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復讐の結末2

「おーっす。おせーぞ」


約束の場所へ行くと、

軽い調子の声が僕を出迎えてきた。


目を向けると、都市伝説の墓石に腰掛けていた女が、

尻の埃を払いながら立ち上がった。


「まだ、時間には少し早いだろ?」


「何言ってんだ。

アタシを待たせようなんて百年はえーんだよ」


「自分から時間を指定したんだから、

勝手に僕のせいにするなよ」


「おーおー、タメ口になっちまって。

つーことは、アタシはもう敵認定なのか」


「あれだけのことをやっておいて、

そのままの関係を維持できると思ってるのか?」


「……へー、お上品な面と態度してっから、

クールなのかと思ってたのに、結構アツいじゃん」


「当たり前だ。

僕だって何をされても笑ってるわけじゃない」


「んじゃ、ガチで復讐しに来たってわけか」


「……その前に、

一つ聞きたいことがある」



「何で殺した?」


「えー?

今さらそんなこと聞いてくるか、ふつー?」


「いいから答えろ」


「暇つぶしに決まってんだろ。

ひ・ま・つ・ぶ・し」


こいつ……!


「おー、いい顔。でもさ、マジにそれが理由だから、

キレられても困るんだよね」


「んでも? 強いて言うなら?

晶が原因とも言えなくもない的な?」


「……どういうことだ?」


「アタシさー、

温子に唾付けてたんだよ」


「アイツ、人間をゴミ虫みたいにしか見てない上に、

クソ頭良くてクソ容赦なかったからさ」


それって、ABYSSにとって超有望じゃん――と、

高槻が下卑た笑みを浮かべる。


「だから、もっともーっと腐らせてから、

時期見てABYSSに誘うつもりだったんだよ」


「でも、久々に会ってみたら、

誰だかさんが温子を変えちまってたわけだ」


「そんなことになっちまったなら、

アタシが温子をぶっ壊して腐らせるしかねーだろ?」


「お前……そんなことのために、

爽と琴子を……」


「安いもんだろ?」


悪びれもせずに言う高槻。


その舐めた態度に、

体温が上がるのを感じた。


「んじゃ、今度はアタシから質問だ。

お前さ、安藤有紀の死因知らない?」


「あー、安藤有紀っつっても、偽物のほうな。

ついでに言うと、死因っていうか死んだ経緯だね」


「……そんなの、

聞いてどうするんだ?」


そもそも、

どうしてそこで安藤有紀が出てくる?


あの安藤もABYSS側の人間だったんだろうけれど、

こいつは絶対、仇討ちを考えるような人間じゃないのに。


「いやー、あいつってさ、替えが利かねーんだよ。

いつの間にか死んでましたじゃ困るんだ」


「……そんなに大切だったら、

もっと大事に扱っておけばよかっただろ」


「いやいや、

あいつが死ぬとか想定できるわけねーから」


死亡が想定できない……?


諜報部員だっていうことか?

それとも、単純に強いとか?


……いや、

もう既に僕には関係のない話か。


「何にしても、知らないな。

僕も死体しか見てないんだ」


「んー……まあ、やっぱそうだよなー。

オッケ分かった、サンキュー晶」


「んじゃ、用事も終わったし、

後は晶をころころして遊ぶか」


……やれるもんならやってみろ。


僕は遊びに来たんじゃない。

お前に、復讐しに来たんだ。


――集中。


目の前の敵を打ち倒すために必要な体を、

丹念に強靱に作り上げる。


「あー、あとさー。アタシが晶に会いに来たのってさ、

もう一つ理由あったんだぜ。何だと思う?」


同時に“判定”で高槻良子を嗅ぎ分ける。


結果は――この女に相応しい、

獣染みた哄笑。


うるさいことこの上ない。


「答えは、晶の復讐が達成されることはないから。

いやー、さすがに一般人(パンピー)には負けてらんないしね」


けれど、この程度なら問題はない。


「つーわけで、クソ虐めてやっから、

さっさとかかってこいよ」


言われるまでもなく――


全力で、

クソ女の顔面を殴り飛ばした。


文句なしのクリーンヒットに、

高槻が吹っ飛ぶ/尻餅をつく。


お喋りな口元に血を滲ませながら、

驚愕に満ちた瞳で僕を見上げてくる。


「な、何だお前……!?

パンピーじゃなかったのかよ!?」


……ははっ。


こいつ、僕が本当に、

何をされても怒らない無害なやつと思ってたんだな。


それは、幾ら何でも舐めすぎだ。


「お前は――」


たった今、女を殴った拳を掲げて、

眼下のABYSSを睨み付ける。


「泣いて謝るまで、

絶対に許さないからな」


それから、そのとぼけた顔面に向かって、

拳を振り下ろした。


同時に、高槻の体が横に転がる/跳ね起きる

/間髪置かずに後ろへ跳ぶ。


その脇目も振らない逃走を追いかけ、

体勢を整えようとするところへ蹴りを放つ。


「チィ――!」


ばちん、と大きな音を立てて、

蹴りを弾く高槻――形の悪い受けに顔を(しか)める。


ダメージは有りと判断し、

さらにもう一発――今度はまともに防がれた。


けれど、布石としては十分。


三度の蹴りをフェイクにして、

相手のガードを誘いつつ距離を詰める。


が――


「うっ……!」


さっき地面に倒れた時に握っていたのか、

手に持っていた砂を高槻がばら撒いてきた。


目に砂が入るのを避けるために、

足が止まる。


その間に、高槻は悠々と距離を離して、

改めて両足を地に着けていた。


「……何モンだ、お前?」


口元の血を舌で舐め取りながら、

僕を睨み付けてくる高槻。


「ABYSSでもプレイヤーでもないのに、

何でこんな強ぇんだよ?」


「片山にばら撒かせてた

“フォール”を飲んでるわけじゃねーんだろ?」


……なるほど。そういうことか。


初撃が簡単に入りすぎたと思っていたけれど、

僕がそもそも戦えるのを知らなかったんだな。


つまり、僕のことは鬼塚からも、

あのアーチェリーの仮面からも報告を受けてないと。


「……まあ、答えねーっつーなら、それでいいさ。

別にアタシも本気で興味あるわけじゃないしな」


「部長クラスだっつーことさえ分かりゃ、

それでいい」


……それでいい?


「んじゃ――」


こきりと、高槻が首を慣らす。


「本物のABYSSの実力を、

お前に見せてやるよ」


言うと同時に、高槻の姿が消えた。


「っ!?」


直後、真横からいきなり衝撃が飛んできた。


驚きに目を見開く――

その視界に腕を振り抜いた高槻の姿が映る。


ということは、殴られたのか。

そう理解した瞬間に、戦慄した。


何だ、この威力は……!?


ガードしたのに、

その上から胴体に響いてくる!


「オラ、次行くぞ!」


来る――


ひだ……いや右か!?


「残念こっちー!」


「ぎ――」


背中からの一撃に、呼吸が止まる。


貫通したんじゃないかと思うくらい、

一撃が重い。


何だよ、こいつ……!?


とんでもなく、強い――!


「オラ、ぼーっとしてると死ぬぞ!」


慌てて地面に伏せる――

その直上を高槻の蹴りが通過する。


凄まじい音と風圧に、

血が一気に冷たくなる感覚を覚える。


これはまずいと判断し、

地面を掻いて高槻の間合いから離れた。


それから、止まっていた呼吸を整えつつ、

さっきとまるで違う女の姿を改めて窺う。


「なっ……!?」


“判定”を聞いた瞬間、

背中に引きつるような悪寒が走った。


さっきまでとは、まるで違う。


こいつ……もしかして、

あのアーチェリーの仮面よりも……!?


「あー、晶さぁ」


そんな僕の戸惑いを見透かしたかのように、

高槻が呼びかけてくる。


「さっき何て言ってたっけ?

『泣いて謝るまで許さない』だっけ?」


「いいねぇ、それ。

晶が泣いて謝るまで虐めてやるよ」


「っ、誰がっ……!」


琴子と爽の仇を取りに来たんだ。


僕が謝る?

そんなの、死んでもするわけないだろうが!


「楽しみだわー晶の土下座」


下卑た笑いを浮かべながら、

高槻がずかずかと無造作に間合いを詰めてくる。


……さっきの感じだと、

近距離で真正面から行っても、ほとんど勝ち目がない。


となれば、ここは――


「おっ」


高槻の正面を外すように走り、

斜めの角度から拳を見舞う。


高槻は難なくガード。

ついで、僕の腕を掴み取ろうと手を伸ばしてくる。


それを身を引いて躱しつつ膝元へ蹴り

/間合いを離しつつ背後を取りに走る。


「チョロってんじゃねーぞ!」


振り向きざまの裏拳が飛んでくる

/足が飛んでくる/高槻も僕を追って走り出す。


そのどれをも回避しつつ、

地面に落ちている石を回収――全力で投擲する。


高槻の回避――

後ろの建物の窓ガラスが砕ける。


その音が消え去るよりも早く

飛んでくるボディーブロー。


下手に食らったら肋が砕けそうな一撃を何とかガード――

腕が痺れる/たたらを踏まされる。


僕のほうが体重は重いはずなのに、

まるで二倍くらいの体重の相手とやっているよう。


そのくせ、動きが物凄く速い。


隙を作るための動きと投石だったはずなのに、

いつの間にかこちらが守勢に回らされている。


正攻法じゃ、とても勝ち目がない。


何なんだよ、こいつ――!?


「っ……おおおっ!」


砂利と一緒に左足を上げ放つ。


砂埃を避けるためにガードを上げる高槻――

胴体ががら空きに。


その絶好の隙間へ、

遠心力を乗せた右後ろ回し蹴りを叩き込んだ。


けれど、足に伝わってきたのは、

分厚いゴムタイヤでも蹴ったような感触だった。


「いい蹴りじゃん。

腹に来るって読んでなけりゃやばかったかもね」


んでも捕まえた――と、

高槻の口が三日月を描く。


見れば、右足には、

がっちりと食い込んだ高槻の腕が――


「晶……プロレスは好きか?」


叫ぶ間もなく、

景色が真横に流れ出した。


手が/頭が重く痛く、

はち切れそうな感覚に襲われる。


プロレスのジャイアントスイングなんてレベルじゃない。


どんどん、

遠心力で血が偏っていくのが分かる。


手と顔が、

何倍にも膨れ上がっている気がする。


足先が冷たくなって、

力が抜けていく。


こん……こんな、

バカみたいな速度で……!?


ありえな、い……!


「あらよっとぉ!!」


ふいに身体が軽くなった。


その感覚は、すぐに吐き気へと変わった。


「げ――」


景色がぐるぐると回っていた。


吐き気が止まらない。

勝手に喉が開くのが分かる。


気持ち悪い。手に力が入らない。

足も、全く動いてくれない。


ビルの壁面に投げつけられて、腕を強く打ったのに、

感じるのは吐き気と脱力感だけだった。


「おーっと、悪い悪い!

ついついはしゃぎすぎちまった!」


上から高槻の声が聞こえてくる。


水の中にいるみたいだった。


「ってか、かなりダメージ受けてね?

ダメだぞ晶、この程度は男なら立ち上がらないと」


無茶言うな――と言おうと思ったものの、

胃の中を戻しそうな気がして、代わりに息を吐いた。


それでも噎せる。

呼吸すらままならなかった。


「いやー、しかし泣かないもんだねぇ。

ガッツリ痛めつけてやってんのに」


「土下座して詫び入れれば楽になれんぞ?

どうだ、んん?」


「だ、誰が……するもんか……」


自分でもそれと分かる虫の息の状態でも、

必死になって高槻を睨み付ける。


「僕は、琴子と爽の……

仇を討つんだ……」


「おーすげーなー。まだそんなこと言ってんのか。

妹と仲間のために頑張る俺かっけーってやつ?」


「んー、いいね。友達思いの男の子が、

為す術もなくブッ殺されるとか、いいビデオになるわ」


ビデオ……?


「ああ、さっきからずっと撮ってんだよ。

ABYSSだからな」


あの辺とか、あの辺とか――と、

高槻が周囲のビルを指差していく。


……最初に感じてあった気配は、

伏兵じゃなく撮影係だったってことか。


「つっても、用途は記録用だから、

本当は誰にも見せる予定ないんだけどな」


「ただ、晶がこんだけ頑張ってることだし、

せっかくだから温子にも見せてやるか」


……は?


「ついでに、妹のアレなところも見せてやっか。

温子がどんな反応見せるか楽しみだ」


温子さんに……見せる?


僕が殺されるところと、

爽が殺されたところを?


何だよ、それ――


「やめろ……」


「もしかしたら、

昔の温子に戻ってくれるかもしれねーだろ?」


「やめろ!!」


「お、いー反応だねー。

さすが俺かっけーな晶くん!」


「なあ、妹が死んだ時の温子はどんな感じだった?

やっぱ泣いてた?」


爽が死んでいたあの地下室での、

温子さんの反応を思い出す。


あの時の温子さんは、

完全に狂乱していた。


自分の死を厭わず、

爽の傍にいようとしていた。


もし。もしも、温子さんが、

爽や僕の死に様を見せられたりしたら……。


「あー、反応楽しみだわ。

想像するだけでおっきしちゃうね!」


「やめろよ……そんなことしたら、

今度こそ温子さんは……」


「バーカ。だからやるんだろ」


「やめろよ!!」


その最悪の発想が現実になったとしても、

その時は、僕も黒塚さんも温子さんの傍にいない。


誰も、温子さんを守れる人間がいない。


そうなったら、温子さんは――


「やめて欲しいなら止めりゃいいじゃん。

アタシはいついかなる挑戦でも受けるぜぇ?」


「くっ……!」


立て。ここで立たないとダメだ。


こいつは、こいつは何としてでも止めないと。


温子さんを守るって、誓ったんだ。


今、そのために根性を見せないで、

一体いつそれをするっていうんだ――!


「ぐ……おぉぉ……!」


「おー! 立った立った、晶が立った!」


ぱちぱちと、拍手が飛んでくる。


けれど、そんなのに喜んでる暇はない。


とにかく、体が動くうちに、

こいつを打ち倒して温子さんを助けるんだ。


「高槻……良子ォ!!」


「はいぼーん!」


突っ込んだところを真正面から返されて、

再び地面に転がされた。


くそ……くそっ、くそぉ……!


「ああぁああああぁっ!!」


そうして――

何度も何度も立ち上がっては、殴られた。


酷い力の差を感じた。


惨めだった。


悔しい。こんなの、あんまりだ。


僕が、どんなに温子さんを守ると誓っても。


僕には、誰かを守る力なんてなかった。


琴子みたいに。爽みたいに。

加鳥さんみたいに。


このままじゃ、また守れないで死なせてしまうのに、

僕はどうしようもないくらい――無力だった。


「いやー、弱っちぃなー晶くん。

温子さんとか妹のために頑張るんじゃなかったの?」


煽ってくる高槻。


けれど、言い返す力どころか、

起き上がる力さえ残ってなかった。


「えー、もう終わり? がんばっ! がんばっ!

ほらほら、アタシを謝らせるんだろ?」


あ……。


そうだ。思い出した。


高槻は、言っていたんだ。

僕を虐めるのは、泣いて謝るまでだって。


だったら――


「……あ?」


頭の上から、

呆気にとられた声が聞こえてくる。


でも、そのことを一切気にせずに、

頭を下げた。


「お願いします……」


「すみませんでした。

温子さんにだけは、手を出さないでください……」


「……ぷっ」


ぎゃはははは――と、

嘲笑の雨が降ってきた。


「いやー、いいね! 晶最高!

復讐に来てアタシに土下座するとかマジいいわー!」


「おい、ビデオ撮ってるよな?

ここ超いい場面! ここ超いい場面だから!」


「後でガッツリ見返すから、

マジ絶対、最高画質で撮っとけよ!」


高槻が嬉しそうに喚き立てる。


その直後、頭の上に何かが降ってきて、

顔が地面へと押しつけられた。


血と泥の味に苦い思いをしながら、

きっと踏みつけられてるんだろうなと思った。


「さーて、晶くん。君、イイネ!

実によく分かってて好感が持てるよ!」


「で、ここからどーすっかなー。

アタシの目的は、これで達成しちまったんだよなー」


「なあ晶、どうして欲しい?」


「……僕はどうなってもいいですから、

温子さんは助けて下さい」


「なるほどなるほどー。

晶は温子に手を出さないで欲しいと!」


「はい。……よろしくお願いします」


僕に力がない以上、

温子さんを守るには、もうこれしかない。


「お願いします……お願いします……」


「あー、はいはい。お前がどれだけ本気なのか、

アタシの心の奥にまで染み込んできたよ」


「――つーわけで、

晶ブッ殺したら次は温子だな!」


瞬間、心臓がどくんと跳ねた。


それから一歩遅れて、じわじわと、

胸の奥から焔が迫り上がってくるのが分かった。


それは、酷く黒い色をしていて、

ひたすら僕の心をちりちりと炙ってきた。


それでも、聞こえた言葉が信じられなくて、

高槻の顔を見上げた。


「……あぁん? 何見てんだよ?」


「あの、今……」


「聞こえなかったか?

温子のところに行くっつったんだよ」


「そんな……!」


「『そんな』じゃねーよ。

嫌だったら止めればいいだろ?」


「ほら、アタシが前に言ったじゃねーか。

『悩みを解消するには誰か一人を殺せ』ってよ」


げらげらと笑って――


「ま、それもこれで無理だけどな」


高槻は、

僕の背中をどんと叩いてきた。


噎せた。

というより、息を吸えなかった。


物凄く簡単に叩かれたのに、

どうして――


「あ……」


気付いた時は、

不思議と冷静だった。


なるほど。

これじゃあ確かに息が吸えないわけだ。


背中に、こんなにも深く、

ナイフを差し込まれていたなんて――


「じゃーな、晶。達者で死ねよ」


上から声が聞こえてくる。


うすぼんやりとしていた。


ただ――最後までこいつに遊ばれたのが、

悔しかった。


そして、これからこいつに温子さんが遊ばれるのが、

どうしようもなく許せなかった。


琴子も。爽も。加鳥さんも。

みんな、こいつの悪ふざけに巻き込まれて死んだ。


死んだ。


殺された。


高槻良子が――あのげらげらとやかましい哄笑を、

みんなにやりたいままに叩きつけた。


僕が、どれだけ頑張っても手に入れられなかったもので、

ずっと大事にしてきたものを奪っていった。


そう思うと――胸の奥がざわついた。


体は眠りたがっていた。


けれど、

自由にはさせなかった。


僕にはまだ、やることがある。


自分の深淵が、

僕を覗き込んでいるのを感じる。


胸の奥のざわつきが、

自然と喉元を昇ってくる。


やがて訪れる根源的な理解――

ああ、そういうことか。


これまで一度も上手くできたことがないけれど、

今なら、簡単にできそうな気がする。


出すのではなく

色を付けるのだという感覚。


必要なのは、

それを流す扉を開けておくこと。


それさえ分かれば、

何も難しいことはない。


息が吸えなかろうが、

何も問題はない。


「高槻良子――」


その名を呼んで、

扉を開け放った。


途端に溢れ出す深淵。


世界が暗転し、

闇が命を/運命を/全てを飲み込んでいく。


その中で僕は、

生まれて初めて、自分の声を聞いた。


「――お前だけは、必ず殺す」





「……あん?」


名前を呼ばれ――

高槻良子は足を止め、眉をひそめた。


ナイフを十分に深く突き刺した以上、

喋れるだけの余力は残っていなかったはずだ。


それとも、何かの奇跡が起きて、

即死するに至らなかったのだろうか――


そう思って振り返った先には、

しかし、誰の姿もなかった。


さっきまで、身動きできないレベルに倒れていた男が、

いつの間にか消えてなくなっていた。


「何だ……? 何があった?」


周囲を見回すも、全く姿は見当たらない。


音もなく、匂いもない。


隠れる場所はどこにもないのに、

文字通り影も形もなくなってしまっている。


「おい、撮影係!

晶はどこに行った!?」


ビルを見上げて確認するも、

三人いた撮影係は、三人とも首を横に振った。


つまり、上から見ていた三人でさえ、

全く気付かなかったということだ。


人間が煙や幻のように消える――

そんな馬鹿な話があるかと、高槻良子は独りごちた。


だが、そんな馬鹿な話が目の前で起きているのだ。


信じられなくとも、

信じる以外にない。


そんな驚愕と疑心の中で、

高槻はふと、地面に残る血痕に気付いた。


きっちり胸を刺したのだから、

血が垂れないわけがない。


この痕を追えば、

必ず笹山晶に行き着く。


「何だ……びびらせやがってよーこのヤロー」


高槻が笑いを浮かべて、

血の跡を追っていく。


そこで、妙なことに気付いた。


「何かこれ、

アタシの後を追ってねーか?」


――瞬間、

背中をドンと押される感覚があった。


何が起きた――と口にしようとしたものの、

声が全く出なかった。


ただ、倒れ際に、背中に深々と突き刺さったナイフと、

後ろに倒れている笹山晶の姿を見た。


信じられなかった。


何が起きたのか、

さっぱり分からなかった。


分かったのは、どうやら晶に刺されたらしいことと、

高槻自身が晶に突き刺したナイフが凶器ということだけ。


どこに隠れていたのか。どうやったのか。

何故自分は気がつかなかったのか。


様々な疑問が、

高槻の中で浮かんではぼやけていく。


ただ――温子を守りきられたことだけは、

確かな悔しさとして胸に残った。


くそ、と呟いた。


しかし、声は結局出なかった。


それがまた、このお喋りな女にとっては、

悔しくてしかたなかった――


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