第47話 生きて帰るために
地下区画でリゼットの声を聞いてから、エリアスは何度も手帳を開いていた。
記録を読み返しても、新しい事実が増えるわけではない。扉が現れた時刻、魔力測定器の反応、アルトが呼びかけた名前、そして壁の向こうから聞こえた声。書かれているのは、それだけだった。
――来ないで。
たった一言が、ほかのどの記録よりも重く感じられた。
リゼットはそこにいた。少なくとも、彼らの呼びかけを聞き、言葉を返せる状態にあった。あの声が幻聴でなければ、彼女は今も自分の意思を保っている。
それは希望だった。
同時に、彼女が何を考えているのか分からないという事実を、以前よりもはっきりと突きつけていた。
彼女は助けを求めなかった。
戻りたいとも言わなかった。
ただ、来ないでほしいと告げた。
エリアスは窓辺に立ち、王都の街並みを眺めた。通りには人が行き交い、商店の軒先では店主たちが品物を並べている。中央広場には、アルトの告白について話し合う人々がまだ集まっていた。
世界は、いつもどおりに動いているように見えた。
しかし、記録の中では、すでに失われ始めた場所がある。人々の記憶から消えたものがあり、記録から消えたものがあり、今では物理的な痕跡まで失われつつある。
誰もがその変化を同じように認識しているわけではない。異変に気づいている者もいれば、目の前の出来事を不運や勘違いとして片づけている者もいる。
その違いが、これから先、どれほど大きな意味を持つのだろう。
「また読んでいるのか」
背後からアルトの声がした。
エリアスは手帳を閉じた。
「読んでも答えが出ないことは分かっているんだけどね」
「それでも読むんだな」
「記録係だから」
「便利な言い訳だ」
エリアスは振り返った。
アルトは疲れた顔をしていた。広場での告白以来、彼のもとにはさまざまな人間が訪れていた。事情を確かめたい者、責任を追及したい者、これまでの英雄像を守りたい者。中には、アルトが話したことをすべて否定しようとする者もいたという。
彼はその一人一人に応じ、自分が知っていることを説明していた。
それで過去の責任が軽くなるわけではない。だが、説明することから逃げないと決めた以上、途中でやめるわけにもいかなかった。
「何か進展はあったか?」
「ノエルの研究資料をもう一度整理した。封印内部へ接触する方法については、まだ分からないことが多い。ただ、昨日の反応は、彼の研究に記された現象と一致する可能性がある」
「リゼットが応えたこともか」
「そうだね」
エリアスは少し考えてから、言葉を続けた。
「彼女が自分の意思で話したのなら、こちらの呼びかけを理解しているはずだ。少なくとも、何も分からないまま閉じ込められているわけではないと思う」
「それなら、なぜ来るなと言ったんだろうな」
アルトは窓の外へ視線を向けた。
エリアスも、その問いを考え続けていた。
リゼットが彼らを拒んだ理由は分からない。封印から離れれば世界に危険が及ぶと考えているのかもしれない。あるいは、彼らが近づくことで何かが起きることを恐れているのかもしれなかった。
だが、理由が分からないからといって、彼女の言葉を無視していいわけではない。
「もう一度、接触する必要がある。ただし、次は何が起きるかをできるだけ調べてからだ」
「分かった。俺も行く」
「そのつもりだよ」
エリアスは机の上に広げていた資料をまとめた。
ノエルの研究によれば、新しい封印を成立させるには六人全員が必要になる。誰か一人が代わりを務めることはできず、外側から魔力を注ぎ込むだけでも完成しない。
しかし、六人が揃うためには、まずリゼットたちを空白領域から救い出さなければならない。
そのリゼットが、来るなと言った。
彼女の意思を無視して先へ進むことはできない。だが、彼女の言葉をそのまま受け取り、何もせずに引き下がることもできなかった。
彼女が何を守ろうとしているのかを知らなければならない。
エリアスは資料を一枚ずつ重ね、最後にノエルの図面を手に取った。六つの接続点が描かれた図の中央には、空白が残されている。
その空白は、リゼット一人にすべてを背負わせる構造を変えるためのものなのだろう。
誰かが犠牲になることを前提とせず、六人それぞれの意思と役割によって封印を支える。
それが実現できれば、リゼットは核であり続ける必要がなくなるかもしれない。
だが、彼女がそれを受け入れるかどうかは、まだ分からなかった。
*
再び地下区画への調査が認められたのは、その日の午後だった。
正式な許可が下りたというより、記録院長官が教会側との調整を続ける間に、限定的な再調査を認めることで双方が合意したのだ。調査に同行する者は前回と同じで、封印への干渉は禁止されている。
エリアスとアルトは、ノエルの研究資料を持って地下へ降りた。
石壁の前に立つと、エリアスはまず昨日の記録と現地の状況を照合した。壁に損傷はない。床に新たな痕跡も見られなかった。魔力測定器の針はわずかに揺れたが、昨日と同じ反応が再現されているとは断言できない。
彼はノエルの記録を開いた。
外周接続点での反応は、特定の魔法を使った時だけに生じたわけではないらしい。測定器による観測のほか、調査員が近くで言葉を発した時や、封印に関する資料を読み上げた時にも、わずかな変化が記録されていた。
その中に、名前を呼びかけたという記述はなかった。
昨日の反応は、ノエルの研究で説明できる現象の範囲内にあるのかもしれないが、同じものだと確定するには情報が足りない。
「どうする?」
アルトが尋ねた。
「前回と同じ条件を再現してみよう。まずは君が呼びかける前に、測定器の反応を記録する。それから、名前を呼んだ場合に変化が起きるか確かめる」
「反応が起きなければ?」
「何度も繰り返すのはやめよう。昨日と同じことが起きる保証はないし、封印に負担がかかっている可能性もある」
エリアスは測定器を壁に近づけ、針の動きを手帳に記した。
しばらく待っても、目立った変化はなかった。
次に、アルトが壁の前に立った。
「ノエル。聞こえているなら、応えてくれ」
沈黙。
アルトは続けて、ガレクとセレナの名を呼んだ。
やはり何も起こらない。
最後に、彼はリゼットの名を口にした。
その瞬間、測定器の針が小さく振れた。
エリアスはすぐに時刻と数値を記録した。前回ほど大きな反応ではない。それでも、名前を呼ぶ前と後で変化があったことは確認できた。
アルトがもう一度呼びかけようとした時、エリアスは手で制した。
「今日はここまでにしよう」
「まだ、扉は現れていない」
「それでも反応はあった。何度も試すより、まずはこの結果を整理したい」
アルトは壁を見つめたまま、うなずいた。
調査官も異議を唱えなかった。
二人は資料をまとめ、帰ろうとした。
その時だった。
壁の中央に、細い光が走った。
エリアスは足を止めた。
光は前回と同じように縦へ伸び、やがて扉の輪郭を形作っていった。だが、前回よりも輪郭は不安定だった。光が途切れ、現れては消え、境界線の向こうに暗闇が揺れている。
「下がりなさい!」
調査官が叫んだ。
エリアスはとっさに一歩退いたが、目は扉から離せなかった。
暗闇の向こうに、人影が立っていた。
昨日と同じ姿だった。
リゼットだ。
彼女は扉の向こう側から、こちらを見つめていた。
「リゼット!」
アルトが呼んだ。
人影が動いた。
今度は、顔の輪郭がわずかにはっきりと見えた。淡い光の中で、リゼットは確かに二人を見ていた。驚いているようにも、困惑しているようにも見えた。
エリアスは思わず前へ出た。
「リゼット、僕たちの声が聞こえるんだね?」
返事はなかった。
「君を迎えに来たんだ。ノエルの研究に、封印を移行する方法が残されている。君一人が核になり続ける必要はないかもしれない」
リゼットの表情が変わった。
彼女は首を横に振った。
「駄目」
声が届いた。
かすれてはいたが、今度ははっきりと聞き取れた。
「どうして?」
エリアスは尋ねた。
「ここから離れたら、封印が壊れるのか?」
リゼットは答えなかった。
ただ、二人の背後にいる調査官たちへ目を向け、それから再びエリアスを見た。
「帰って」
その声には、はっきりとした拒絶があった。
「リゼット、俺たちは君を助けたいんだ」
アルトが言った。
彼は扉へ近づこうとしたが、エリアスが腕をつかんで止めた。
「待ってくれ。彼女の話を聞こう」
アルトは足を止めた。
エリアスは、リゼットに向き直った。
「僕たちがここへ来ることで、何か危険が起きるのなら教えてほしい。封印を守るために君がここにいることは分かっている。でも、君一人に任せ続けるつもりはないんだ」
「分かっていない」
リゼットは小さく首を振った。
「あなたたちは、何も分かっていない」
エリアスは言葉を失った。
その声には、怒りだけではない何かが含まれていた。長い時間をかけて押し込めてきた感情が、わずかな隙間から漏れ出したような響きだった。
「リゼット、何が起きているんだ?」
アルトが尋ねた。
「ここから離れたら、何が起きる?」
リゼットは目を伏せた。
しばらくして、彼女は答えた。
「分からない」
その返事は、二人が予想していたものとは違っていた。
彼女は何かを知っているから拒んでいるのだと思っていた。自分が離れれば封印が壊れると確信しているから、仲間たちを遠ざけているのだと。
だが、リゼット自身にも、すべてが分かっているわけではないのかもしれなかった。
「分からないけど、離れられないの」
彼女は続けた。
「ここがどうなっているのか、私にも分からない。何が起きているのかも、どこまで持ちこたえられるのかも、分からない。でも、私がここから離れたら、何かが壊れるかもしれない」
「その可能性を、ノエルが調べていたんだ」
エリアスは言った。
「彼は新しい封印の構造を研究していた。六人で役割を分担して、一人に負担を集中させない方法を考えていたんだ」
リゼットの目が大きく開かれた。
「ノエルが……?」
「そうだ。まだ完成してはいない。でも、君がずっとここに残らなくてもいい方法があるかもしれない」
リゼットは何かを言いかけた。
しかし、その言葉は声になる前に消えた。
扉の輪郭が揺れ始めたのだ。
光が細くなり、暗闇が少しずつ閉じていく。エリアスは焦って声を上げた。
「リゼット、待ってくれ! 僕たちは君を連れ戻したいんだ。君の意思を無視して何かを決めるつもりはない。だから、何を考えているのか教えてほしい!」
リゼットは二人を見つめた。
彼女の唇が動いた。
「お願い……」
その声は、扉が閉じる音もないまま、途切れた。
光が消えた。
壁は再び、何もない石壁に戻っていた。
*
しばらく、誰も口を開かなかった。
調査官は測定器の数値を確認し、記録院の職員に現象の記録を取るよう指示していた。二人が見たものを信じていないわけではないのだろう。ただ、彼らにとっても、今の出来事は理解の範囲を超えていた。
エリアスは壁を見つめていた。
リゼットは、彼らの呼びかけを理解していた。
ノエルの研究について話した時、明らかに反応を示した。彼女は新しい封印の構造を知らなかったのかもしれない。少なくとも、それが彼女にとって予想外の情報だったことは確かだった。
そして、最後に何かを頼もうとしていた。
――お願い。
何を頼みたかったのだろう。
来ないでほしいという拒絶と、お願いという言葉。その二つは矛盾しているように思えた。
だが、本当にそうなのだろうか。
助けてほしいと願いながら、助けに来ないでほしいと告げることは、あり得ないことではない。
自分を救うことで、誰かが傷つくのなら。
自分がいなくなることで、守ってきたものが壊れるのなら。
助かりたいと思う気持ちを、口にすることさえできなくなるのかもしれない。
「戻ろう」
エリアスは言った。
アルトはすぐには動かなかった。
「もう一度、呼びかけなくていいのか」
「今は、これ以上続けても同じことになると思う。それに、彼女が何を伝えようとしていたのか、まだ分かっていない」
「俺たちが来たことで、彼女を苦しめたのかもしれないな」
「そうかもしれない。でも、僕たちが来なければ、彼女が何を考えているのかを知ることもできなかった」
エリアスは、壁から目を離した。
「次に会えたら、もっときちんと話そう。封印のことだけじゃない。彼女自身が、どうしたいのかを」
アルトはうなずいた。
二人は地下区画を後にした。
階段を上る間、エリアスは一度も手帳を開かなかった。記録すべきことは、もう分かっている。リゼットとの接触は二度目であり、彼女は新しい封印の研究を知らなかった可能性がある。そして、彼女は自分が離れれば何かが壊れるかもしれないと恐れている。
それらは重要な事実だった。
しかし、今のエリアスが考えていたのは、記録の整理ではなかった。
彼女は何を願っていたのだろう。
自分がここに残るしかないと思い込んでいるのだとすれば、その考えを変えることはできるのだろうか。
彼女が本当は戻りたいと願っているのなら、その願いを口にできるようにするには、何が必要なのだろう。
エリアスには答えがなかった。
だからこそ、次に会う時には、彼女の話を最後まで聞かなければならないと思った。
*
王城に戻ったエリアスとアルトは、ノエルの研究資料をもう一度広げた。
地下で起きた反応を記録し、既存の観測結果と照合する。扉が現れた時間、魔力測定器の針の動き、呼びかけた名前、リゼットの声。どれも、次の接触に必要な手がかりになるはずだった。
だが、調査を進めるほど、エリアスはあることに気づいていた。
ノエルの研究は、封印を維持する方法を見つけるためのものだった。しかし、リゼットの問題は、封印の仕組みを変えるだけでは解決しない。
彼女は、封印の中にいる。
それだけではない。
彼女は、自分がそこから離れていいのか分からなくなっている。
仮に、新しい封印の構造が完成したとしても、リゼットが自分から移行することを選ばなければ、計画は成立しない。彼女が拒み続ける限り、彼らは彼女を救い出すことができないかもしれなかった。
「リゼットが自分から離れようとしない限り、封印の移行は難しいのかもしれない」
エリアスが言うと、アルトは研究資料から顔を上げた。
「彼女が拒んでいるのは、戻りたくないからじゃないと思う」
「どうしてそう思う?」
「分からない。ただ、俺たちを見た時の顔が、そうは見えなかった」
アルトは言葉を探すように、少し間を置いた。
「本当に戻りたくないのなら、あんなふうに俺たちを見つめる必要はないだろう。何か言いたいことがあった。だが、言えなかった。俺には、そう見えた」
エリアスは、先ほどの光景を思い返した。
確かに、リゼットは彼らを見つめていた。拒絶する言葉を口にしながら、完全に背を向けることはなかった。最後には、何かを頼もうとしていた。
彼女が本当に何も望んでいないのなら、あの言葉は必要なかったのかもしれない。
「次に会えたら、聞いてみよう」
エリアスは言った。
「何を?」
「君は、どうしたいのかって」
アルトは黙ってうなずいた。
その夜、エリアスは手帳に、地下で見たことをすべて書き残した。
リゼットが拒んだこと。
彼女が新しい封印の研究に反応したこと。
自分が離れれば何かが壊れるかもしれないと、彼女が恐れていること。
そして、最後に何かを頼もうとしていたこと。
彼は、彼女が本当は戻りたがっていると断定することはしなかった。それはまだ、彼らの推測にすぎない。
ただ、彼女の拒絶を、彼女自身の望みのすべてだと決めつけることもしなかった。
記録を閉じた後、エリアスはしばらく机に向かったまま動かなかった。
かつて彼は、リゼットが世界を守るために犠牲になることを選んだのだと記録した。そして、その記録を正しいものとして受け入れた。
彼女が本当に何を望んでいたのか、確かめようともしなかった。
今になって思えば、あれは記録ではなく、彼女の選択を都合よく理解したつもりになっていただけだったのかもしれない。
彼女が自分の意思で選んだことと、ほかの道がないと思い込んで選んだことは、同じではない。
その違いを確かめるのは、彼女自身の言葉を聞くことからしか始まらない。
エリアスは手帳を閉じた。
次にリゼットと会う時、彼女を救う方法を一方的に告げるのではなく、彼女が何を望んでいるのかを聞こう。
戻りたいのか。
それとも、戻ることを恐れているのか。
どちらであっても、彼女の言葉を聞く前に答えを決めることはしない。
窓の外では、王都の灯りが一つずつ消えていった。
白紙現象は、今も進んでいる。
封印がいつまで持ちこたえられるのか、誰にも分からない。
それでも、エリアスは初めて、救出のために必要なのは封印の構造を変えることだけではないのだと、はっきり理解していた。
リゼットが、もう一度、自分の望みを口にできるようにすること。
彼女が一人で背負わなければならないと思い込んでいるものを、六人で分かち合えると伝えること。
そして、彼女自身が生きて帰ることを選べるようにすること。
それができなければ、彼らは本当の意味で彼女を救い出したことにはならない。
エリアスは、手帳の表紙にそっと指を置いた。
次に会う時には、もう一つだけ、必ず尋ねようと思った。
世界を守るために何をしなければならないのかではない。
リゼット自身は、どうしたいのか。
彼女がその問いに答えられる場所まで、必ずたどり着くために。




