第44話 白紙の拡大
記録院でエリアスが証言を行った翌朝、王都の鐘が鳴るより早く、王城から使者が宿へやって来た。
使者が携えていたのは、記録院長官の署名が入った緊急の召集状だった。封印に関する調査のため、王城の資料室へ提出資料を持参すること。加えて、王都で発生している記録の消失について、エリアスとアルトの立ち会いを求めること。書状には簡潔にそう記されていたが、使者の表情は文面以上に切迫していた。
「記録の消失というのは、白紙現象のことか」
アルトが尋ねると、使者は頷いた。
「詳しい状況は、記録院から直接説明があるそうです。ただ、昨夜から複数の場所で同じような異常が確認されていると聞いています」
エリアスは書状を受け取り、もう一度目を通した。
昨日まで、白紙現象は彼らが持つ資料や、歴史改変に関係する記録の周辺で確認されていた。最初は古い文書の一部が読めなくなり、次に記録から特定の名前が失われ、やがてその名前が記されていたこと自体が分からなくなる。影響は少しずつ広がっていたが、少なくとも王都の人々が暮らす日常に、明確な異変が生じたという報告はなかった。
その状況が変わったのだとすれば、事態は新しい段階に入ったことになる。
「すぐに行こう」
アルトが外套を手に取った。
エリアスは手帳を確かめ、ノエルの研究資料をまとめた袋を持ち上げた。昨夜、二人は資料室で研究内容を読み直すつもりだったが、結局、白紙現象の進行について記された箇所を整理するだけで終わっていた。ノエルの研究は、旧封印の構造を理解するための重要な手がかりだった。しかし、彼女が残した記録には、まだ検証されていない仮説も多い。
今、その仮説が現実の危機と結びついている可能性があった。
エリアスは資料を袋に収め、宿を出た。
朝の王都は、いつもどおりに見えた。パン屋の煙突から煙が上がり、荷車が通りを進み、店先では商人たちが開店の準備をしている。昨日のアルトの告白について話す人々の姿もあったが、街全体が混乱しているわけではない。
それだけに、エリアスは胸の奥に嫌な感覚を覚えていた。
白紙現象は、目に見える形で世界を壊すとは限らない。記録が失われ、記憶が変わり、人々が何かを失ったことにすら気づかなくなる。変化が起きている最中でさえ、それを異変として認識できる者は限られている。
彼らが見ている日常が、すでに何かを失った後の姿である可能性もあった。
*
王城の資料室には、記録院長官のほか、封印に関する古文書を管理する学者と、王城の政務官が集まっていた。
机の上には、複数の記録が広げられていた。古い地図、王都の行政記録、教会から提供された封印関連の文書。それぞれ別の場所に保管されていた資料だが、共通しているのは、文字や図の一部が不自然に消えていることだった。
「こちらを見てください」
記録院長官が、一枚の地図をエリアスの前に差し出した。
それは王都の古い街路図だった。城壁や大通り、広場、教会、行政施設などが細かく描かれている。その中に、薄く消えかけた線が一本あった。
エリアスは地図に顔を近づけた。
「これは、何の線ですか」
「昨日までは、旧封印に関する施設を示す記号が記されていたそうです。現在の地図には存在しない施設ですが、古い記録では、王都の地下に封印を管理するための区画があったことになっています」
学者が説明を引き継いだ。
「その区画の記録は、王国の成立以前にまで遡ります。ただし、封印そのものがどこに設置されていたのか、何を目的としていたのかについては、資料によって記述が異なっている。今回の調査で古い地図を確認したところ、複数の文書に同じ区画が記されていました」
「それが、消え始めているのですか」
「ええ。最初に異常が確認されたのは昨夜です。今朝には、地図に記された区画の輪郭が薄くなっていました。ほかの資料でも、同じ場所に関する記述が欠落しています」
エリアスは地図を見つめた。
消えかけた線は、単なる汚れや紙の劣化には見えなかった。線の周囲には古い顔料が残っているのに、その部分だけが紙の色へと戻っている。文字が書かれていた場所も同じだった。紙の表面に傷はなく、削り取られた跡もない。
記録が失われているのではなく、そこに記録が存在したという事実そのものが、薄れていくようだった。
「この区画は、ノエルの研究に出てくる場所と関係があるかもしれません」
エリアスは持参した資料を机に広げた。
ノエルの研究には、旧封印が王都の地下にある古い構造と接続している可能性が記されていた。封印は単独で存在するものではなく、地上の施設や魔力の流れを利用して維持されている。現在の王都には、その構造の全容を把握している者がいない。歴史改変の過程で、封印に関する記録の多くが失われたためだった。
学者は研究資料を受け取り、慎重に頁をめくった。
「この図は……」
「ノエルが旧封印の構造を推測したものです。実際の配置を完全に再現したものではありませんが、古い地図と一致する部分があります」
学者は地図と研究資料を並べた。
二つの図は、完全には重ならなかった。それでも、旧封印に関係する区画と、ノエルが推測した魔力の流れには、無視できない共通点があった。
「もし、この区画が本当に封印の一部であるなら」
学者は言葉を切った。
「記録だけが消えているのではない可能性があります」
部屋に沈黙が落ちた。
アルトが机の上の資料を見下ろした。
「どういう意味ですか」
「白紙現象が、封印そのものに影響を及ぼしている可能性があるということです。封印の構造を支えているものが、歴史の改変によって生じた矛盾と結びついているのなら、記録の消失は、その構造が失われていく過程の一部なのかもしれません」
「つまり、封印が壊れ始めていると?」
「現段階では断定できません。しかし、単に記録が読めなくなっているだけだと考えるのは危険です」
エリアスは、ノエルの研究資料に目を落とした。
彼女は旧封印を調べる過程で、封印の内部に空白領域が存在する可能性を指摘していた。その領域は、歴史改変によって生じた矛盾を外部から切り離すための場所であり、消えた仲間たちはそこに留め置かれているのではないか。
もしその仮説が正しいのなら、封印が不安定になることは、空白領域にいる仲間たちの状態にも影響するはずだった。
「ノエルは、封印が限界に近づいている可能性を示していました」
エリアスは言った。
「この現象が同じ原因によるものなら、記録の消失が広がっているということは、封印の状態も悪化していると考えるべきです」
「しかし、何をもって限界と判断するのですか」
政務官が尋ねた。
「封印が崩壊する前兆があるのか、それとも一定の範囲まで記録が失われた時点で、突然破綻するのか。今の説明では、その区別がつきません」
「そのとおりです」
エリアスは認めた。
「だからこそ、現象が進むのを待って調べるわけにはいきません」
政務官は眉を寄せたが、反論はしなかった。
記録院長官が、机の上の資料をまとめた。
「まず、実際に何が起きているのかを確認しましょう。今朝、最初に異常が見つかった場所へ案内します。そこには、現象を直接目撃した職員もいます」
エリアスとアルトは頷いた。
彼らは資料を持ち直し、長官の後に続いた。
*
異常が確認されたのは、王城に隣接する記録保管棟だった。
王国の行政記録を保管する建物の一つで、日々の業務に使われる文書から、数十年前の土地台帳まで、幅広い資料が収められている。一般の市民が訪れる閲覧室もあったが、問題の記録が保管されているのは、職員しか立ち入れない奥の書庫だった。
書庫の入口には、数人の職員が集まっていた。彼らは長官の姿を認めると道を空け、室内で何が起きたのかを説明し始めた。
「今朝、土地台帳の照合作業をしていた職員が、複数の記録に同じ異常があることに気づきました。最初は、古い資料の文字が薄くなっているだけだと思ったそうです。しかし、別の台帳でも同じ現象が起きていました」
「消えたのは、どのような記録ですか」
エリアスが尋ねた。
「王都の地下に関係する土地の記録です。現在は王国の管理地になっている場所ですが、古い台帳には、以前そこに別の施設があったことが記されています」
職員は書庫の奥へ案内した。
長い棚の間を進んだ先に、作業用の机が置かれていた。机の上には、開かれた台帳が三冊並んでいる。どれも異なる年代に作成されたものだったが、同じ土地に関する記録が載っていた。
エリアスは最初の台帳を覗き込んだ。
文字の一部が消えていた。
土地の所有者、用途、面積。項目ごとに記録された情報のうち、特定の箇所だけが白くなっている。残された文字を追えば、消えた部分が文章の途中にあったことは分かる。しかし、何が書かれていたのかを推測するには、情報が足りなかった。
二冊目も同じだった。
三冊目では、文字だけでなく、土地の境界を示す線まで薄くなっていた。
「この異常を、職員たちはいつ確認したのですか」
「最初に気づいたのは、今朝の鐘が鳴る前です。台帳を開いた時点では、まだ文字が残っていたそうです。照合作業を始めてしばらくした後、もう一度確認したところ、記録の一部が白くなっていたと」
エリアスは、台帳の頁を慎重にめくった。
文字が消えている箇所は、無作為に散らばっているわけではなかった。異なる年代の資料であっても、同じ土地に関する記述が失われている。しかも、失われた記述は、王都の地下にかつて存在した施設に関係しているようだった。
「この場所を示す記録は、ほかにもありますか」
「現在、別の書庫にある地図と照合しています。ただ、そちらでも一部の記述が失われていると報告がありました」
エリアスは顔を上げた。
同じ場所に関する記録が、複数の資料で同時に失われている。
白紙現象が、単純に紙やインクへ作用しているのではないとすれば、記録が保管されている場所を変えても意味がないのかもしれない。歴史改変によって生じた矛盾そのものを消そうとしているのなら、記録がどこにあろうと、同じ対象に関する情報が失われていく可能性がある。
その考えを裏付けるように、アルトが別の台帳を手に取った。
「こちらは、どうして何も消えていないんだ」
台帳には、同じ土地の現在の管理状況が記されていた。記録は古いものだったが、文字も図も残っている。
職員が説明した。
「現在の土地の管理に関する記録には、今のところ異常が確認されていません。消えているのは、古い施設に関する記述が中心です」
「つまり、過去の記録だけが消えているのか」
「正確には、そうとは言い切れません。ほかの資料を確認する必要があります」
エリアスは台帳を見つめた。
白紙現象の影響は、記憶から記録へ、記録から存在へ、そして物理的な痕跡へと進む。作品の歴史から失われたものが、段階を追って世界から消えていく。
今、彼らが見ているのは、そのうちの記録に関わる段階なのだろう。
しかし、古い施設の記録が失われているという事実は、単なる歴史上の欠落ではなかった。もし、その施設が旧封印の一部だったのなら、記録が消えることは、封印を支えていた構造が失われていることを示している可能性がある。
エリアスは、ノエルの研究資料を取り出した。
「この場所を、もう少し詳しく調べる必要があります。古い地図と現在の建物の配置を照合したい」
「地下に立ち入るということですか」
長官が尋ねた。
「可能ならば。ノエルの研究では、旧封印が地下の構造と接続している可能性が示されています。記録が失われている場所を実際に確認できれば、現象の原因を絞り込めるかもしれません」
学者は研究資料を覗き込み、慎重に頷いた。
「王城の地下には、現在使われていない古い通路があります。すべての区画が把握されているわけではありませんが、古い地図に記された場所へ通じている可能性はあります」
「では、そこを調べましょう」
アルトが言った。
長官は一瞬、ためらった。
「地下区画への立ち入りには許可が必要です。安全性も確認しなければなりません」
「許可を待っている間に、記録が消えるかもしれない」
アルトの声には、昨日までとは違う硬さがあった。
「危険があることは分かっています。だからといって、危険がなくなるまで何もしないわけにはいかない」
長官は彼を見つめた後、学者へ向き直った。
「地下区画への立ち入りに必要な準備を進めてください。現場の安全を確認できる範囲で、可能な限り早く調査を始めます」
それは、封印移行を認める決定ではなかった。
だが、白紙現象を記録上の問題として扱う段階は、終わりつつあった。
*
書庫での調査を終えた後、エリアスは王城の一室でノエルの研究資料を広げていた。
窓から差し込む光は、すでに昼を過ぎた色になっている。机の上には古い地図と土地台帳の写しが並び、その横にノエルの研究記録が置かれていた。
彼は、資料の中から封印の構造を示す図を探し出した。
ノエルは、旧封印を単なる結界として考えていなかった。彼女の研究によれば、封印は複数の構造が互いに支え合うことで維持されている。魔力の流れを制御する部分、内部の矛盾を外部から切り離す部分、そして封印全体の安定を保つ部分。それらが一つの仕組みとして働くことで、旧封印は長い間、世界を支えてきた。
だが、その構造は歴史改変によって不安定になっている可能性があった。
リゼットが旧封印の核となったことを隠すために、歴史が改変された。その結果、本来なら存在していたはずの記録や痕跡が失われ、世界には矛盾が生じた。白紙現象は、その矛盾を解消するように進んでいる。
ノエルは、封印が矛盾を抑え込む役割を担っているのではないかと考えていた。
もしそうなら、白紙現象が進むほど、封印の負担は増す。封印が矛盾を処理しきれなくなれば、内部の構造そのものが失われる可能性もある。
エリアスは、図の一部を指でなぞった。
旧封印の中央には、空白として描かれた領域があった。ノエルはその場所について、明確な説明を残していない。彼女が確認できたのは、封印の構造がその領域を囲むように配置されていること、そして外部から観測できないはずの場所に、何らかの反応が残っていることだった。
そこに、消えた仲間たちがいる。
その可能性は高い。
しかし、空白領域がどのような状態にあるのか、仲間たちがどのように留め置かれているのかは、まだ分かっていなかった。
「この部分は、何度読んでも同じだな」
アルトが隣から図を覗き込んだ。
「ノエルは、封印を維持する構造と、内部の空白領域を分けて考えている。だが、どこまでが実際の構造で、どこからが推測なのかは、本人に聞かなければ分からない」
「だから、ノエルの研究を完成した答えとして扱うわけにはいかない」
エリアスは答えた。
「彼女が残したのは、現象を観察した結果と、そこから導いた仮説だ。俺たちがすべきなのは、その仮説を確かめることだ」
「それには、封印の内部へ近づく必要がある」
「そうだな」
エリアスは、古い地図を研究資料の横へ置いた。
地図に描かれた地下区画と、ノエルの図に記された構造を照合する。いくつかの位置関係は一致していた。完全に同じではないが、古い区画が封印の維持に関係していたという仮説を補強するには十分だった。
「もし、白紙現象が封印の構造そのものを消しているなら、調査を急ぐ必要がある」
エリアスは言った。
「記録が消えるだけなら、手帳に写しを残すこともできる。だが、現象が物理的な痕跡にまで及んでいるのなら、記録を残すだけでは何も守れない」
アルトは、机の上の資料を見つめた。
「旧封印を直すことはできないのか」
「ノエルの研究では、旧封印を元の状態に戻すことが解決策になるとは書かれていない。むしろ、今の構造を維持すること自体が、限界に近づいている可能性がある」
「なら、新しい封印へ移行するしかないのか」
「その可能性が高い。ただ、具体的な方法を確かめる必要がある」
エリアスは研究資料を閉じた。
新しい封印への移行は、以前から検討されていた。旧封印が一人の犠牲に依存する構造であるなら、その構造を変えなければ、リゼットを救い出した後も同じ問題が残る。
新しい封印は、六人それぞれが役割を担うことで成立する必要があった。
エリアスは、まだその全容を理解しているわけではない。自分が何を担うべきなのかも、完全には分かっていなかった。
だが、少なくとも、誰か一人を再び犠牲にする方法だけは選びたくなかった。
*
午後遅く、王城の鐘が鳴った。
その音に重なるように、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。扉が開き、記録院の職員が息を切らして部屋へ入ってくる。
「長官がお呼びです。すぐに来ていただきたいとのことです」
エリアスとアルトは顔を見合わせた。
「何が起きた」
アルトが尋ねると、職員は一度息を整えた。
「王城の地下区画で、異常が確認されました」
エリアスは立ち上がった。
「異常というのは、白紙現象か」
「それだけではありません。古い通路の一部で、地図に記されていた構造と、実際の壁の配置が一致しなくなっています。以前から存在していたはずの扉が見つからず、その周辺の石壁にも、記録にない変化が起きているそうです」
エリアスの背筋に、冷たいものが走った。
記録が失われるだけではない。
物理的な痕跡にまで、現象が及び始めている。
彼はノエルの研究資料を手に取り、袋へ収めた。アルトも剣帯を確かめ、職員の後に続いた。
地下区画へ通じる階段は、王城の奥まった場所にあった。普段は閉じられている扉の前に、数人の兵士と学者が集まっている。石造りの階段は下へ向かって暗く伸び、壁には古い時代の装飾が残っていた。
学者が持つ灯りに照らされ、階段の先に通路が見えた。
エリアスは、古い地図を取り出して確認した。
通路の形は、地図に描かれているものと似ていた。だが、突き当たりにあるはずの扉が見当たらない。地図では、その先に小さな部屋があり、そこからさらに地下へ続く通路が伸びているはずだった。
「昨日の記録では、ここに扉があったそうです」
学者が、通路の突き当たりを指した。
「扉の位置は、ほかの地図でも確認されています。ところが、今朝、調査に来た職員が確認した時には、すでに壁になっていたと」
アルトが壁へ近づいた。
石材の色は周囲とほとんど変わらない。継ぎ目も目立たず、後から塞いだようには見えなかった。扉があったという痕跡すら、見つけるのは難しいだろう。
エリアスは、壁に手を触れた。
冷たい石の感触が掌に伝わった。
そこには、確かに壁があった。
だが、古い地図にも、土地台帳にも、この位置に扉が存在していたという記録が残っている。しかも、その記録はつい先ほどまで、完全な形で保管されていたのだ。
白紙現象が、さらに進んでいる。
「この壁の向こうに、何があるはずだったんですか」
エリアスが尋ねた。
「記録によれば、旧封印の維持に関係する小さな区画です。ただ、具体的に何が置かれていたのかは、資料によって記述が異なります」
「中を確認することはできませんか」
「現状では、別の通路から回り込めるかどうかも分かっていません」
エリアスは壁から手を離した。
記録が失われた結果、存在そのものが失われているのだとすれば、この壁の向こうにあった部屋は、すでに世界から消えてしまったのかもしれない。
それが意味することは一つだった。
白紙現象は、もう過去の記録だけに影響しているのではない。
世界の物理的な構造そのものを変え始めている。
「調査を続ける必要があります」
学者が言った。
「しかし、これ以上の変化が起きる可能性を考えると、地下区画への立ち入りには危険が伴います。封印に関わる構造が失われているのなら、どこまでが安全なのか判断できません」
「危険があるからといって、何もしないわけにはいかない」
アルトが答えた。
「このまま現象が進めば、壁の向こうだけで済むとは限らない。封印が崩れれば、王都の地上にも影響が出るかもしれない」
学者は、反論しなかった。
エリアスは手帳を取り出し、現場の状況を記録した。壁の位置、通路の幅、周囲の石材の状態、古い地図との相違点。今の時点で確認できることを、一つずつ書き留めていく。
しかし、書き終えたとき、彼は頁の端に違和感を覚えた。
つい先ほど記したばかりの文章の一部が、薄くなっていた。
エリアスは手帳を顔に近づけた。
最初に消えたのは、壁の向こうに存在したはずの部屋について記した一文だった。次に、古い地図との相違点を説明する言葉が薄れていく。彼が目を凝らしている間にも、文字は少しずつ消えていった。
「エリアス?」
アルトが呼んだ。
エリアスは返事をせず、手帳を見つめていた。
文字が消えた部分には、何も残らなかった。
紙は破れていない。頁も欠けていない。ただ、そこに書いたはずの記録だけが、白紙になっていた。
エリアスは、ゆっくりと手帳を閉じた。
今までなら、消えた記録を別の紙へ書き写すことができた。手元の記録が失われても、別の資料や、自分の記憶を使って補うことができた。
だが、これからは違うかもしれない。
記録を残しても、記録が失われる。物理的な痕跡を調べても、その痕跡自体が消えていく。白紙現象がこのまま進めば、何が存在していたのかを証明することすら難しくなる。
アルトは、壁を見つめたまま言った。
「もう、時間がないな」
エリアスは頷いた。
王国の調査は必要だ。教会の協力も、封印に関する資料の検証も欠かせない。だが、それらがすべて整うのを待っていれば、救うべき仲間たちが置かれた状況は、さらに悪化するかもしれない。
真実の公表は、必要な一歩だった。
しかし、白紙現象を止めるには、旧封印そのものを変えなければならない。
エリアスは、ノエルの研究資料を取り出した。
空白領域を示す図を見つめる。その向こうには、ガレクも、セレナも、ノエルも、そしてリゼットもいる。
彼らはまだ、帰ってきていない。
「ノエルの研究を、もう一度最初から確認しよう」
エリアスは言った。
「封印の構造を調べるだけじゃない。移行するために、何が必要なのかを見つける。これ以上、現象が進む前に」
アルトは頷いた。
二人は地下区画を離れ、王城の資料室へ戻ることにした。
階段を上がる途中、エリアスは一度だけ振り返った。
灯りに照らされた石壁は、何事もなかったかのようにそこに立っていた。扉が存在したという記録も、部屋が存在したという記録も、やがて失われるかもしれない。いつか、この通路を調べる者が現れても、壁の向こうに何があったのかを知ることはできなくなるのかもしれない。
だが、今はまだ、彼らが覚えている。
記録が消えたからといって、そこで何が起きたのかまで、最初からなかったことにするつもりはなかった。
エリアスは前を向き、階段を上がった。
白紙現象は止まっていない。
そして今、失われ始めたのは、歴史の中の文字だけではなかった。




