(十八)黒幕
道すがら出くわした見習い女官を半ば脅すようにして場所を聞き出し、那梨が現場に辿りついたとき、そこは雪降る夜に沈む街のように静まり返っていた。
夏の盛りを迎えるというのに、凍てついたかのように皆一様に固まっている。
太子の起居する正殿の隣に立つ殿舎。その中にある女官らが詰める控えの間。食欲をそそる魚の焼き物の匂いと羹の湯気が立つ膳台越しに対峙する二人の女が、鋭く睨み合っていた。
「春陽、聞こえませんでした?」
一方の女、朱貴が口を開く。
「わたくし昨晩から具合が悪いので、今日はあなたに代わりを務めてほしいとお願いしましたわ」
朱貴の発する声に震えが混じっていく。
「この御膳を味見してくれなければ。どうか、お願いだから」
向かい合うもう一人の女、春陽は、何も答えず根が生えたように止まったまま朱貴を見下ろしていた。その場に居合わせた者は、二人の女に侍る見習い女官も、東宮殿付きの女官も身じろぎ一つしない。
誰かが唾を飲み込めばその音が伝わってくるに違いない静寂は、その二人の女の声によって打ち破られた。
「春陽やめて!」
「針を出して!」
那梨と朱貴の叫び声が重なったと同時に、春陽が部屋から姿を消した。
目にもとまらぬ速さで飛び出したのだと理解した瞬間、向こうから金属の弾け飛ぶ音が二度響き渡った。
その矢先、怒号と悲鳴が沸き起こり、天地がひっくり返ったかのような騒ぎが広がった。正殿から宦官や女官が雪崩のように塊になって逃げ出してくるのが見える。
間もなく、逃げ惑う人の流れを掻き分けて男が現れ、首根を押さえた女を那梨のいる控えの間に放り入れた。
いつか東宮殿の庭園で見た太子の護衛だった。
「後宮の監察部を呼び寄せている。ここに捕らえておけ。俺は殿舎の周りを見張りで囲う」
素早く指示を出して駆け去る。命じられた宦官は膳台の前の朱貴を縄に掛け始めた。
「待って、なぜ朱貴を捕まえるの?」
那梨が異議を挟むと、宦官は振り返って眉間に皺を寄せた。
「なんだ、おまえは。検食の餐に疑義あらば検食職当人を捕らえるのは規則どおりの処理だ」
「見慣れない女官だな。一緒に捕まえておけ」
宦官三人に取り囲まれ、抵抗する隙もなく那梨は拘束された。
「待って、誤解です。離して」
「黙れ。痛い目に遭いたくなければ、釈明は取り調べの場で申せ」
筆頭らしき宦官は、女官たちに餐を保全するよう命じ、自らは背を向け戸の前に立って外を警戒し始めた。
「那梨、大丈夫ですわ。あなたのことは、わけを話せば分かってもらえます」
後ろから朱貴の囁き声がした。
「朱貴、あなた、どうして」
朱貴は那梨の問いには答えず、足首を縛られたまま膝を器用に使って春陽の前ににじり寄った。
太子の護衛に放り投げられた女、後ろ手に縛られた春陽は部屋の隅に正座し項垂れていた。膝と足首にも縛めを受けている。顔周りの髪はほつれ、胸は小刻みに上下し、横から覗く白い頬には赤い筋が浮かんで薄っすらと血が滲んでいる。
「春陽。わたくしとの約束を忘れたの? 針を使ってほしくはなかったですわ」
春陽は応えない。
「昔、お父さまがあなたにやらせているのを知って問い詰めたら、わたくしの護衛のためだと言いました。そんなこと、あなたにやらせる仕事ではない。やめてもらいたかったのよ」
なおも春陽は押し黙っている。
「わたくしたち、本当は従姉妹でしたのね」
春陽が顔をあげた。朱貴を睨む顔は、いつになく仮面をつけたように無表情だった。
「わたくしが憎いのなら、わたくしを狙えばいいのです。なぜ太子殿下まで狙ったの。わたくしが慕っているからといって殿下まで巻き込む必要はなかったじゃありませんか!」
春陽は朱貴から目線を外し、吐息をもらした。
「わたしは始めから東宮を弑すつもりでした。こうすることがこの国には必要だと、自分で考えてやったことです。あなたのことは関係ありません」
朱貴のくちびるがわななき、顔が青ざめていく。春陽は日頃の口数からは想像もつかない饒舌ぶりで言い募った。
「わざわざ相思子を西宮に持ち込んだのに邪魔されるとは。悔むならそのことです」
「相思子……、遅効性の毒草!」
呆然としていた朱貴の口から呻き声が漏れた。
思わず那梨も口を滑らす。
「それじゃ、あの晩、好都合だと言っていたのは――」
太子を弑すついでに朱貴も殺せるという意味だったのか。恐ろしい事実に、那梨はその先の言葉を失った。
「あなたが間諜でしたか、楊那梨」
春陽の視線を受け止め、那梨は背筋が凍った。生まれて初めて目撃したというのに、彼女の両まなこに篭るものが殺気だと直感する。春陽が続けて何かを言おうとしたとき、戸が開いた。
「監察部だ」
先頭に立つ目つきの鋭い女官が囚人を睥睨する間、他の女官が足枷だけを解いて回った。
「取り調べのため連行する」
監察部が踏み込んでくるや否や元の仮面顔に戻った春陽は、抗わずに連れられて行き、朱貴、那梨が続いて廊下に出された。
東宮殿の正殿前は一寸前と打って変わって人影がなく、がらんとして虚しさに満ちている。
「待て」と前から男の声がして、監察女官が足を止めた。
行く手の曲がり角に、太子と似た背格好の男が立っている。
「その子は違う。放してくれ」
太子の護衛の一声で那梨は解放された。
那梨が全身の縄を解かれている間に、春陽と朱貴は引き立てられて歩き始め、一度も振り向かず消えていってしまった。
縛めを解き終えた監察女官が立ち去った後、那梨は護衛がまだその場に残っていたことに気づき慌てて頭を下げた。
「お助け下さりありがとうございました。楊那梨と申します」
「飛樟だ」
彼は目を細めた。
「礼を言うならこっちの方だ。あなたが得た情報をもとに嘉眞さまが事前に教えてくれたからな」
「そう、でしたか」
黄嘉眞。彼は王妃陛下の命で、太子を守るのが役目なのだ。だから、那梨の敵でも味方でもないということなんだろう。
黙り込んだ那梨を見て、飛樟は右手の人差し指で頬を掻いた。
「そうだな、あなたの助けがなかったら、あの針を防ぎきれたかどうか。だからありがたかった」
「いえ」
那梨は俯いた。
――自らの記憶の曖昧さに言い訳をしたこと、人を見抜く目がなかったこと、見たくない現実に直面する勇気を持てなかったこと、友を危険に晒したこと、危機を止める力を持ち合わせていなかったこと――挙げれば切りがないほどのあらゆる悔いが那梨の中で蠢いている。
礼を言われるとかえって居た堪れない。
「それとな、悪いけど、もうちょっと付き合ってくれ」
そう言って飛樟が先導したのは、那梨も知る庭園だった。
東宮殿の奥に深々と構える庭の中では、崖から吹き降りてくる夕風が、午間の太陽に蒸されて立ち上る草いきれの残滓を追い払っていた。波立つ草をかき分けながら緩やかに傾ぐ丘のふもとに近づくと、水辺の四阿に人影がある。
四阿の柱から伸びる蔓には、菱形の弁を四方に広げた黄色い花が零れ落ちんばかりに幾つも咲き誇り、屋根の上には瑠璃色の毛をまとう小鳥が羽を休めがてら、細長いくちばしで花柱をつついている。
夕暮れの薄明かりの下、逆光の陰に隠れてよく見えないが、柱の脇に佇んでいるのはまさしく太子だった。
那梨は堪らず駆け寄り、彼の前に平伏した。
「殿下、春陽は、朱貴は、どうなるのですか」
太子が振り向いた。
「顔をあげてくれ」
請われて顔を見上げると、太子の目元には疲れが色濃く浮かんでいた。
「検食の方は、関与がなかったと判明すれば放免されるのが通例だが、今回は多少の罰を避けられないだろう」
「どうしてですか」
「下手人である景春陽が彼女の部下であり、身内でもある」
下手人、という穏やかならぬ響きに那梨は身を固くした。
「では、春陽の方は」
太子は首を振った。
「極刑もあり得る」
その可能性があるかもしれないと予想はしていても、実際に口に出されれば、胃酸が逆さにこみあげ苦しさが喉に滲んできた。
「彼女にも事情があったのです、殿下」
「嘉眞から聞いている」
太子は力強く頷いた。艶のある黒々とした前髪が一房、はらりと額に垂れて陰影を落とす。先ほどの騒ぎで乱れたのかもしれない。短い前髪越しに送られる目線に那梨は目を奪われる。
「嬰明が巧く唆したようだし、未遂に終わったのだから酌量の余地はあるかもしれない。けれど、狙ったのが俺でそれを母上が把握している以上、俺の一存で手加減はできない」
嬰明王女殿下。最近ことあるごとに影がちらつく王女の名を太子が口にした。
「この一件は東宮殿の預かり知らないところで繰り広げられていた嬰明と母上の戦いだったんだ。俺はそれをどうにかするだけの力を持っていない。太子の座に就いても、俺の力などちっぽけだ」
太子は握りしめていた右の拳を、自らの太ももに力なく叩きつけて被りを振った。
その自嘲の色を含んだ弱音に那梨は驚いた。これまで太子にまみえたときの、優しげで少しからかうような余裕のある物言いからは想像がつかない声だった。
やや俯く彼の顔から覗く瞳は、親鳥の庇護を求める雛のようにも見える。
──一国の太子であるお方が、己の無力を嘆く。畏れ多いことだと思いながらも、那梨は自分の今の気持ちに似通うものをその横顔から見出していた。
「……いったい、嬰明王女殿下とはどのようなお方なのでしょうか」
「一言でいえば苛烈だ」
太子は縁台に腰かけた。
「嬰明は好戦的な人だ。軍拡論者でもある。その鮮やかで切れ味の良い言葉に惹かれる崇拝者も多い。むろん国を存続させるために軍や戦は避けられない。それを否定はしない。だが、いたずらに憎しみを煽り、争いを巻き起こすやり方はどうなんだ」
太子は苦々しげに口を歪ませた。
「景春陽もおおかた、嬰明から出自を知らされ、いつの間にか崇拝者になっていたのだと俺は考えている。彼女はけして嬰明の名を割らないだろうが」
──東宮を弑すことはこの国に必要だと自分で考えてやったこと。
那梨は春陽の頑なな言葉を思い出した。春陽は不遇な境遇に付け込まれ利用されたというのか。
──非道い。
那梨はこのときになって初めて嬰明王女に対してはっきりと怒りを覚えた。今まで言葉にならなかった感情に名が与えられ、輪郭が浮かび上がってくる。
「俺は王になりたいわけじゃない。国王の御座は重過ぎる。できるなら誰かにくれてやりたいくらいだ。それでも東宮から引かないのは嬰明ではだめだと思うから、それだけなんだ」
太子の言葉には積み重なった苦悩が滲み出ている。これは心の底からの本音なのだ、と那梨は受け止めた。
先ほど自覚したばかりの王女に対する怒りは徐々に膨らんでいき、王女を慕う女官たちに虐められても、倉庫に閉じ込められても、どこかもやもやと掴みどころのなかった憤りが形を取り始める。
「わたしも、王女殿下のやり方には賛同できません」
那梨が厳かな心持ちで静かに述べると、太子の険しく寄せられた眉間が緩んだ。
「そうだな」
太子は手振りで那梨を向かいの縁台に座るよう示した。
那梨が腰をあげ、座して向かい合うと、太子が問うた。
「きみはこれからも舞楽寮にいたいと思うか?」
唐突な質問の意図をはかりかねていると、太子は独白するかのように呟いた。
「さっき、この庭を見ながら、きみを舞楽寮に置いたことを後悔していた」
「――それは、わたしが殿下のご期待にお応えできていないからでしょうか。そうであれば」
「すまない、俺の言い方が悪かった」と太子はすぐさま訂正した。
「俺の浅慮で舞楽寮に置いたが、そこでいろいろ怖い思いをさせたんじゃないか」
怖い思いとは、倉庫に閉じ込められたことを言っているのか。嘉眞は話の流れであの一件についても太子に話したのかもしれない。
「もう、こんな宮からは出たいと思わないか」
那梨は、太子の言わんとすることをやっと吞み込めた。
選抜試験を受ける前を思い出す。宮中は危ないところだというのは聞いていた。父の貞元も危ないからと散々言って引き留めていた。それでもやりたいと行動に起こしたのは那梨だ。
「いえ、これは自分で望んだことです。わたしは舞子を続けます」
「そうか。きみは本当に舞が好きなんだな」
柔らかい響きの中にからかう調子があった。
子どもじみた言動に見えたかもしれない。
「あの、舞の一つ覚えで、他のことは疎かで……お恥ずかしいばかりです」
段々と消え入りそうな小さな声になってしまい、那梨は口元を袖で隠した。
「いや、いいんだ、そのままで」
太子は拳にした手で口元を覆っている。笑みを堪えている様子に、那梨の気恥ずかしさは増してくる。那梨は、熱くなる頬に手を当ててどうにか誤魔化そうとした。
「話は戻るけど、今回のことで嬰明がきみの存在に目を付ける可能性がある」
そう言って、太子は四阿の柱の外に立っていた飛樟を呼び寄せた。
この場にいるのは太子、飛樟、自分の三人だけと思い込んでいた那梨は、飛樟の背中からだしぬけに人影が分かれ出たのを見て肝を冷やした。
那梨より少しだけ背丈が高い男で、頭上では伸ばしっぱなしの黒髪がちらこちらに跳ね回っている。鼻、口、眉がどれも小さくまとまっている中、ぱちくりとした丸い目だけが目立っており、その瞳は瑞々しく潤んで、露に濡れた栃の実を思わせた。
「飛影」
さらに那梨が度肝を抜かれたのは、飛樟が男の頭を手のひらで軽く叩いた後だった。飛影と呼ばれた男は、顔も身体つきも見分けられないほど翳が濃くなり、飛樟が手に持つ松明の灯りに照らされて影絵のようになった。輪郭がぼやけ、縮んで小さな黒塊に形を変えてふよふよと空中を飛んだかと思えば、ちぃと鳴き声がする。
気づけば、飛樟の肩の上で、雀が一羽首を傾げていた。
「あのときの!」
那梨が思わず声をあげると、雀は目を閉じてくちばしを縦に振った。
「これは炎国の奥地、少数民族に伝わる呪術だ」
太子が人差し指で雀の頭をさする。
「炎国で拾ってきたんだ。飛影って呼んでやってほしい。他の仕事も命じているから常に付けてあげられないけど、こいつに時々様子を見させてくれ」
「もしかして、あの倉庫でもこの子が見てくれていたのですか?」
那梨が問うと、庭園に来てからずっと脇で静かに控えていた飛樟が口を開いた。
「前に永璋がお詫びだとか言ってあげた玉飾りかなんかを律儀に身に付けてただろ? 飛影はその玉の気配を感じ取れる。普段と違う方角にずっといるんで気になったんだとか」
ちぃちぃと相槌が入る。雀はちょっと飛びあがって羽ばたき、飛樟の肩に着地した。
「万が一で渡しといてよかったよ」
太子は笑う。那梨は今も胸紐から下げている帯び玉を衣の上から押さえた。
「なんとお礼を申しあげたらよいか……」
「ありがた迷惑だろうけど、きみはもう東宮殿の札付きになってしまっている。事情を明かすのが遅くなって申し訳ないけど、これからは今までよりも状況を把握させてもらう面があるからここで了承を取りたかった」
──構わないか。
神妙な面持ちでそう尋ねる太子の頬は、やはり記憶の中の顔立ちよりも少しやつれている。
了承を取る必要などないと那梨は思った。何を把握するのかはよく分からないが、それで少しでも王女に対抗する太子の助けになれるなら。
──この方の力になりたい。
「殿下の仰せのままに」
那梨はその場に叩頭した。




