第0話:序章
絶望の味なんて、一生知ることはないと思っていた。
神々廻文楽――彼が絶望を知ったのは、二十二の歳だった。
「おい、木偶の坊。お前は頭じゃなくて手を動かせ! この鈍間が」
「なに帰ろうとしてるんだ? まだ日付は変わったばかりだぞ」
新卒で入社した憧れの大企業。
ここから明るい人生が待っている――と、そう思っていた。
違った。
憧れの会社は、ホワイトの皮を被った地獄のブラック企業だったのだ。
その日から絶望の日々は始まった。
毎日噛みしめるご飯はいつからか、腐った臓物をドブで煮込んで焦がしたようなクソみたいな味になっていた。
クソ上司のパワハラに耐え、三年が経っていた。
文楽は会社を辞めていた。
「あ……全滅」
東京では珍しい、冬暁の日だった。
二十五歳になった文楽の表情は、ひどく暗くなっていた。
夜明けになってもディスプレイが煌々と輝いている1Kの小さな部屋には、コンビニの弁当容器が散らばっている。
『Failures:99,999+』
画面に映る異常な数字を見ても、文楽の感情は揺らいでいない。
絶望の三年間は、文楽から感情を奪っていた。
高揚、悲しさ、嬉しさ、ご飯を美味しいと思う感情すらも、もう思い出せない。
心が動くとはなんだろうか。
答えのない問いを延々と探す、無意味な日々を過ごしていた。
そんな無意味な日々を彩っていたのは、あるローグライクゲームだった。
これが無ければ、文楽はより自堕落で廃人のような生活を送っていただろう。
文楽は徐にノートを開くと、ボールペンを手に取った。
「魔王討伐96のボスは魔法と物理どちらにも完全耐性があると推測していたが……相対属性の攻撃をコンマ三秒以下で同時に複数打ち込めばダメージが入るな。……原理はなんだ? ダメージが入ったときのエフェクトから推測するに……不可視な盾のような隠し武器が存在する? 六ケ所同時攻撃でも傷一つつかなかったことから、六つの防御は確実だ。他の可能性は――」
ペン先が紙の上を滑るたびに、思考の断片が口から零れ出ていた。
ひと通り思考を書き留めると、彼はノートを破り取り背後へと放り投げていた。
ひらひらと宙を舞ったそれは、床一面に散らばったメモの山に着地した。
「魔王討伐96を攻略するには、魔王討伐15の分岐選択を変える必要がある」
一人暮らしの部屋で独り言をつぶやきながら、悩むことなく一枚のメモ用紙を手繰り寄せた。
復習するように十秒ほど目を通す。内容を口に出して反芻すると、再びメモ用紙を背後へ放り投げる。次に右手の傍にあったノートに正の字の一画を書き足した。
正の字を書いたノート、それが八冊も束になって積み重なっている。
「――コンティニューだ」
ロードから画面が切り替わると、そこには初期装備のキャラが立っていた。
これこそローグライクというゲームジャンルの醍醐味だ。
一度死ぬと今まで攻略したデータは完全になくなる。
盤面さえランダムで再生成され、アイテムさえ絶対的な取得先などはない。
その面白さは言うに及ばないが、それ以上に文楽がこのゲームに卒倒する理由があった。
このゲームには、いまだ完全攻略者が存在しない。
ゆえに攻略方法は、この世には存在しない。
誰もクリアしたことがないから、手探りで進めていくしかない。
無限にも感じる面白さから神ゲーとも呼ばれ、あまりの難易度の高さにクソゲーとも呼ばれる。文楽はこれを神ゲーだと思っていた。十万回以上繰り返しても、こうやってまだまだ新しい要素が見つかるのだ。それがたまらなく面白かった。
――まだ誰も見たことのないゲームの終わりを見たい。
その欲望だけが、抜け殻の文楽にとって唯一の生きがいだった。
最初にプレイをしてから十年以上が経ち、試行回数も十万回を優に超えていた。
ゲームが十万回以上のカウントをしなくなってからは、ノートに正の字で記録している。
これだけが、無為な人生の目標だったのだ。
『Congratula!』(おめでとうございます!)
『You are the first conqueror in the world』(あなたは世界で最初の攻略者です)
横殴りの雨が窓を打ちつける春の日。
ついに、その瞬間を迎えた。
文楽はゲームをクリアした。
十年以上、渇望したゲームのエンディングが始まった。
ひととき世界中のゲーマーを熱狂させた神ゲー。
数多のゲーマーの心をへし折ったクソゲー。
童心のように瞳を輝かせながら、画面に流れる映像を見つめていた。
文楽はいつぶりかの笑顔を見せていた。
久しく感じていなかった感情がふつふつと沸き上がり、体がうずいてたまらない。
その高揚に身を任せて、気づいたら部屋を飛び出ていた。
横殴りの雨が生を実感させてくる。その冷たさがここが現実なんだと教えてくれる。
「ははは……ははっ…………本当にクリアできるんだ、このゲーム」
昂る感情――それを抱くのはいつぶりだろうか。
驟雨のように激しい五月の雨が、鼻の奥にずっとあった絶望の匂いを洗い流してくれる。
「だが、なんだあの終わり方」
文楽の顔から、不意に笑顔が消えていく。
小さくため息をついていた。
「99体目の最後の魔王を倒したら……主人公が100体目の魔王になりました、システムの一部に組み込まれて再び戦いは始まる――だって? やっぱクソゲーじゃねぇか」
気に食わない終わり方だ。
世界中のゲーマーが渇望した完全攻略の果てが、こんなクソみたいな「俺たちの戦いはまだ終わらない」闇堕ちルートなんて、許せるはずがない。
もう一度、ゲームをやり直そう。
別のルートだったら、想像を超えるエンドロールがあるかもしれない。
文楽が望んだ、幸せの終わりが待っているかもしれない。
もう一度――――。
そうだ――――。
もう一度――。
(――は?)
文楽は目の前の光景に、言葉を失っていた。
理解を超えた範疇、いま己は神の偉業でも見させられているのかと自分の目を疑った。
雨が……ぴたりと止まっていたのだ。
雨だけじゃない、世界そのものが静止しているように見えた。
見るもの全てが時間を止めたように、ぴくりとも動かなくなっていた。
先ほどまで降り続けていた雨がとまり、車が静止し、空を飛ぶカラスが羽を広げながら止まっている。だというのに、頬を伝う冷たい水滴の感触があった。
――。
――――。
『The endgame begins《エンドコンテンツが始まります》』
――――。
――。
瞬きすらできない世界。
そこでたった一つ、動く物体があった。
灰色の空の合間から、虹彩のない巨大な瞳が見下ろしている。
月と見間違うほどの大きさの瞳にある睫毛は、豪華な剣で出来ていた。
剣の一本が、文楽に向かって落ちてきた。
(――死)
覚悟して目を瞑った。
だが、一向に痛みはやってこない。
不意に、不気味な声が聞こえてきた。
『ようこそ、選ばれし勇者の皆さま』
『この世界を滅ぼそうと企む99の魔王たちを倒してください』
知っている。
その言葉を、誰よりも知っている。
何千回、何万回、十数万回と繰り返してきたゲームの始まり。
ああ、そうか。
ここは――。
瞼を開け、小声で言った。
「――資格なき【下等勇者】には、死を持ってその無価値を証明してもらいます」
『――資格なき【下等勇者】には、死を持ってその無価値を証明してもらいます』
ワンテンポ遅く、何者かが言った。
同じタイミング、息遣い、間の取り方を聞いて――文楽は確信した。
俺はゲーム『Hero's Ring』の捨て駒である【下等勇者】に選ばれたのだ、と。
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神算鬼謀の勇者――神々廻文楽、そう呼ばれるプレイヤーがいた。
ある文献によると、彼は下等勇者であったという。




