第1話:『おかさんの夏』
その四文字のちょうど真ん中あたりに、小さな、けれど確かな空洞が空いていた。
「おかさん、お茶」
中学に上がったばかりの私が、居間の敷居をまたぎながら、少しだけ声を低く弾ませて母を呼ぶ。
「おかぁさん」の、あの小さくて甘やかな『ぁ』の文字を、どこかへ落っことしてきてしまったかのような、不器用な四文字。
最初は、声変わりを控えた滑舌の悪さかと思っていたのかもしれない。あるいは、部活の疲れで喉が張り付いているだけなのかと。
けれど、違った。私はあえて、意図的に、その一文字を注意深く間引いて発音していた。
小学校の卒業式まで使っていた「かぁちゃん」という、泥のついたスニーカーのような幼い殻。それを脱ぎ捨てて、かと言って、急に「お母さん」と澄ました顔で呼ぶだけの照れくささには、まだ心の準備が追いつかない。その二つの季節の狭間で、私が悩み抜いた末に自ら生み出したのが、文字の欠けたオリジナルな響きだった。
母はその空洞のある呼び名を、まるで少しずつ骨張っていく私の新しい背中を見つめるように、ただ静かに、愛おしく受け入れてくれていた。当時の私にはまだ、その引き算の言葉に込められた甘えや戸惑いを、母がどれほど深く包み込んでくれていたのか、気づく由もなかった。
私の実家は、どこまでも青い水田が広がる米の生産地で、細々と暖簾を掲げる小さなお米屋さんだった。
お米の生産地でお米屋さんをやったところで、わざわざ米を買いに来る人などほとんどいない。だから、祖母の代から店先には日用品や調味料が申し訳程度に並ぶ、半分は雑貨屋のような佇まいをしていた。
祖母は私が生まれるより早くに亡くなっており、母はそれ以来、たった一人でこの家を支えてきたという。家事や育児という「母親業」を完璧にこなしながら、祖母の遺したこの「お店の管理(切り盛り)」を健実に、必死に頑張り続けていた。
がらんとした店内のパイプ椅子に腰掛け、やってくる近所のお客さんにお茶を出しては、いつも取り留めのないおしゃべりに花を咲かせる。それは母にとって、日々の忙しい管理業務の合間に一息つける、ささやかで穏やかな日常の風景でもあった。
私が母を「おかさん」と呼び始めたのも、ちょうどそんな、セミの鳴き声が店先に容赦なく降り注ぐ真夏の日のことだった。
その日も母は、店の土間で、近所の女性にお茶を出して世間話をしていた。冷たい麦茶の入ったコップが結露し、古い木製のガラスケースに小さな水溜りを作っている。その女性は、私の同級生の母親だった。地域でも「歯に衣着せぬ物言い」で知られ、裏表がないぶん、思ったことをストレートに口に出す熱い人だった。一人で店を切り盛りして頑張っている私の母のことを、誰よりもリスペクトし、応援してくれている大切なお喋り仲間でもあった。
そこへ、部活のジャージを着た私が、汗だくになって帰ってきた。店先にその女性がいるのを見て、私は入り口で一瞬だけ足を止めた。友達や他人の前で、母親をどう呼べばいいのか分からない――思春期特有の、あの頑なで不器用な自意識が、私の身体を硬くさせた。
「かぁちゃん」はもう、格好悪くて口が裂けても言えない。かと言って、急に「お母さん」なんて澄ました呼び方をするのをアイツらに見られるのは、なんか、たまらなく恥ずかしい。
悩んだ末に、幼い甘えである小さな『ぁ』の文字だけをそっと引き算し、私の喉の奥から絞り出されたのが、あの不器用な四文字だった。
「あ、おかさん。……ただいま」
私は母と目を合わせないようにして、足早に店の奥の居住スペースへと上がろうとした。その時、パイプ椅子に座って茶をすすっていた同級生の母親の気配が、一瞬で険しく強張るのを背中で感じた。
女性は信じられないといった風に目を見開き、私の後ろ姿を睨みつけるようにしながら、一人で店も家庭も頑張っている大好きな親友である私の母を庇うために、その容赦のない声を土間に響かせた。
「ちょっと、あんた! いまあなたの子、自分の母親に向かって『おばさん』って言わなかった!?」
言葉のトゲが、お茶飲みののんびりとした空気を一瞬で切り裂いた。彼女は、日々必死に頑張っている私の母が、息子からそんな風に舐められていることが、友達として絶対に許せなかったのだ。
「なによ、あの生意気な口の利き方。親に向かっておばさんだなんて、挨拶もまともにしないでさ。やっぱり中学に入ると色気づいて、反抗期かしらね。あなたいつも優しく甘やかして育ててるから、あんな風に舐められるのよ。ちょっとはガツンと言いなさいよ!」
母を想うがゆえの、剥き出しの正義感とお節介。奥へ行きかけていた私の足が、恐怖と悔しさでピタリと止まった。違う、そんなつもりじゃない。そんな酷い言葉を、毎日頑張ってくれている母に向けたわけじゃない。けれど、この人にどう言い返せばいいかも分からなくて、私の背中がじっとりと嫌な汗で濡れていくのが分かった。
その時だった。自分のために本気で怒ってくれた友人に対し、いつもなら「まぁまぁ」となだめるはずの母の、椅子の引く音がガタリと静かに響いた。
母は少しも慌てず、けれどお茶請けの皿を置く手元にはっきりと力を込め、自分のために怒ってくれた友人と、硬直している私の間に割って入るようにして、毅然と微笑んでみせた。私の目には、その時の母の姿が、どんな大人よりも大きく、頼もしく映った。母の声は、店の外のセミの鳴き声よりもずっと澄んで、古いお米屋さんの土間に真っ直ぐに通った。
「違うのよ」
驚いてこちらを見る女性の視線を、母は母親の目で真っ正面から受け止めていた。
「あの子、私を罵ったんじゃないの。私のことを、『おかさん』って呼んでるのよ」
女性はきょとんとして口を半開きにしている。母は優しく、友人の気遣いに感謝しながらも、私の名誉のために絶対に引き下がらないトーンで言葉を重ねた。
「『お母さん』って言うのはまだ照れくさくて、でも『かぁちゃん』を卒業しようとして、あの子なりに一生懸命考えて、小さな『ぁ』を抜いて呼んでくれてるの。だから、怒らないであげて。あの子なりの背伸びなんだから」
母を想う友人の怒りと、私のプライドを守る母の愛。二つの強い感情が交錯した土間で、母は一人の凛とした「母親」として、私の秘密の工夫を優しく世間に開示してみせたのだった。同級生の母親は気まずそうに「あら……私の聞き違い? ごめん、てっきり……」と麦茶に視線を落とし、それきり黙り込んだ。私は逃げるように自分の部屋へと駆け上がり、畳の上に大の字になって、激しく波打つ胸を痛いほどに押さえていた。
その日の夜、夕食の食卓には、いつものように穏やかな時間が流れていた。
昼間の事件のことにはお互い触れないまま、母が静かに味噌汁の椀を差し出してきた。店を管理する忙しい手のひらで作られた、温かい家庭の味。私は昼間の事件よりも激しく胸を揺さぶられ、ついに耐えきれなくなって、俯いたまま小さな声で白状した。
「……だって、『かぁちゃん』はもうガキっぽいし、急に『お母さん』って呼んでるのをアイツらに見られるのは、なんか、恥ずかしくて……。だから、間をとって『おかさん』にしたんだ」
耳まで真っ赤にして俯く私を見て、母は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。それから、まるですべてを包み込むような、あの店先でいつもお客さんに見せていたものより何倍も優しい笑顔を浮かべて、私の頭をぽんぽんと叩いた。
「いいよ。すごくいい名前。おかさん、気に入っちゃった」
あの日、小さな『ぁ』という甘えを落っことした私の背中を、一人で全てを背負って頑張ってきた母は、寂しがるどころか、誇らしそうに肯定してくれたのだった。
あれから長い年月が経ち、あの古いお米屋さんも、母の賑やかなおしゃべりの声も、もう過去の記憶の中にしかない。
けれど、自分が大人になり、守るべき家族を持った今なら、あの時、自分を想ってくれる親友の前で、文字の欠けた不完全な言葉を黙って受け入れ、外の誤解から全力で守ってくれた母の、海のように深い愛の温度が痛いほどによく分かる。
「おかさん」
もう二度と届かないその四文字を、私は真夏の青空に向けて、心の中で静かに、何度も呼びかけている。
(第1話・了)




