子煩悩 ※父視点
娘が生まれた。
以前から妻のハニーと決めていた通り、ピエリスと名づけた。
私たちにとって待望の第一子であったから、男児でなくとも愛情たっぷりに育てようと思っていた。
赤ん坊の頃のピエリスは、驚くほど泣き声を上げない子どもだった。
先王ともそこそこ仲が良いので、たまに王宮で仕事をしていると、ひょっこり顔を出しに来ることがあるのだが、最近は我が家に子どもが生まれたばかりなので、先王と育児トークに花を咲かせることが多かった。
「え? そんなに手がかかる子どもだったんですか? ランウェル陛下は」
「そりゃもう、毎晩夜泣きがすごくてね。乳母が困っていたよ」
「やめてくださいよ、父上」
「へぇ、うちのピエリスなんて全然泣かないもんで」
それからランウェル陛下の恥ずかしい赤ん坊時代の話を色々と聞いたものだがーー
帰宅して、ハニーとワイングラスを傾けながらピエリスの話をする。
「ピエリスの様子は?」
「どうにも反応が鈍い気がするのよ」
心配だわーーと、不安そうに俯く妻に私は「きっと大丈夫さ」と言うことしかできなかった。
しかし、人生とは悪い予感ばかり的中するものだ。
愛娘のピエリスは、五歳になっても言葉を発するどころか泣きもせず、笑いもせず、ただぼんやりとベッドの上から虚空を見つめるだけだった。
これは……と思って侍医だけでなく、あらゆる医師を呼び診てもらった。だがピエリスは彼らのどんな施策にも反応を示すことはなく、障害の可能性ありーーそう結論付けられた。
私は、それでも構わなかった。
ピエリスが私とハニーの愛する娘であることには変わらない。
だが、ひとつ心寂しいと思うのは、娘の笑顔が見られないことだった。だから私は、王都で噂になっていた怪しげな占い師の元を訪ね、”覚醒のオルゴール”なるものを持ち帰ってきたのだ。
正直、あまり期待はしていなかった。
それでも出来得る限りのことをしたかったのだ。
”覚醒のオルゴール”が、聞いたこともないような不思議な音色を奏でる。
私とハニーは神にも縋る想いでその旋律を聞いていた。
やがてオルゴールが最後の音を鳴らし、静かに崩れ朽ちたとき。
ベッドに腰かけていた娘はゆっくりと顔を上げ、しっかりと私たちを見据えて、こう言ったのだ。
「おなかすいた……」
*
ハニーが、”覚醒のオルゴール”の巻き鍵を、震えた指で回したあの夜から、私たちの生活は一変した。
障害の可能性ありーーとまで言われたピエリスが、まるで沈黙していた五年間を取り戻すかのように溌剌として喋り、走り、笑顔を浮かべる。これほどまでに嬉しいことが、この世に他に、あるだろうか。
それだけでもう十分であるのに、ピエリスはどうやら聡い子であった。
「ピエリスちゃん、本当に覚えが良いのよ」
ピエリスが眠った後、私たちーー私とハニー、それから家庭教師としてアシュレイ家に住んでもらっているハニーの従姉妹であるレベッカの三人は、ワインを飲みながらピエリスの話をすることが多くなった。
「今は歴史や食事マナーだったっけ?」
「ええ、そうよ。でも見ていてわかるでしょう? ピエリスちゃんは覚えるのが本当に早くて」
「そうね。今日のディナーのときも、ずいぶんきれいに食べるようになったなって思っていたのよ」
その通りだった。ピエリスの所作は日が増すにつれ、どんどん美しくなっていく。
「読み書きなんてあっという間に覚えてしまったし……ねえ、きっとピエリスちゃんなら、どこに出しても恥ずかしくないお嫁さんになれるわ」
そう言うレベッカは既に涙声である。ワインを一口二口飲んだだけだが、既に酔いが回ってきているようだった。レベッカは酒に弱い。
しかし、お嫁さん。お嫁さんかぁ……。
「嫁に出したくないなぁ」
「やだ、あなたも酔ってるのね」
私は決してアルコールに弱くない。だが、あのかわいいかわいいピエリスが誰かに嫁ぐーーウェディングドレス姿なんて想像してしまったものだから、涙が出てきてしまった。
「でも実際問題、王室かエードモロ侯爵家かに嫁ぐことになるんじゃないかしら」
「絶対に嫌だぞ」
「あなた、もう飲みすぎよ」
まだ三杯しか飲んでいない。
「そうだ、アシュレイ家はピエリスに継いでもらおう」
「何を言ってるの。ヨーファスがいるじゃない」
ヨーファスというのは、甥ーー弟の長男である。生意気にも私たちのピエリスよりも先に生まれていて、すでに十歳である。
もし我が家に男児が生まれなかった場合、アシュレイ家の家督を継ぐことになるであろう候補者その一である。
「ずっとヨーファスには不安があったんだ。使用人たちに対して威張り散らしてると聞いてるぞ」
「まあまあ……それに私たちが第二子を授かるかもしれないでしょう?」
「うっ……確かに、それはそうだが……」
もうっと口を尖らせる妻の姿にドキリとする。気まずくなってチラリとレベッカを盗み見たが、彼女は既にソファの上でウトウトしていた。執事のメルヒンに目配せして、メイドたちに介抱してもらう。
私はもう一口ワインを飲んだ。
「うっ、うっ……ピエリスを嫁にやりたくないよお」
「……あなたもそろそろ寝た方が良さそうね」
立ち上がろうとしたが、ふらついたので、今度は私がメルヒンに介抱されることになった。
*
ピエリスを嫁に出したくないばかりに言った、酒の席で戯言だったが、やはりそれも悪くないのでは? と思ったのは、初めてピエリスと視察(という名の観光である)にワーズロースへ行ったときだった。
臆することなく、様々なものに目を輝かせ、好奇心を持つピエリス。
そんな彼女が、少し思案顔になって「アシュレイ領はどこもここみたいに豊かなの?」と尋ねて来たので、私は思わず答えに窮したものだった。
我が領土は、ハニーの尽力もあって福祉に力を入れてはいる方ではあるが、だからとて必ずしも全てが全て、豊かなわけではない。ピエリスが屋敷から初めて外出するとのことで、当初はとりあえず外の賑わいを見せられればと思っていただけだったのだが、急遽ロークルイド修道院に連れて行くことにした。この様子であれば、こういうところもあるのだと、知ってもらうに早いということもなさそうだと判断したのだ。
カミーユ院長に案内を受けながら、ロークルイド修道院を見学するピエリス。注意深く観察する様子は、我が子ながら聡かった。
最後に裏庭の畑に出たとき、そこにはイチゴの収穫を楽しそうに行っている孤児たちの姿があった。
それを微笑ましく見ていたのだが、不意にピエリスが声を上げる。どうしたのかと尋ねる院長に、ピエリスが「あの紫色の髪の子は……」と言った。
紫色の髪?
どこにそんな子がいるのか。
見渡したが、私にはわからなかった。それに”紫色の髪”というのは、このメルディア聖王国では非常に珍しい。私の知る範囲では、ある民族に限られるのだがーー
「おや、よく髪の色がわかりましたね。とても目がよろしいようで」
カミーユ院長が感心したように首肯する。
「あの子はクリスといいます。少し人の気配に敏感なようで、この修道院に来て一年が経つのですが、まだみなと上手く馴染めていないのですよ」
「案内いただきましたが、確かにたくさんの方々がいらっしゃいますからね」
人の気配に敏感ーーその言葉で確信した。やはり、その子ども(相変わらずどこにいるのかわからないのだが)は、かの民族の末裔だろう。深い事情や経緯があって、この修道院に流れ着いたのかーーなどと考えていたら、ピエリスが思わぬ発言をした。
「では、私の侍女にアシュレイ家で引き取ることはできませんか?」
思わず目を丸くしてピエリスを見た。
ピエリスはピエリスで、すぐに我がままが過ぎたかもしれないといった、少しばつの悪い顔になり「同じ年頃の話し相手がほしいのです……」と言った。
ふむ、なるほど。
確かにアシュレイ家には大人ばかりだ。侍女の子どもなども屋敷にはいないので、同年代の話し相手を恋しがるのは当然と言えば当然かもしれない。他の家の令嬢と友だちになる機会を設けても良かったが、毎日のようにはもちろん会えないし、それでは寂しく思う心も埋まらないだろう。
なるべくピエリスが望む通りにしてやりたいという親バカな気持ちも当然あったが、なによりあの紫色の髪の子を見定めたところ、ピエリスには”人を見る目”があるのかもしれないーーそれならば悪いようにはならないだろう。
そうして、ピエリスの侍女見習いとしてクリスという、戦闘民族バルバラの末裔である少女をアシュレイ家で引き取ることになったのである。
*
クリスには幸い少量ではあるが、魔力があった。
ピエリスが十五になったときに、王立ネロガン魔術院へ一緒に入学させるつもりで、クリスには侍女教育の他、一般的な教養とーー護衛としての体術や剣術を教えた。
「クリス、いいか。ピエリスに害なすものは排除するんだぞ」
「はい、承知しております」
「それから、悪い虫がつきそうになったら、それもだ」
「はい、もちろんでございます」
あの王宮でのお茶会以来、ランウェルがピエリスを気に入って仕方なかった。あんなやつ、陛下とかつけなくていい。ぼくの息子の婚約者にしない? とかのたまってきたので、思わず一蹴してしまった。これが知己の仲でなければ首が跳んでることは承知している。ちなみにそれをハニーに話したらこっぴどく怒られた。でも、それでもだ。
「絶対ピエリス嫁にやらんもん!」
「旦那様、飲みすぎでございます」




