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原作と乖離した現実で起こる原作通りの出来事

「ピエリス様、ありがとうございます……無詠唱できるんですね」


 すごい……と、アリアは瞬く間に乾いた自分の体をしげしげと見下ろして、なんだか少し感動しているようだが、今はそれどころではない。


 私は無言で本棟を見上げた。

 夏のギラギラとした太陽に目が一瞬眩む。逆光ではあるが、ちょうど二階、三階、四階と同じ位置に窓があった。その中の三階の窓が、わずかに開いている。あそこから魔法を発動させたのか。


 魔術院内では、攻撃魔法初級の授業が行われるグラウンドのみ、その授業の間だけ”攻撃魔法の無効化”を解除している。だから悪意を持った誰かがアリアに対して危害を加えようとしても、それは命に関わるほどのさほど深刻なものにはならないだろう。今回のように頭上に水を作り出し、ずぶ濡れにさせる程度だ。

 しかし……だからとて、精神的に与えられるダメージは決して軽くないだろうし、許せるものではない。


「とりあえず、授業に遅れてしまいますので、一旦研究室に行きましょう」


 ローラが気遣った表情で言う。


「そうですねぇ、シア先生怒ると怖そうですし~」


 苦笑いで頷くアリア。

 確かに遅刻でもしたら、遅れてしまった理由として、今しがた起きた事件をシアに報告せねばならなくなるだろう。それ自体は道理であるし、この問題は魔術院側に知らせるべきである。……が、それをクラスメイト全員の前で告白するには、貴族令嬢として避けたいことでもある。貴族というものは得てして噂話が大好物なのだ。先生には後で個人的に知らせるのが良いだろう。


 私たちは急いで研究室へと繋がる階段へと向かった。





 魔術院に入学して四か月。

 アリアの立ち位置は、原作と違って悪いものではない。


 原作のヒロインは、何もしていなくとも貴族からは「平民から貴族に成り上がった」と陰口を叩かれ、魔術院に通う平民からは「貴族だから」と、距離を置かれる。そしてハリクをはじめとした攻略対象キャラクターたちと仲が良くなってからは「身の程知らず」と非難轟轟ごうごうだ。


 それが、スヴェンが王都に例の噂を流したために”聖女の資質がある”という事実が明るみになったことや、ハリクが音楽祭の後のパーティーでダンスを最初に申し込んだことから、今のアリアは非難をされたり、陰口を囁かれたりするどころか「次代の王妃になるのでは」と、一目置かれている状況である。擦り寄るタイミングを見計らっているような貴族令嬢もいるほどだ。


 そんな状態であるから、いまさらここにきて、こんな原作を踏襲したような嫌がらせが起きるとは、ほとほと夢にも思っていなかった。

 可能性として、何かの事故では? とも考えたが、あれが意図的なものではないとは、やはりどうしたって考えられなかった。だって、三階から水をわざわざ魔法で作り出してぶち撒くってどういう状況。別に花壇があるわけでもなし。悪意を持った恣意的な行動としか思えない。


 問題となるのは「誰が」「どうして」である。


 原作で水をヒロインにかけるのは、悪役令嬢のピエリス・アシュレイかキャメル・イレイザであるが、私ではないのだから、まさかキャメルが……?


「そんなことがあったの!? 最低ね!!」

「キャメル、声抑えて」


 顔を真っ赤にして自分のことのように怒るキャメル。

 一瞬でも疑って申し訳なかったと、こっそり心の中で謝罪をする。


 魔術院本棟三階にあるカフェテリア。

 私、アリア、クリス、ローラ、そしてキャメルーーという五人でテーブルを囲んでいた。


 魔法薬研究の授業を終えた後、銀音ぎんおんに属する私たち三人は食堂ではなくカフェテリアで昼食をとることにした。

 学級の異なるクリスとは、いつも食堂で待ち合わせているため、授業を終えてすぐに、クリスと共有している伝達帳でカフェテリアに来てほしい旨を伝えておいたのだが、私たちがカフェテリアに来てみると、なぜかクリスとともにキャメルもいたのである。

 キャメルが言うには、イレイザ家の派閥令嬢たちとともに食堂へ向かっている最中、本棟の中央階段を上がっていくクリスを見かけたので、派閥令嬢たちに断りを入れ、クリスの後を追ってやって来たのだと言う。


「カフェテリアで昼食だなんて珍しいと思ったら、そんなことがあったのね!」

「もうちょっと頑張って声抑えて?」


 最初は潜めた声が、喋っている途中で尻上がりに大きくなっている。クレッシェンドかけないでくれ。キャメルは原作のような居丈高いたけだかな振舞いをする女性ではなくなっているが、こういった激情家であるところは変わっていない。


 魔術院の生徒たちは、基本的に昼食は食堂でしっかりとる者が多い。

 この世界ーーというより、この国では朝食は軽視されがちなので、ヨーグルトだとかオートミールだとかの手軽な軽食で済ますことがだいたいなのだ。中にはコーヒーだけというのもいる。

 アシュレイ家は朝からガッツリ派であるが、メルディア聖王国の家庭では珍しい方であって、これは母の生家であるオルド辺境伯家の「一日三食しっかり食べる!」という家訓から来ているものらしい……話が逸れたーーつまるところ、軽食しか提供していないカフェテリアは、お昼時には人も少ないのだ。

 全くいないわけではないが、食堂よりかは断然少ない。二限目の前に、あんなことがあったので、私たちは人の少ないカフェテリアを選んだのだ。そして、カフェテリア方面へと向かうクリスを見て、カフェテリアで昼食をとるのだろうと察したキャメルが後を追ってきたーー食堂では人の目が多く、公爵令嬢ふたりが一緒にいると変に目立ってしまうため避けていたが、カフェテリアならその人の少なさから問題ないだろうと考えてのことらしい。


「心当たりはないのですよね?」


 ローラがアリアに問う。アリアは思い当たる節はないと言う。


「最近、他に変わったことなどは?」


 今度はキャメルがアリアに問う。

 アリアは「ええと……」と、少し気まずそうにカップを置く。中身は意外にブラックコーヒーである。兄の方は甘ったるそうな何かを飲んでいたから、兄妹でかなり嗜好が違うのかもしれない。

 そう、変わったことと言えば、まさしくこの状況である。

 キャメルもアリアが答える前に、ハッと気が付いたようで「そういえば、スヴェン様は? このことをご存じなの?」と核心を突いてきた。


「その……兄に、朝からずっと避けられているんです……」

「え? 今朝から?」

「はい……」

「喧嘩……ということかしら」

「何かした覚えはないんですけど、私、気が付かずに何かしちゃったのかなぁ……」


 しょぼんと、隠すことなく落ち込んだ様子を見せるアリア。

 魔法薬研究の授業を終えた後も、スヴェンは妹に一度も視線を寄越すことなく、友人たちと食堂へ向かってしまったのだ。ちなみに普段はやはりアリアとともに昼食をとっている。


「昨晩の様子は?」


 尋ねると、アリアは思い返すように視線をさ迷わせた。彼女の目の前のサンドウィッチは全然手がつけられていない。


「昨晩は顔を合わせなかったです。最後にスヴェンと話をしたのはー……お昼前でした。そのときは普通で……その後スヴェンは出掛けて、帰ってきたのは夕方頃だったらしいんですけど、そのとき私はお父様に呼ばれてお話をしていたので、会わなかったんです」

「夕食のときは?」

「スヴェンは普段から自室でとることが多いので、そのときも食堂には降りてきませんでした……寝る前にスヴェンの部屋の扉をノックしたんですが、返事がなくて、こっそり少し開けたんですけど、真っ暗だったので、もう寝ちゃったのかなって」


 昨日の様子をぽつぽつと話すアリアは、こちらが思った以上にスヴェンに無視されていることが堪えるのか、いつもの間延びした口調ではなくなっている。


「不躾を承知でお聞きしますけれど、スヴェン様はご家族とはあまり……?」


 うまくいっていないのか。スヴェンが自室で食事をすると聞いて、キャメルが慎重に声を潜めて尋ねる。アリアは頷いた。


「お父様のことを好く思っていないようなのです。たぶん……男爵家に引き取られた際に、最初は私だけを養子にするつもりだったからだと……」

「まあ……! 私、ずいぶん失礼なことを聞きましたわね。ごめんなさい」

「いいんです、いいんです!」


 頭を下げるキャメルに、アリアは慌てて両手と頭をぶんぶんと振った。

 ーーしかし、昼前に出掛けたというスヴェン。そういえば、伝達帳のやりとりを最後にしたのも、昨日……音の日の昼前だった。その後、出掛け先で何かがあったのだろうか?


「ちなみにどこへ出掛けたかは……?」

「わかりません。スヴェンはよくどこかへひとりで出掛けるのですが、いつも聞いても行先は教えてくれないので」

「そう……」


 何だかいよいよ怪しくなってきた。

 妹をとても大切にしているくせに、外出先を絶対に教えないのはなぜなのか。うーん、現状考えてもわかりそうにない。これに関しては、帰宅後もスヴェンがアリアを無視し続けるようなら、私の方から伝達帳経由で聞いてみるしかなさそうである。


「でもさすがに、あの水が降ってきた件と、スヴェン様は無関係……ですよね」


 自信なさげに言うローラに私は頷いた。


「スヴェン様があのようなことをされるとは考えにくいですものね」

「私もそう思いますわ」


 タイミングがタイミングなだけに、全くの無関係ーーとは言い切れないところは正直あったが、ここはアリアの心の平穏のために力強く関係性がないと思っていることを主張しておく。これ以上いたずらに気持ちを乱させたくはなかった。同胞であるからか、私もスヴェンほどではないが、やや過保護気味になっている気がしなくもない。


「それにしたって、いったい誰が」

「聖女候補であるアリア様にそんなことをするなんて、本当に……ずいぶん勇気ある者がいたものですわね」


 原作ではその勇気ある者であるキャメルが、やや呆れ気味に言う。


「調べましょうか」

「……そんな探偵紛いのことはあなたの仕事ではないのよ、クリス」


 ずっと静観していたクリスがそう言ったので、私は思わずそれを却下する。アリアを前に、調べなくていいと一刀両断したのは印象良くないと思いつつも、クリスにはそんなことをしてもらいたくはないのだ。あくまで侍女だし。


「大丈夫です、クリスさん。今後も続くようなら先生方にも相談してみますし~」

「いえ、この件は放課後にでもすぐに報告すべきですわ」


 若干ぎこちなくも、いつもの調子を取り戻しつつあるアリアにキャメルが突っ込む。私もそうすべきだと思う。ローラが「一緒に放課後、シア先生のところへ参りましょう」と言った。


「本当に申し訳ないのですが、私、今日は用事がありまして……ローラ様とふたりで行っていただいても大丈夫かしら」

「もちろんですわ。どうかお気になさらず」

「ごめんなさいね」


 用事、というのは大したものではない。

 本当に帰ったらやらないといけないことはあるのだが、それは明日などに後回しにしても良い問題である。それよりも、早く帰ってスヴェンに意図を確認したかった。この出来事も共有しておきたい。


 あまり進んでいなかった食事に手をつける。

 照り焼きチキンのホットサンド(フライドポテト付き)なんて頼まなければ良かった。なんだか、胃が重たく感じる。胸がざわざわするのはなんでだろう。


 本当に、誰がこんなことをしているのだろうか。

 すでに原作通りではない現実において、原作と似たようなことが起きるのが、やけに気味が悪かった。





 グラウンドで行われた攻撃魔法初級の三限目を終えて、一日の授業は全て終了した。

 私は、アリアたちに宣言した通りに、どこへも寄り道することなく、真っすぐに屋敷へと帰宅する。制服を着替えるよりも先に、自室へ戻って伝達帳を開いた。そこに新しいメッセージはない。私は立ったままノートに「どうしてアリアを無視しているの?」と書いた。


 ……。

 しばらくノートの白い部分を見つめていたが、文章が浮かび上がってくる様子はない。まだノートを開いていないのかもしれない。私はひとつため息をついて伝達帳を閉じた。


 昼の三時前。

 当然まだ父は帰って来ていない。しかし最近、どうも王宮での仕事が珍しく忙しいらしく、帰ってくるのがいつもより遅い。今までは夕食前には帰宅していたというのに、ここひと月ほどは夕食に間に合って帰ってきた日の方が少ないくらいだ。

 そして父が忙しいと、母の家での仕事も増えるというもので、今日母は、父に代わって領地内の視察へと回っている。最近の父は休日も出勤しているので、視察に行けていないのだ。


 屋敷にいるのは使用人たちだけ。

 私は自室を出て、とある部屋へと向かった。


「弾かれるのですか」


 クリスが珍しいものを見る目で言う。

 私は「少しだけね」と言って、その光沢を持った蓋をひと撫でして持ち上げる。白と黒の鍵盤に目を細める。


「今年はエレヌス福音祭で演奏をしないといけないから」


 鍵盤をひとつ押した。ポーンという音。滅多に弾かないというのに、定期的に調律師がやって来ているのは知っている。……。


 私はイスに腰かけてピアノを弾く。

 窓の外に見える空は雲ひとつない晴天だった。だというのに、この鬱々とした気分は、今日あった出来事への不安からか、それともピアノを弾いているからか。


 ーーその日、伝達帳に新たなメッセージが浮かび上がってくることはなかった。


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