夢幻
その日、『アスカ』は華やいでいた。
オレがテーブルを拭く傍らで店内見学よろしく周囲を澄ました表情で見ている兄は絵になったし、それに付き従っている信天翁は本当に執事と言う面持ちで、かなり兄に心酔している事が見て取れる。
ケリアスとジュンガはまだメンテナンスルームから出てこない。パルパニエにとって二日目に突入してもそれは時間がかかっている内には入っていないらしい。
兄さんいわく『彼女の半日なら、10日ぐらいかな』だった。
シンが窓枠に乗り出して窓を開け、外の空気を取り入れている。ついでに置いてある植物(日陰で咲く花だ。窓が開いているせいでその少し強すぎる香りが部屋に流れ込んでくる)に水をやるつもりなのだろう。
別に窓枠に乗ること自体は危なくない。建物は丈夫だし、オレだって枠に乗り出さなくては窓を開けられないくらいの壁に厚さがあるのだ。同じくらいの幅が窓の外にもあってそこに植物を置いているのだ。きつめの香りの植物を置くのは窓の開閉が手間でめったに開けないせい。部屋に香りをもたせるのに開けている期間が少しでいいからだ。
窓の下にはその壁のぶ厚さを利用して掘り作ってある棚がある。その棚には普段茶器を納めているのだ。(今は掃除のため空っぽ)
ビノールがお茶菓子を運んできた。みんなでお茶にしてその後ちょっと観光に行こうと言う話になっているのだ。
ちなみにビノールはモグラ族としての姿ではなく魔法を使い人の姿をしている。ひとつ聞きたい事があるのだが、さて、答えてくれるだろうか?
「ビノールぅ」
ビノールが流れる髪を揺らして振り返る。
「なぁに? ヴィール」
不思議な事にビノールは人に化けると言葉になまりがなくなる。
「なぁ、ビノールって女性だったっけ? オレ、男だと信じていたんだが……」
ビノールがピシッと硬直する。
そう、今ビノールは人の女性の姿をしていた。(しかも多分、けっこう美人と言われる外見だ)
こげ茶色の髪はゆるい弧を描いて背の中ほどまで落ちているし、肌は陽に焼ける事を知らぬように白く滑らか。顔立ちは多分、かつて知り合った女性達を手本にしたのだろう。整っている。ビノールはオレと知り合ってから獣人族や人の姿をした絶世の美女に会う機会には非常に恵まれていたのだ。(例えば人魚族は美女が多いし、ドラゴン族は人の姿をとるとまぁ、美形が多い)
でも何でビノールのようなモグラ族の健康な男が化けるのが女の外見なのだろう?
「そ、それはっ………」
ビノールは言葉を濁す。
すでに周囲の視線はビノールに集まっている。もしかしたらみんな気にしていたが突っ込む事ができなかったのだろうか?
そんな中ノッカーの音が聞こえた。
そういえば今日はカイザーとの約束の日でもあった。
信天翁がいそいそとドアを開けに玄関に向かう。
兄さんが軽く出ていようと言わんばかりにその後を追う。多分隣室にでも潜んでいてくれるのだろう。
こんなところで殺す殺さないなどの言い合いをされるのもごめんなのでこれでいいのだろう。
シンが心持ち嫌そうに開けたばかりの窓を閉める。窓の開閉はけっこう手間がかかるし、風が少なく、湿気も同時に少ない日というのが久しぶりであるせいもあるだろう。
ビノールは茶菓子を置いて、壁際の棚に移していた茶器に手を伸ばす。
窓を閉めたシンがオレの手のふきんを取上げ、ビノールに一礼し、退室した。
お茶の準備をビノールに頼んだと言うところだろう。ビノールも頷く。ついでに言うと解答を避ける事ができてほっとしている事だろう。
「新しい依頼人の方?」
ビノールに問われ、オレは首を横に振る。いつもとちがう言葉使いのビノールというものはどこか新鮮な感じがする。しかも美女だ。もちろん、声も女性だし、言葉使いもどこか貴婦人のようだ。
部屋の扉をノックする音。信天翁がやってきたのだろう。
「若様。失礼いたします」
オレは椅子に座り、ビノールはそのオレの後ろに待機する。
開いた扉の先には予想通りカイザー・フィッターが信天翁を従えて立っていた。
オレはゆっくり立ち上がり、営業用スマイルと共に一礼する。
「ごきげんよう。カイ殿。どうぞ、お寛ぎ下さい」
カイザーの視線がオレに留まっていたのはほんの少しの事だった。その視線の先はオレの背後。つまりビノールだった。
?
オレは内心首を傾げ、カイザーに椅子をすすめた。それから振り返ってビノールにお茶を頼んだ。 「お茶を、…………頼めるよね?」
オレは再び内心、首を傾げた。なぜこのモグラは硬直しているのだろう?
ビノールは慌てて頷くとそばに置いておいた茶器に手の伸ばした。信天翁がこの手際の悪さに眉をひそめている。普段、手際のいいビノールには珍しい事だ。
オレは再びカイザーに視線を戻し、もう一度椅子をすすめる。今度は仕草だけで。そしてオレも座りなおした。
「生存確認、現在場所の捜索。双方結果は出ております。ご信用いただけるかどうかは別として。今後の調査を続けるか、目的を調査だけではなくもっと幅を広げてどのような人となりかまでの調査となさいますか? って、聞いてらっしゃいますか?」
ところでなぜ視線がビノール?!
人の話ぐらい聞けと思いながら一応問いかける。できるだけ穏やかに。
返ってきたのは沈黙だった。
明らかに居心地悪そうにビノールがお茶を差し出す。ビノールは状況を理解しているのだろうか?
「カイ殿、『彼女』とはお知り合いですか?」
オレは仕事の事を聞くことを取り敢えず断念した。
ようやくオレの声が聞こえたのか、カイザーはゆっくりオレの方を見た。
「ええ。先日お会いしたところです。再びお目にかかれようとは。美しいレディ」
ふんわりと優しい笑顔。カイザーの視線は再びビノールを見つめている。
信天翁は状況を把握しているのかして何やら顔だけで笑っているが、オレには何が何やらさっぱりわからない。
「若様」
信天翁が不意にオレに呼びかけてきた。
「お客人がいらしておいでです。少しばかりお時間を頂きたいのですがよろしいでしょうか?」
その問いかけにオレは頷いた。客人が来ているというのは嘘だとわかるが、オレも信天翁に問いかけたいことがあった。
「失礼。少し席を外させて頂きます。すぐ戻りますので。モール、粗相のないように」
そうビノールに言い置いてオレは信天翁の後に続いた。
扉を出た瞬間、オレは兄に隣室に引きずり込まれた。
軽く見上げると兄は楽しそうに笑っていた。
「ヴィール、アレはビノールのアレか?」
楽しそうな物言いにオレは首を傾げた。言っている事もよくわからない。
「アレ?」
わからないと首を傾げたオレを見て兄さんはしかたなさそうに肩をすくめた。
「恋人かと聞いているのだよ。おチビさん」
言い聞かすような印象のある兄さんの声にきっとオレは間の抜けた表情をしていた事だろう。だって信じられない。あのビノールに? オレに内緒で? それに相手って。
「恋人っ!? まさか! ビノールは男だよ?」
オレがつい叫んでしまうと、兄さんはまた肩をすくめて首を横に振った。しかたないと言わんばかりの仕草だ。
「今のあのモグラ族君は女性だったと思うけれどもどうかな?」
オレは目を瞬かせながら思い返す。
そう、ビノールはなぜか乙女の姿をとっていた。ビノールの変身魔法をもってすれば性別の変換など容易いのかも知れないが、好んで乙女に化けるような趣味はなかったはずである。(それとも妙な癖がついたとか?)
乙女の姿のビノールにビノールと呼びかけるのも躊躇を感じたので『モール』。オレの知る言葉で『モグラ』を意味する言葉で呼んだのだ。
それにビノールは恋人が来たと言うわりには喜んではいなかった。どちらかといえば困っていたかのような印象さえ受けた。確かにカイザーはビノールを妙に愛しげに見つめていたが。後でビノールを問い詰める必要性がありそうだ。
オレはそんなふうに思いつつ、シンの淹れてくれたお茶を一杯飲んだ。
「あまり、お二人っきりになさるのは感心いたしませんわ。我が君様」
一応ビノールを心配しているらしいシンの言葉にオレは頷いた。一応、ビノールも困っていたようだし、最近生意気な奴だからこそ、たまには恩のひとつも売っておかなくてはなるまい。
お茶を置いて、オレはカイザー達の待つ部屋へと戻った。
扉を開ける前にノックしようと腕を上げて、オレは少し中から聞こえてくる声に耳を澄ませた。
「再びお目にかかる事が叶うとは思いませんでした。『月明かりの大地の乙女』。幾度、貴女にお会いしたく思って馬をあの地にむけ、駆けさせた事か。ああ、乙女、貴女からは香しき花の香りがする」
カイザーの声が聞こえる。ビノールは答えない。
オレは少しカイザーの言葉を心の中で反芻する。
『月明かりの大地の乙女』
隣室ではあのぶ厚い壁を通してどうやって聞いているのか兄さんが笑っているようだ。笑ってしまう心境はちょっとわかる気がする。花の香りがするのは当たり前だ。ついさっき香りを取り入れたところなのだから。(ちなみに蝋や油の匂いを取るためにでムードを盛り上げるためではない)
覚悟を決め、ノックする。
「失礼します。お待たせいたしまして申し訳ない」
部屋に入るとあからさまにビノールがほっとした表情をした。
カイザーは少し戸惑った表情でオレを迎える。
ビノールはそっと一歩、壁際による。どうやらかなりオレを歓迎しているらしい。カイザー、ビノール『恋人』説はありえそうにないように思う。
「あの」
カイザーの声にオレは営業用スマイルで答えた。
「はい」
「モール殿との関係をお聞きしても不都合ありませんでしょうか?」
オレは唐突の問いにどう答えていいものかと悩んだ。
第一、何でこんなこと聞くんだ? こいつは。
オレには理解不能だ。
「友人ですよ」
それ以外の答えがあるだろうか? オレの大事な友人だ。きっと何よりも大事な友人。オレがこうして他人に接することが出来るのは大事な友人ビノールのおかげであるのだから。そう、カイザーの問いかけはオレには理解出来ない。
なぜカイザーはほっとしたような怪訝そうなというか、複雑な表情をしているのだろう。オレの与えた答えはそれほど難解なものだったのだろうか? わからない。
「では、モール嬢を我が側に置きたいと言っても反対はなされない?」 だからオレはカイザーのこの言葉がなおさらに解らなかった。
意味がわからない。モール=ビノールはオレの大事な友人で手放してやるつもりなんか毛頭ない。嫁を娶ろうが、ビノールがオレの側にいる事は変わらない。
オレは首を傾げた。
カイザーは仕事の話で来たのではなかったのだろうか?
「オレの親しい大事な友人ですよ。モノじゃない。カイ。わかりますか? モールはモノじゃないんです」
モノのように右から左へとやる事など出来はしないに決まっている。第一、手放す気はこれっぽっちもないのだし。それにしてもカイザーってこんな変なむちゃ言うような奴だったのだろうか? わからない。
カイザーはひとつ息を吐いて、ビノールを見た。いや、見つめた。そんな表現が正しい気がする。
「わかっています。ヴィール殿、モノであったならばどうしてここまでそばに置きたいと想うものか。愛しいなどと思うのか。ヴィール殿、私はモール嬢が愛しい。妻に。と望まずにはいられぬほどに。むろん『人』でない事は承知している」
カイザーは巧みに作り上げた冷静さでそう言った。
背後でビノールがかなりパニックしている様子が感じられる。かなり困った発言だったらしい。
どうやら『人』でない事は知っているらしいが、カイザー殿、ビノールが『女性』ですらない事もご存知なのだろうか?
オレはひとつ息を吐いてビノールを振り返った。澄ました表情で立っているがその内心のパニックはすさまじい。カイザーの言葉は間違いなくビノールにパニックをプレゼントしているようだった。
テーブルに置かれたすでに冷めきったお茶をビノールに差し出す。
「落ち着きなさい。モール」
本人には悪いがこんな様子のビノールを見るのは楽しい。特に最近妙に生意気だったし、だからモールと呼び続ける。
ビノールはカップを受け取ると、お茶を淹れかえはじめた。自分が飲まずにオレに新しいお茶を差し出してくれる。本当によっぽど混乱しているようだ。マイペースなビノールにしては珍しい。
甘めのお茶は温度もその甘さもちょうど良くとても美味しい。パニックしていてもオレの好み(オレは甘党)は間違えないビノールはちょっとすごいと思う。いわゆる尊敬に価する奴と思う瞬間でもある。
教会の昼を告げる鐘の音にカイザーは立ち上がった。
「申し訳ない。失礼させていただきます。モール嬢。また、ぜひお会いしたく思います。では」
カイザーはそう言うと、ビノールの手を軽く取り、口付けをしたまるで貴公子が姫君にそうするように自然に。
カイザーが出ていった後テーブルの上に置かれた小さな絹袋の中身は25ヴィサ。依頼料の払込みの一部だ。
確かにこれで最低でも後一度は来る事だろう。後の金額を払うために。
そのことを何とはなしに口にした後、オレはビノールを見た。きっとかなり、にやついていたに違いない。
ビノールは嫌そうな顔をした。