序
オン・キリクシュチリビキリ・タダノウウン・サラバシャトロダシャヤ・サタンバヤサタンバヤ・ソハタソハタソワカ。
深夜だというのに煌々とした明かりが護摩堂の窓から漏れ、太鼓の音と幾人もの僧侶の真言が響き渡る。
名古屋城の壮麗な大天守が見おろす不明門の前に、特別に建てられた護摩堂であった。
オン・キリクシュチリビキリ・タダノウウン・サラバシャトロダシャヤ・サタンバヤサタンバヤ・ソハタソハタソワカ。
六尺四方の護摩壇に、赤黄緑青白の紐が撚り合わされた金剛線が張り巡らされ、中心の護摩焚きの炎の周りには香、穀物、香水が置かれている。
その前に並んだ十人もの僧侶たちが、声を合わせ唱える真言は、堂内に轟き、壁を震わせ、権中納言徳川義直の胸を高鳴らせた。
護摩木が焚べられるたびに炎が燃えあがる。
真っ赤な光が義直の二十三歳の精悍な顔に陰影を刻む。
怨敵調伏――。
今おこなわれている祈祷は、表向きは徳川家光の病気平癒であった。
が、真実調伏しているのは家光その人。
怨敵とは家光を苦しめる病魔ではなく、義直自身の怨敵、つまり、家光である。
家光は数カ月後には上洛し、将軍宣下を受けることになっている。何としてもそれだけは阻止せねばならぬ。家光が将軍になる前に息の根をとめなくてはならぬ。そうして家光の弟の忠長も葬れば、おのずと将軍の地位は義直のもとへと転がってくる。
堂外では、にわかに濃い雲が天蓋を覆い、星々のまたたきを隠し、稲光が雲に滲む。
オン・キリクシュチリビキリ・タダノウウン・サラバシャトロダシャヤ・サタンバヤサタンバヤ・ソハタソハタソワカ。
義直が高野山から招聘した十人の僧侶は、すでに十数日にわたって真言を唱え続けている。
家光の身を苛んでいる病魔も、この祈祷ならぬ呪詛の結実であった。
稲妻が窓の外で閃く。護摩焚きの炎が燃えあがる。打ち鳴らされる太鼓と、雷鳴が、音楽を奏でるように奇妙に同調していく。
オン・キリクシュチリビキリ・タダノウウン・サラバシャトロダシャヤ・サタンバヤサタンバヤ・ソハタソハタソワカ。
ふと、炎がひときわ高く噴出した。
それは、見ようによっては哄笑する魔物の顔のようでもあった。
その焔の描いた姿に、義直が目を奪われた瞬間であった。
稲妻が護摩堂の屋根を撃ち抜いた。
何が雷を招き寄せたのか。
すぐ側に聳立する大天守を黙殺するように、棟の低い護摩堂に落雷したのだから、不可解だ。
屋根が弾けるように吹き飛び、欠片が雨のように降り、真言を唱えていた僧侶たちや義直の供の者たちが一斉に倒れ伏した。
しかし、何故か義直だけは電撃に打たれもせず、ただ驚愕の表情で立ち尽くしていた。
その顔をあざ笑うように、炎はさらに燃えあがり渦を巻く。
先ほどまであった天井よりも高く火柱が噴きあがり、爆発するように飛び散った。
飛び散った幾つもの炎の塊が、雷鳴が轟き稲妻が走る天にむかって昇ってゆく。
声もなく、義直はその不可思議で、目を疑う光景に瞠目していた。いや、神秘的とさえ思える光景に目を奪われていたと言うべきか。
すると、炎の塊がふたつ、真っ黒な天空から落ちてきた。
ひとつは義直の真横に倒れている近侍のひとりに。
ひとつは折り重なって倒れている僧侶のひとりに。
唖然とする義直の視界のなかで、やがて、そのふたりが起きあがった。
ゆっくりと、まるで傀儡か何かのごとく、糸で吊りあげられるように。
雷に打たれ炎に包まれたというのに、着物にも肌にも焼け焦げのひとつもない。
そのとき、義直は知らなかったが、残りのいくつかの炎の塊が、名古屋城下の各地に散らばって落ちていた。
ふたりは、すうっと、幽鬼のように護摩壇の前に歩みでた。
落雷によって燃え始めた壁の、炎の明かりに照らされたふたりの顔は、蝋を塗ったように白く、まるで精気がなく、死人が立っているようにすら見える。
その四つの目が、同時に、ゆっくりと見開かれた。
義直の背筋に悪寒が走った。
彼らの瞳は、金色に鈍く光っていた。筆舌に尽くしがたい不気味な光だ。
すると、彼らの後ろの虚空に四本、上から下へと五、六尺の黒い亀裂が一直線に走った。
さらに、その各々の亀裂からふたつの手がぬっとでてきて、亀裂を裂くように開いてゆく。
布を裂くような、いや大地を割るような嫌な音とともに、じわりじわりと亀裂が開かれる。
そうして虚空に開いた、暗黒の穴のなかから四つの人影が現れた。
なかから人がでてくると、また嫌な音をたてながら、穴が閉じてゆく。
義直は忘れていたように、ごくりと固い唾を飲みこんだ。
並んだ六つの影の、その中心にいる男、いやまだ前髪も落としていない少年がにやりと口を歪めた。
「白沢の芦津普賢丸」
絶世とも言える美しい相貌を気に入り、側に置いて愛でてきた美童が、義直が今まで聞いたこともない抑揚で声を発した。
続けて、
「古椿の界嶄」
隣の僧侶が喋った。
「鎌鼬の鵜戸李介」
「塗仏の美倉董之進」
「覚の城咲弼真」
「鵺の石鎚弾右衛門」
亀裂から現れた四人は、いずれも、剣技超絶なる噂が義直の耳に届くほどの達人であり、尾張柳生道場で四天王と呼ばれる者たちであった。
普賢丸がさらに口を歪めた。
「我ら六道冥衆、中納言様の大望を成就せんがため、冥府より罷り越しましてござります」
元来の相貌が可憐なほど美しいだけに、その悪魔じみた笑みは凄絶ですらあった。
聡明で知られた義直が、いまだ目の前の光景を理解できずにいた。
ただ茫然と、知恵も理性も奪われたように、居並ぶ男たちを、引き攣った顔をして見つめるしかなかった。
時に、元和九年(一六二三)三月――。




