1. 無能王女
月明かりの下。
春とはいえ冷たい夜風を感じながら、レリアは小さく呪文を呟いて、両手を前に突き出す。
だが、それだけだ。暗い離宮を背に、相変わらず周囲は暗いまま。
「やっぱり無理か」
レリアは大きく息を吐き出した。
シランドル王宮の敷地内にひっそりとたたずむ離宮。
華やかな本殿とは対照的にだいぶ古くなった建物は、その昔、当時の国王が愛妾を住まわせるために作ったものだと言われている。全盛期は花々が咲き乱れていた庭もその名残は全くなく、手入れは最低限のみ。
レリアは先ほどから、そんな離宮の庭先でぼんやりと立っていた。魔法を唱えてみたのは、ふとした思いつきにすぎない。やっぱり発動はしなかった。
(万一、こんなところを見られたら、また無能王女って罵られるだけよね)
レリアは自嘲気味に笑う。
無能王女とは、魔法が使えないレリアに対する蔑称だ。
(まあ、魔法が使えないのは本当なのだけど)
先ほどレリアが挑戦していたのは、魔法の初歩の初歩である照明魔法だ。
過去何千回レリアはこの呪文を唱えただろう。しかし、一度たりとも明かりの球が生まれてくれたことはない。それっぽい現象が起こりそうになったことすらない。
自分に魔法の才能がないのはわかりきっているのだけれど、それでも、もしかしたら、という気持ちを捨てられない。ついつい呪文を唱えてしまい、そのたびに現実を突きつけられる。
魔法が使えない人間自体は珍しくないが、それは平民の話。王族貴族となると魔法が使える人間の割合がぐっと増える。地位が上になればなるほどそれは顕著だ。
現にシランドル王国の王族で魔法が使えないのはレリアだけ。侯爵以上の貴族を入れたとしても、おそらくレリアだけだろう。
魔法が使えないレリアだが、一応王女だ。表だって蔑む人間はいなかった。
潮目が変わったのは二年前の婚約破棄。当時の婚約者だったヴェールト王国の王子が声高らかに無能と糾弾してからだ。すっかり無能王女の呼び名は定着している。
けれど。
レリアは魔法と似て非なる言語の呪文を唱える。
すると、レリアの手の平の上にぼんやりと明るい光がともった。
先ほどレリアが発動できなかった照明魔法と同じ効果だが、レリアのこれはいわゆる「魔法」ではない。
教えてくれた亡き母ニネット曰く「精霊術」なのだという。
シランドル王家に細々と伝わる大昔に廃れてしまった術。
そう。レリアは魔法が使えない代わりに、貴重な精霊術が使えるのだ。
空気中に漂う魔素を体内に取り込み発動する魔法と違って、精霊術はその名の通り、精霊に力を借りて発動する。
その結果起こる現象はとてもよく似ていたが、決定的な違いがあった。
――精霊術は人間を始めとした生き物全般に効果がない。
それは攻撃術も治癒術も同じ。精霊術は、とうの昔に滅んだ魔物に効くのだという。
『これはシランドル王家の血を引く女性に代々伝わる力なの。将来、きっと必要とされるときがくるわ』
前国王の姪で自身もシランドル王家の血を引く母は、そう言って微笑んだ。
一応、精霊術にも結界術など人間にも有用なものはあるらしい。だが、それを教えてくれる前にニネットは亡くなってしまった。
故に、レリアが使える精霊術は初歩的なものばかり。王家の書庫に行けば書物の一冊くらい残っているかもしれないが、ドロテ妃の目が光っている状態で書庫に行くことは難しく、独学もできなかった。
初歩的な精霊術が使えたとて、効く相手がいないのであれば使えないのも同じ。
(お母様みたいに、魔法と精霊術、どちらも使えたなら自分の身を守れたのに……)
レリアがそう思うのには理由がある。
独身時代からの王の寵妃、ドロテ妃の存在だ。祖父――前王の大反対を押し切って、父の側妃になった女性。
正妃ニネットが病で亡くなったのを機に、ドロテ妃は自分の生んだ幼い息子を王太子にしようと、既に王太子だった兄ユベールを蹴落とすべく行動を開始した。
否応なしに巻き込まれたレリアは、五年前、何者かに誘拐されてしまう。
兄が助けに来てくれなければ、おそらくレリアは殺されていただろう。
犯人は金で雇われた人間。ドロテ妃の関与は明らかだったが、証拠は出なかった。
結局、レリアたち兄妹は離宮に追いやられることになった。世間ではドロテ妃の勝利だと思われているが、兄がレリアを守るために一旦引いただけなのはわかっている。長期戦に持ち込むことにしたのだ。その証拠に、兄は王太子の座を死守している。
今は耐えるときなのだ。引きこもりの無能王女としてドロテ妃の思惑通りに振る舞っていれば攻撃されることも少ない。
二年前の婚約破棄がきっかけで引きこもったように言われているレリアだが、実際のところ、五年前に離宮に追われて以降、滅多に本殿に顔を出していない。
ドロテ妃主導で婚約を結んでいた約半年間だけ、ほんの少し社交の場に顔を出していただけだ。
この引きこもり生活には納得している。半ば自分で望んだことだ。
けれど、十代の少女として、華やかな場に憧れがないと言ったら嘘になる。
今日はシランドル王国の建国記念日。
本殿の大広間では外国からも貴賓を呼んで、シランドル王国建国記念の式典が開かれている。今頃、舞踏会が行われているはずだ。
そこにレリアの席はないけれど、異母妹ヴィオレーヌはきっと豪華に着飾って出席しているのだろう。
きらびやかな王宮行事がある日は、どうしても鬱々とした気持ちが拭えなくて、こうして離宮の外に出てきてしまう。
(大丈夫。きっともう少しの我慢よ)
最近兄が水面下で精力的に動いていることをレリアも知っている。おそらく、兄が王位に就く日は近いはずだ。そうなれば、レリアの状況も劇的に変わる。そう信じている。
――冷たい夜風の中、どれくらい佇んでいたのだろう。
「レリア。やっぱり外にいたんだね。身体が冷えてしまうよ」
「お兄様!」
聞き慣れた兄の声がして、レリアは慌てて振り返った。ぱっと顔を輝かせる。
そこには、本殿で式典に出席していたはずの同母兄ユベールが立っていた。手の平の上に輝いているのは、照明魔法の球だろう。
六つ上の兄とは銀髪碧眼と色彩こそ一緒だが、顔立ちはレリアが母似、ユベールが父似とあまり似ていない。きりっとした顔立ちのレリアと違い、兄は甘く優しい顔立ちをしている。
シンプルな青のジュストコールに白のトラウザーズという格好の兄は、一国の王太子が式典に出席するにはいささか地味だ。しかし、ドロテ妃をやり過ごすにはこれくらいがちょうどいいらしい。
母が亡くなる前から王太子の座についていた兄だが、ほとんどの貴族がこのまま王位に就くとは思っていないだろう。第二王子が成人するまでの「つなぎの王太子」というのが大半の見方だ。
そしてユベールは、表向きはそのイメージ通りに行動している。そこにかつての才気煥発だった王太子の姿はない。それが見せかけだと知っていても、少しもどかしくなることがある。
「式典は終わったんですか?」
そこまで口にして、レリアは兄の隣にもう一人の青年がいることに気づいた。
兄が離宮に誰かを連れてくることは非常に珍しい。
「お兄様。そちらの方は?」
意志の強そうな琥珀色の瞳が印象的な青年だった。にこやかなユベールとは対照的に表情は真顔に近い。
年齢は二十歳前後か。シランドルではあまり見ない黒髪。すっと通った鼻筋に引き結ばれた唇。甘さの少ない精悍な顔立ちは非常に整っていて、真顔だと少し怖いくらいだ。決して背丈は低くない兄よりも頭半分くらい高い身長。細身だが、しっかりと鍛えているのがわかる体つきをしている。帯剣こそしていないが、黒い騎士服に身を包んでいた。
「ああ。彼は僕の友人だよ。エドガルドっていうんだけど――レリア。君もエドと昔会ったことがあるはずだよ。覚えていない?」
「え?」
レリアはサファイアの瞳を兄の隣の青年に向ける。
即答できないレリアに、エドガルドが苦笑する。
「――覚えてないか? 君が七歳くらいの頃だったと思うんだが」
十年前。まだ母ニネットが健在だったころということだ。
「すみません」
レリアが素直に謝ると、エドガルドは気を悪くした様子もなく首を振った。
「気にしなくていい。少し顔を合わせたくらいだから」
もしかして、エドガルドはレリアのことを覚えているのだろうか。だとすると申し訳ない気持ちになってくる。
小さくなるレリアに、エドガルドはわずかに表情を緩めた。
「俺はエドガルド・モラーレ・アブストラート。アブストラート王国の第三王子で、第二騎士団の騎士団長も務めている。改めてよろしく」
シランドルの西の国境を接しているアブストラート王国は、アウロラ大陸にある国の中でも少し特殊な立ち位置にある国だ。王族が国外に出てくること自体が珍しい。
エドガルドの素性には驚いたが、レリアはそれを顔に出さずに精いっぱいのカーテシーをした。
「シランドル王国第一王女レリア・ラガルト・シランドルにございます」
顔を上げて――ふと、エドガルドの琥珀色の瞳と視線がぶつかる。
(――瞳、光の加減で金色にも見えるんだ……)
吸い込まれるように彼の瞳を見つめてしまい――レリアははっと我に返った。
いくらきれいな瞳とはいえ、見とれている場合じゃない! 不躾すぎる!
きっとエドガルドとユベールは建国式典で再会して、旧交をあたためるために離宮に来たのだろう。その邪魔をしてはいけない。
一人恥ずかしくなったレリアは脱兎のごとく逃げだそうとした。
「ご、ごめんなさい。引き留めてしまいましたね。私はこれで――」
「待ってレリア。エドは君に会いに来たんだ」
兄に呼び止められてレリアは足を止める。
「え?」
目を丸くするレリアに、兄はいたって真面目な顔で続ける。
「レリア。君に大切な話がある」




