(十九)訣別
東宮殿での事件の日の晩、舞楽寮の宿舎に戻った那梨を寮主は何も咎め立てすることなく迎え入れた。
寮主が春陽や嘉眞の意図をどこまで見抜いていたのかは不明だが、一言、春陽の代わりを早急に見繕うとだけ告げ、他には何も訊いてこなかったので那梨は内心ほっとした。
まもなく療養していた寮主の別室から、元の相部屋に戻ると、部屋の中は監察部の捜索があったのか、夜具やら衣服やら身だしなみの道具やらが足の踏み場もなく散乱し、片付けるのに一日では足りないほどだった。
整理整頓が落ち着くと、寮主からの剣舞指南にいっそう時間が割かれるようになり、他の女官や見習いたちからの嫌がらせは止んだままで、那梨の日常は表向き平穏を取り戻したといってよかった。
ふと空を見上げれば強い陽射しが降り注ぐようになり、雨期はとっくに過ぎて夏の盛りに差し掛かっていた。
ようやっと陽が落ち始めた夕刻、剣舞の居残りを終え、束の間の休息時間に那梨は宿舎の中庭に面する縁側にひとり座って地面を眺めていた。土に小さな影が落ち、斜めに横切っていく。見あげると、夜鷹が獲物を探しに夕焼け空を飛んで行くところだった。
きょきょきょと騒ぐ鳴き声が消え去った頃、今度は空に豆粒ほどの影が浮かび、さわさわと葉を揺らす楠木の下に降り立った。那梨は雑穀を数粒撒きながらさりげなく雀に近寄り、足に括られた細い木筒を外して部屋に戻る。
時々と言っていたわりに、太子はほとんど毎日飛影を遣わしては小さな書簡を寄越した。この数日、通信文の中身は決まって吾恙無し汝如何、としか書かれておらず、那梨はこちらも無事であることを伝える意で隅の余白に吾亦恙無しと書き添えて戻すのみだった。しかし、今しがた開いた紙片には初めて見る文言が記されていた。
――礼女出宮西門日没。
単語を羅列しただけの短文。一読して那梨は弾かれたかのように戸を開けた。陽はだいぶ落ちて、建物の屋根からてっぺんを見せるだけになっている。
間に合ってほしいと願いながら駆けた那梨が西門で見つけたのは、枡形の広場に一人風呂敷を抱えて立ち、門を見あげる少女だった。
黄昏どきであっても那梨はその少女をすぐさま見定め名を呼んだ。
「朱貴」
呼びかけに応じて、少女は西門の前まで戻ってきた。
「那梨」
那梨は、女官が出ることを許される境界、門の閾の内側でつま先立ちになり、朱貴の手を取った。
「まあ。那梨ではありませんか。会えると思いませんでしたわ。挨拶する時間もなく追い出されましたから」
朱貴は選抜試験の日と同じ、橙と碧の上下を身に付けていた。
「教えてくださった方がいて」
「そうでしたの」
「会えてよかった。あのままではあんまりだもの」
那梨が力を込めて手を握ると朱貴は頷いた。
「ええ。でも」と、朱貴は足元に目を落とす。
「わたくしは監察部に留め置かれましたけど、春陽は刑部に移されましたから」
その先を朱貴は言わなかった。
「わたくしは春陽が従姉妹だと気づかずにいた自分の浅はかさを呪いますわ」
那梨はかぶりを振った。
「朱貴、あなたのせいではないわ」
これは王女が仕組んだ事件のはずだ。朱貴にどうこうできたとは思えない。
「本当にそう思ってくれているのは分かっていますわ。でも、監察部に留置されている間、あなたと里宇のことを思い出したのです。従姉妹だと知らなくても、わたくしが春陽のことをもっと深く知ろうとしていれば、主人と侍女という関係を超えられたはずではと」
朱貴は那梨の目を見据え、確信めいて言った。その瞳には一分の揺らぎもない。彼女は春陽に対してそう思わずにいられないのだ。女官になるために無理をおして宮に乗り込んだ顛末が、自らの意思と関係なく去ることだというのに。
「そうだとして朱貴、あなた自身の気持ちはどうなるの? 少しでも殿下の傍に居たいと願っていたのは」
朱貴の右眉がぴくりと動いた。
「わたくしは殿下を命の危険に晒しました。――ああ、那梨、あなたの言いたいことは分かります」
朱貴は口を開こうとした那梨のくちびるに人差し指を当ててきた。朱貴の指先は相変わらずひんやりとしている。
「わたくしが直接何かをしたわけではありません。でも、わたくしは自分が許せない。今のわたくしが殿下のおそばに侍ることは到底できません」
ふっと、朱貴はため息をもらした。
「今回のことで宗右相が父に怒り心頭だと小耳に挟みました。いずれ父に見つかって連れ戻され、宗家に嫁がされると思っていましたけど、きっと破談ですわね。これぞ身から出た錆。わたくしはこの点に関しては清々していますの」
那梨はどう返していいか分からなかったが、清々する話からは程遠く聞こえた。
「那梨、不満げですわね」
朱貴は微笑んだ。両頬に笑窪が浮かぶ。
「本当のことを言えば、おそばにいて痛感しました。殿下の目はこの風真国の政事に、いえ、もっと遠くに向けられている。わたくしなどあの方の目に映っていないのだと」
どう答えてもばつが悪くなりそうだった。那梨の頭の中で、下手な慰めにしかならない言葉ばかりが浮かんでは消えていく。
ただ、最後にこれだけは伝えなくてはという思いが一つ湧いてきた。
「朱貴。殿下もきっと、ご自分のせいであなたを危ない目に遭わせないようにと、そう思っているのには違いないと、わたしは思うわ」
朱貴は束の間目を見開いた後、細めた。
「ええ。そうね。ありがとう。でも、もう行きます。あとのことはあなたに頼みましたわ」
お達者で、と呟いた口の両端がきゅっとあがり、初めて会ったときの朱貴と同じ可愛らしい笑顔が浮かんだ。
時鐘が響く中、朱貴の背が薄暗闇へ去っていくのを見ていると追いすがりたくなる。でも、彼女の方が心細くて不安で仕方ないはずだと、那梨は堪えた。
朱貴はあとのことを託していったのだから。この宮で朱貴の分まで勤めないと──
そんなことを考えながら西宮の自室に戻ると、どうやって入ったのか、文机の上に雀がちょこんと陣取っていた。
「飛影」
「ちちっ」と鋭く鳴いた彼の足下では、端の丸まった紙切れが踏まれている。
「ごめんなさい、出しっぱなしだったわ」
不用心だったと反省しながら、紙を巻き直して筒に入れようとすると、雀は筆箱に寄ってつつき始めた。返事を促しているのだと気づき、那梨は再び手紙を広げて読む。太子はなるべく朱貴と関わりたくないような素振りだったのに、ちゃんと朱貴の様子に目配りしていて、那梨に挨拶の機会を知らせてくれたのだ。
「お礼を書かなくてはね」
那梨が筆を取り出すと、雀はそそくさと机の端に引っ込み毛繕いを始めた。
文通が始まってこのかた、同じ文面しか書いていない。那梨はしばし考えてから筆で書き入れ、墨を乾かしてから筒に入れて雀に持たせ、戸を開けた。
すっかり暗くなった空に彼が飛び去っていくのを眺めていると、中庭に寮主が現れた。
「寮主さま」
那梨をめがけて足を向ける寮主に、近寄って頭を下げた。
「少々話がある」
那梨は部屋に招き入れ上座を譲った。寮主は敷物の上に腰を下ろすや否や、用件を切り出した。
「春陽の沙汰が下された」
那梨は居住まいを正して耳を澄ませる。
「近々、南の石浪島へ流罪となる」
「それでは、命は助かったのですね」
那梨は言葉を被せる勢いで確かめたが、寮主の口から出たのは厳しい現実だった。
「配流の道のりは長く、ろくな旅支度もない。道中、様々な手の者が暗殺に動いてもおかしくないうえに、運良く島に辿り着いても粗末な暮らしでの苦役が待っている。長くは持つまい。未遂とはいえ、死を賜ってもおかしくない重罪だ」
ぬか喜びが落胆に変わる。一思いに死罪となるのとどちらがましなのか。考えるだけで恐ろしくなった。
「正直なところ、わしも参っておる。委細は、ことが起こる直前に知らされたゆえな。嘉眞殿にも事情があったと思うが、舞楽寮内の調査としか聞いておらず、まさかここまで重大なこととは」
寮主はしばし天井を仰ぎ、呻き声とともに正面に戻ってきた。
「過ぎたことは仕方があるまい。毎夏の炎国使節歓待の宴は由々しき国事じゃ。できれば借りは作りたくなかったが、こうなっては背に腹は代えられない。さきほど、女官長さまを訪ねて、剣舞の人事につき神殿からの派遣を奏上頂けるようお願いした」
嫌々な口調に、那梨は前から引っかかっていたことを持ち出した。
「前にいらした姉さま方を呼び戻すことは難しいのでしょうか」
寮主は口を閉じたままふごふごと顎を咀嚼していたが、諦めたように吐露した。
「不義密通の幇助の嫌疑だ。たやすく戻ってはこられまい」
寮主の口調は、言外に濡れ衣だという叫びを隠しきれていない。西宮に属する女官は皆、宮中に勤める間、国ひいては玉上陛下に忠誠を誓いその身の潔白を保つよう厳しく律されている。不義密通は不名誉な大罪だ。
「美璃姉さまに限ってそんなこと……考えられません」
「わしも詳らかには知らされておらぬが、いっときは、男との不義密通の嫌疑までかけられたのを、王妃陛下のはからいで軽い沙汰で済んだと聞いておる」
那梨の頭の中に、薬壺を携えてきたあの晩の美璃の言葉がこだまする。
──私はね、舞の神様と結婚しているつもりでいるの。
美璃がどうして姿を消したのか、真実は分からない。
里宇と嘉眞が、これも王女の陰謀だったと見立てていたのを聞いた記憶もあるけれど、本当のところは分からない。
王女に対峙して問いただせば明らかになるのかもしれない。
奥庭で、太子の面前で思ったことが蘇る。
──この方の力になりたい。
太子を助けることが、王女を挫くことになるはず。
そして、寮主もまた王女を憎み、太子を助ける人なのだ。
那梨は一呼吸おいた。
「寮主さま、わたしにできることなら何でもお命じください」
那梨は床に両手をついて寮主の言葉を待つ。
「それならば剣舞を成功させよ。炎国との間で休戦の申合せが取り交わされて以来、夏の使節派遣は外交上の慣例行事となっておる。その中でも剣舞は、彼我の信頼を表す重要な儀式だ」
「拝命つかまります」
床まで額をつけた那梨に対して寮主は最後につけ加えた。
「神殿の巫女と仲良くせよとは言わぬ。どうか、うまくやっておくれ」




