あなたへの愛を捨てることは
王立ネロガン魔術院の音楽堂は、舞台などの公演も可能なシェーマ王立劇場とは違い、その構造上、完全にクラシックを中心とした音楽専用の大ホールとなっていて、舞台の奥には巨大なパイプオルガンが壁面に鎮座している。その広さも申し分なく、ただの魔法学校の音楽堂にしてはあまりにも立派すぎるものである。
さて、どうして魔法学校にこんな音楽堂が併設されているかというとーーたとえば月名。
十二か月のうち、”初音の月”、”呼音の月”、”山唄の月”、”清音の月”、”無音の月”、”福音の月”と、その半分の六つが”音”に関係する月名となっているのだ。
さらに曜日に関しても、日本では日曜日にあたる曜日を”音の日”と呼び、魔術院の学級であっても、”銀音”というものが存在する。
つまりどういうことかと言うと、この世界は非常に”音”というものを大事にしているのである。『奏でてメロディー☆プリンス・カルテット』というタイトル然りである。
では、音ゲー要素のある乙女ゲームの世界であるからーーという前世メタをいったん置いておいて、どうして”音”というものがこんなにも我々の日常に溶け込んでいるかと言うと、答えは非常にシンプルで、女神メルディスが天地を創造した神であるのと同時に「音楽を愛する神」でもあるからである。
ーー音楽堂で行われていた全てのプログラムが終了した後、私はぼうっと人のまばらな客席から舞台を眺めていた。
ぼうっとしすぎて、隣のシートに座るクリスがちらちらと心配そうにしている。レイラークはご両親が帰られるということで一応の見送りに席を立った。
聖女の資質を持つアリア・モロンは、今日大変な注目を集めていた。
この世界の言語は日本語だ。
しかし読み書きは全く前世には存在しなかった言語であって、この世界にアルファベットは存在しない。英語はもちろん、イタリア語も存在しない。そんな中、プログラムに記載されていた『Lasciar d'amarti』ーー誰も彼もが、これはなんと読むのだと不思議がっていた。私だけが、その言葉を読むことができる。その言葉を知っている。
せめて、この世界の言語に直して曲名を提出してくれれば、こんなにも人々の話題になることはなかっただろうにーーだが、なんとなく翻訳して提出できなかった理由もわかる気がした。
いったいどういうつもりなのだろう。スヴェンもまさか把握していなかったということもあるまい。だが、尋ねようにも、件の彼女は遠い、決して手の届かない舞台の上にいる。
音楽を愛した女神メルディスの加護を受けた聖女ーー彼女たちは祈りを歌とし、傷を癒し、国を導く。そう云い伝えられているから、聖女候補であるアリアが舞台に上がったとき、客席はほのかな熱気に包まれ、彼女が口を開くのを今か今かと待ち望んでいた。
ピアノの伴奏は兄のスヴェンだった。
あまり音楽と縁がなさそうに見えていたが、ピアノができるのか。今は男爵家にいるといっても十一歳ほどまでは平民であったはずだから、モロン男爵家に引き取られた後にレッスンを受けたと考えるよりは、前世にピアノを習っていたと考える方が易しいだろう。
それを意外だと思いながら、彼の弾く静かなピアノの旋律を聞いていた。
やがて、アリアが歌い出すーー
イタリア語。
当然である。『Lasciar d'amarti』はイタリア歌曲だ。
前世において、声楽を専攻している友人にピアノの伴奏を依頼されることも多く、この曲は課題曲としてよく入っていることもあって、何度か弾いた覚えがある。
ーーあなたへの愛を捨てることは。
もう歌詞の日本語訳なんてとっくに忘れてしまったから、アリアが歌う言葉を厳密に理解することはできない。だが、あなたへの愛を捨てることは。タイトルの日本語訳はそうであったはずだ。
造語歌というものがある。
これまた前世の世界で動画配信サイトなどに投稿されていたものが多く、存在しない創造された言語で歌われたものだ。視聴者たちは誰ひとりとして、その歌う言葉の意味を理解することができない。それでも不思議と引き込まれるものがあった。
アリアの歌う『Lasciar d'amarti』はこの世界ではまさに造語歌だった。誰も彼女の言葉を理解できない。誰ひとりーーだから彼女は原語のまま曲名を提出し、歌っている。
あなたへの愛を捨てることは。
苦悶、切望、諦念ーーそんなものばかりを感じるのは、きっと彼女は覚えているのであろう歌詞のひとつひとつに、自分の中の感情を隠すことなく紡いでいるから。……。
「ピエリス様。そろそろパーティーの方が」
クリスに躊躇いがちに声をかけられて、舞台の上に立っていた記憶の中のアリアが立ち消える。そこは照明の落ちた無人の暗がりだ。私はまだ夢を見ているような心地のまま、一言「そうね」と頷いた。
*
音楽堂を出て、本棟の大広間へと移動すると、そこはすでにパーティー会場へと様変わりしていた。
豪華絢爛に飾り立てられた煌びやかな大広間。
音楽堂での公演終了後のこのパーティーは学生のみのものとなっているので、彼らの近親者が帰った今、そこに朝から続いていた貴族たちの堅苦しさはない。
今日はずっとむっつり不機嫌そうであったケヴァン院長も、ようやく”平等”の理念が戻ってきたとみて、にこやかな顔つきに戻っている。
ケヴァン院長が音楽祭の成功と出演者を称える言葉を述べ、大広間に管弦楽団による贅沢なBGMが流れ始める。
私はシャンパングラスを給仕から受け取って、しばらくクリスとともに壁際に立って会場全体を眺めていた。
……雰囲気を台無しにするようだが、この世界での成人は十八であって、飲酒も成人までは法律でしっかり禁じられているため、このパーティー会場で提供されているドリンク類は、全て見た目だけお酒っぽいただのノンアルである。
そんなシュワシュワしただけのジュースを飲み、ふと、目立つ金髪のハリクが談笑している姿が視界に止まった。
ハリクの演奏はアリアの後であったが、アリアの神秘的な造語歌に負けぬ素晴らしい演奏であったことは認めよう。今も多くの人に囲まれーー恐らく先の演奏への賛辞を受けているところと見て取れる。だが、どうしても私にはアリアの歌のインパクトが大きすぎて、正直ハリクの演奏の記憶が曖昧なものとなってしまっている。
ハリクが舞台の上でヴァイオリンを奏でていたとき、アリアはそれを舞台袖で眺めていたのだろうか。いったい、どんな気持ちでーーと、そのとき会場中に、わあっ……! という、ささやかな歓声が広がった。
ハリクがアリアへダンスを申し込んだのだ。
王妃候補のひとり、公爵令嬢ピエリス・アシュレイよりも先に、王子殿下はアリア・モロンを選んだーー
しかも先のふたりの演奏は素晴らしいものであったから、まるでお似合いだと、手を取り合うふたりの姿を、人々はうっとりとした表情で眺めている。本当に絵になるな。
私の心には当然、嫉妬というものが湧き上がることはなく、むしろ自分にとっては都合が良いーーだが、この釈然としない気持ちはなんだ?
「ちょっと踊ってくるわ」
シャンパングラスをクリスに預けて、返事も待たずに私は、先ほどまでアリアがいたところへ向かう。周囲にいた人々が私の姿を認めて、気まずげな顔をした。
「ーースヴェン様」
大広間の中央で優雅に踊るふたり。
彼らを複雑な顔で眺めていたのは兄のスヴェン・モロンである。
声をかければ、途端にその顔ににこやかな笑みを貼り付けて口を開く。
「これは、ピエリス様。楽しんでいらっしゃいますか?」
「まだ楽しめてないの」
「そうですか、それはーー」
「ですから、一緒に踊ってくださる?」
彼の言葉を遮って、そう端的に告げる。
スヴェンがその胡散臭い笑みを一瞬嫌そうに歪めたのを、私は見逃さなかった。だが当然、そこに拒否権はない。
ちなみに、前世の世界ではどうだったかなんて知りもしないが、この世界では女性から男性を誘うことを”はしたない”とは特別非難されることもないので、私はあくまで堂々と優雅に手を差し出した。はやくエスコートしろと無言の圧力を乗せる。
スヴェンは観念したように、私の手を恭しくとると、大広間の中央へとその手を引いて歩き出した。
「どういうつもりですか?」
「あら、何が」
私の背中に手を軽くあて、もう片方の手を自分の背にあてたスヴェンが小さな声で抗議してくる。伝達帳でやりとりをしているときと違って敬語であるのは、万が一誰かの耳に届いてしまったときのことを考慮してのことだろう。
「公爵令嬢がファーストダンスに男爵家の貧乏令息なんて選ばないでください」
スヴェンの不満ももっともである。
私は何も言わずにくるりとターンを踏み、伸ばされたスヴェンの左手を掴む。ゆったりとした曲調のワルツ。体が密着して、私も小さな声で囁いた。
「あなたたちこそ、どういうつもり?」
「『Lasciar d'amarti』のこと?」
「素晴らしい発音ね」
「それはどうも」
軽やかなステップ。スヴェンの手を離れて再びターンを踏む。今日は淡い青色のドレスだ。ドレスの裾がふわりと広がる。
社交ダンスなど今まで縁がなかったが、今生ではレベッカの鬼のような特訓によって、すっかり体に叩き込まれたのである。
流れるようなターンの後、再びスヴェンの腕の中にその身を任せる。
「あなただってベートーヴェンを弾いたのでしょう。それも空想上の作曲家だなんて、笑えないジョークだ」
「調べたのね」
「あなたのことを知ってからね」
私が王様に対してベートーヴェンを「空想上の作曲家」と答えたことは、上位貴族の間ではまま有名な話である。「空想上の作曲家」であるベートーヴェンの曲をもっと弾いてくれないかというリクエストが、一時はうっとうしいほどきたものだった。
「私が言いたいのはそうじゃないのよ」
体を近づけたまま、ふたりでステップを踏み、大広間に身を踊らせる。スヴェンの怪訝そうな顔の後ろに、幸せそうに踊る二人組の姿があった。
「彼女は、どうしてあんなに王太子殿下のことが好きなの」
イレイザ家で開かれたお茶会で、花も恥じらう乙女のように、顔を桃色に染めてハリクとの思い出を語ったアリア。だが、音楽堂で歌われた『Lasciar d'amarti』ーーあんな熱情は聞いていない。好きで好きで堪らない。愛しているのに、叶わない。苦悩ーー言葉はわからずとも、そこにあったのは、確かにそういった感情だったはずだ。痛いほどの叫びにも似た何か。観客たちが美しいソプラノに感動の喝采を送る中、私は釈然としない思いに苛まれていた。なんなのだ、この不愉快は。
あのとき、私の中に生じたものは、きっと一抹の不安感と、アリアに対する不満であった。
あそこまでの恋心を抱くには、ただのゲームシナリオにあったイベントをこなすだけでは無理がある。ゲームになかった、私の知りえないストーリーがあったのだろうか? 人の感情をここまで動かしたほどの、何かが?
……それに、そんなにも王子を愛しているのに、アリアは王妃は嫌だと言う。そんなに辛そうに歌うくらいなら、覚悟を決めたらどうなのだと、同じ王妃候補に置かれている私としては不満に思ってしまう部分があった。
……。
それがそのとき自分の中でようやく言語化されて、すうっと、どこかが冷静になっていくのを感じた。
「……ごめん」
少し俯いて、謝ったのは私だった。
ずっと不快に感じていたのだ。自分の中で得体の知れない漠然としたもやもやがあった。それが今になって整理がついて、スヴェンに対し、八つ当たりのように語気が強くなってしまっていたことを反省する。精神年齢はもういい歳なのに、情緒不安定である。情けない。
「いや、なんで謝るんだ」
「言い方が良くなかったわ」
スヴェンは何も言わずに、ターンをリードする。
導かれるままにくるりと回って「あいつは思ってたよりも殿下のことが好きみたいだった」と、耳元に囁く声。
「殿下は、おれの命の恩人だったらしい」
「へ?」
「詳しくはまた伝達帳に書くよ。……おれもまだ混乱してるんだ」
スヴェンは一瞬、迷子のような、頼りなさげな顔を覗かせた。
私はそれに、変にぎくしゃくして「そう」とだけ呟き、少し力んでしまっていた体の力を抜く。
それからはお互い黙ったまま、踊っていた。
体を合わせ、ふたりで回る、回る、回る。煌びやかな会場の照明。色とりどりの色彩鮮やかなドレスたち。ゆったりとしたワルツであるはずなのに、周囲の景色が目まぐるしく移り変わっていく。目の前にあるスヴェンの美しい端正な顔だけが、ぶれることなく明瞭にそこにある。
この日、ハリクがふたりいる王妃候補のうち、アリア・モロンへ先にダンスを申し込んだことによって、やはり聖女の資質を持つ彼女が次の王妃に最も近いのではないかと囁かれーーそして残ったもうひとりの王妃候補であるピエリス・アシュレイ、この私がスヴェン・モロンをダンスに誘ったことから、アシュレイ公爵令嬢の想い人はスヴェン・モロンなのではないかと、まことしやかに囁かれることとなった。
私としては都合が良いことこの上ない。
スヴェン・モロンのことが好きだとか云々。そんな噂が広まろうとも、それで王妃の座が遠のいてくれるのであれば、願ったり叶ったりである。
断罪の未来も最早あり得ないーー私はそんな風に、一言にすれば油断していた。油断しきっていた。平穏な日常は、この先も変わらないのだと、そう信じていた。




