難も
無意味なものとして
平坦な無へと書き換えられてしまう。
その圧倒的な不条理を
目の当たりにした臣民たちの心は、
砕け散ることも許されず、
深い虚無の底へと沈み込んでいた。
「過剰な消去が残した、
存在の徒労感……」
総司令官セレスティアが、
抑えた声音で呟く。
その眼差しには、
軍事指揮官としての視線と、
臣民の苦痛を察する
静かな憂慮が宿っていた。
「脅威を取り除いただけでは、
生気は戻りません。
彼らはただ、
消去されなかったから
生きているだけの
状態に陥っていますわ。」
現場からは、
なんの陳情も上がってこない。
「救ってくれ」という悲鳴すら、
そこには存在しなかった。
助けを求めることすら
無意味であると、
心が完全に拒絶しているからである。
大仰な挨拶も、拝謁の申し出もない。
ただ、
死んだように正確な作業ログだけが、
淡々とAGの
受信器へ送られてくる。
アーロンは、艦橋の中央で
静かに立ち尽くしていた。
椅子から立ち上がることもなく、
威厳を誇示するような
大仰な仕草も見せない。
ただ、
モニターの向こう側で
端末に向かい続ける一人の
若い作業員の、
力なく
乾いた指先を静かに見つめていた。
言葉は、不要だった。
「希望を持て」とも、
「我を信じよ」とも言わない。
言葉による慰めなど、
この絶望的な虚無の前には
虚妄の響きにしかならないことを、
アーロンは誰よりも熟知していた。
アーロンが、
静かに右手を持ち上げた。
指先が描いたのは、
教条的な印でもなければ、
複雑な魔導陣の展開でもない。
ただ、
目の前の臣民たちにそっと
手を伸ばすかのような、
自然で柔らかな一動作であった。
【全属性変換能】。
アーロンの体内から溢れ出た光は、
眩い爆発のようなものではなかった。
それは、暗く冷え切った部屋に、
静かに差し込む
夜明けの陽光に似ていた。
光芒は旗艦AGの装甲を透過し、
重力波と次元の隙間を滑るようにして、
LMC外縁宙域の
あらゆる角落へと広がっていく。
光はまず、空間そのものに作用した。
不自然に平坦化され、
死滅していた空間の揺らぎに、
自然な素粒子の脈動を
取り戻させていく。
真空の底に眠っていた
微少なエネルギーの揺らぎが
相転移を起こし、
宙域全体に
微細な温もりが戻り始めた。
そして、その光は透過し、
採掘プラントの
分厚い装甲を易々と吹き抜け、
臣民たちの胸の
奥深くへと浸透していった。
全属性変換能は、
事象の性質を別の性質へと
根本から相転移させる力である。
臣民たちの魂の深層に
澱のように溜まっていた
「徒労感」
「虚無」
「圧倒的な暴力への恐怖」——
その負の属性エネルギーが、
アーロンの光に触れた瞬間から、
静かに
別の属性へと書き換えられていく。
虚無は、「静かなる安寧」へ。
徒労感は、
「積み重ねてきた自負」へ。
絶望は、
「明日へ向けた確かな生気」へ。
プラントの端末前で、
機械的にキーを叩いていた
若い作業員の指が、ふと止まった。
彼の手のひらに、
温かい感覚が戻っていた。
自分が握りしめている
工具の重み、
鉄の匂い、
そして
隣で息をしている仲間の存在。
それらが、冷たいデータではなく、
生きた実感として
胸に飛び込んでくる。
作業員は、
ゆっくりと息を吐き出した。
その瞳に、
ほんのりと明かりが灯る。
大声を上げて泣き出すわけでもなく、
歓声を上げるわけでもない。
ただ、力強く、
もう一度工具を握り直し、
自らの意思で端末の画面を見つめた。
「……作業効率、
通常値へと移行。ですが……」
副官の声に、
ほんのわずかな、
人間らしいニュアンスが混じった。
「生体反応の波動パターンが
変容しています。
ストレス係数、急激に低下。
精神生命維持バイタル、完全復調」
明朝 7:30 に投稿します。
【セレスティア通信】
大マゼラン雲(LMC)外縁宙域巡察
および精神相転移記録
本国聖宮の総司令官セレスティア、
ならびに副官部ルナ・エレーナにより、
LMC外縁宙域における
環境・精神相転移の観察記録が
以下の通り記述された。
LMC外縁宙域の構造的・精神的課題
物理的脅威は除去されていたものの、
空間定数の過度な平坦化に伴い、
現場臣民に深刻な
「存在論的虚無感(精神的機能停止)」が
定着していた。
【全属性変換能】による
多次元相転移の成果
空間相転移:
平坦化された空間定数を解除し、
自然な素粒子脈動の再展開を完了。
精神相転移:
臣民の精神深層に定着していた
負加重エネルギー
(虚無・徒労感)を
「自立的生気」へと属性変換。
現場作業の自発的再開を確認。
α 〜 ε 航路副官運用の記録
Asgard α 付き副官:
宙域全体の生体バイタル解析
および艦内連動制御を継続。
ITS α 付き副官:
LMCノードの
現場手動制御への移行手配、
および次航路(車輪銀河)への
穿孔計算を完全手配。
【セレスティア通信】(続)
〜APGが繋ぐ二人の絆〜
吾郎:
「あ、ルナさん! こんばんは。
公務でお忙しい時間じゃないかな?
APGの操作パネルを触っていたら、
ルナさんの名前が光っていたから……
思わず繋いじゃったんだ」
ルナ:
「ふふ、こんばんは、吾郎様。
いいえ、
ちょうど聖宮での本日の執務報告を
まとめ終えたところですよ。
APGは公的回線と違って
副官たちの割り込み音声も入りませんし、
こうしてお話しできるのは
私にとっても心が安らぐ時間です」
吾郎:
「よかった!
ルナさんには、
俺が α 銀河団の司令官に着任した時から
ずっと助けられてばかりだからさ……
こうして二人きりでゆっくり話せるの、
なんだか少し
照れくさいけれどすごく嬉しいんだ」
ルナ:
「まあ……
そんな風に言っていただけるなんて。
吾郎様がいつも
胸に抱いていらっしゃる
一輪の赤い薔薇のように、
あなたの純粋で優しいお心は、
遠く離れた α 銀河団だけでなく、
この本国アルカディアにいる
私たちの癒やしにもなっているのですよ」
吾郎:
「ありがとう、ルナさん。
俺の扱う ITS や技術の力は、
目に見える形をつくるためのものだけど……
一番大切なのは、やっぱり
『目に見えない心の真実』なんだよね。
ルナさんがセレスティア様を
ずっと温かく支え続けている姿勢から、
俺はいつも大切なことを学んでいるよ」
ルナ:
「吾郎様……。
ええ、形あるものがどれほど移ろおうとも、
互いを思いやる真の心こそが
帝国の絆ですものね。
明日もまた、それぞれの場所で
聖王アーロン陛下とセレスティア様、
そして臣民の皆様のために力を尽くしましょう」
吾郎:
「うん!
ルナさんと話せて元気が出たよ。
それじゃあ、
遅くまでお疲れ様。
良い夜をね、ルナさん」
ルナ:
「はい。吾郎様も、
どうぞ暖かくしてお休みくださいね」




