(十七)刺客
午後から嘉眞の訓練を実施するとの通達があったのは、そろそろ長雨の季節も終わるかという頃の曇りの日だった。
広場に向かうと春陽の姿はなく、嘉眞一人が立っていた。一人ずつ時間を分けたのかもしれない。嘉眞に正面切って理由を聞いてもまたはぐらかされるだろう。那梨は、そこには触れずにお辞儀した。
「ご無沙汰だから、下馴らしからだ」
嘉眞は、手始めにゆっくり広場を歩くよう言い付け、徐々に速度をあげるよう指示を出す。
軽く身体を鍛え、素振りを一通り終えた後、嘉眞は模造の剣を構えた。那梨も上段に構え相対すると、生ぬるい風が頬を撫ぜた。
嘉眞より先に足を出して振りかぶる。迎えた剣はやはり、体の芯まで痺れる重い一撃だった。交差した刃の向こうでは、嘉眞の目が那梨に訴えかけている。
「やめ」
嘉眞が腕を伸ばして合図する。那梨はお辞儀をして、姿勢を正して嘉眞が言葉を発するのを待った。
「人払いをしておいた。何を聞かれるかは分かっているな?」
「はい」
「わたしは待ったぞ。答えは出たか」
剣先を地面に突き立て、両手を柄に乗せて仁王立ちする嘉眞は、短身なのにこちらを圧倒する威厳をまとっている。
「何も分かりませんでした」
那梨は下くちびるを噛む。
「でも、春陽ではないと信じたいのです、嘉眞さま」
いつもの快活な笑いが返ってくるかと思ったが、嘉眞は厳しい顔をしたままだった。
「那梨殿に、とある話をしよう」
嘉眞が地面に胡坐をかいて座ったので、那梨も両膝を着いてしゃがみこんだ。
「そうだな。まず、礼朱貴の母君は中央貴族の中でも由緒ある家門の直系の姫君だ。父君の礼義和は入婿ということになる。」
そう言って嘉眞は、那梨の知らない礼家の事情を話し始めた。
――礼朱貴の母の妹、つまり叔母にあたる女性は、年頃になると東宮だった今上陛下の妃嬪として輿入れの話が本決まりとなり、入宮の準備を進めていた。そこにけちを付けたのは当時の東宮妃で、その叔母君が既に別の家の子息と浅からぬ関係になっているとの話がまことしやかに宮に広がり、看過できない情勢だったという。後宮内で種々調べが行われた結果、ついぞ輿入れが叶わず、一地方領主の景家に嫁ぐことになった。
「もう分かるな。春陽はその叔母君の娘だ」
「だから、あの二人が従姉妹だと」
那梨の呟きに、嘉眞は首肯した。
「この話には続きがある」
――景家に嫁いだ叔母君は失意の中で子を身ごもり産んだが、今度は景家が政略に巻き込まれ夫君が亡くなってしまった。母娘は生家に戻るも、母の方は既に心を喪っていた。礼家の当主は醜聞を恐れ、義妹をこの世に居ない者として扱い、その娘は礼家の令嬢、礼朱貴付きの侍女として育てられる。
「して、ここまで聞けば、礼義和が世間体を気にして一人の娘を冷遇した悲劇に聞こえよう」
「さらに続きがあると?」
那梨は己の想像を超える展開に、目眩がしてきた。
「礼義和が奸物なのは、地方にて騎馬の技で名を上げた父譲りの俊敏さに目を付け、春陽を水面下で刺客に仕立てあげようとしたところだ」
「刺客」
那梨は、普段聞く機会のないその言葉をおうむ返しに口にした。
「そうだ。彼女は未熟ながら針を暗器として扱う術を心得ている」
針。
那梨の体の中で、けたたましい警鐘が鳴り始めた。
──あなたは何でも信じすぎる。
春陽の言葉が脳裏を過ぎる。同時に、嘉眞は信用ならないという彼女の言葉も頭を掠めた。
そもそも、今、那梨の目と鼻の先で、落ち着き払って突拍子もない筋書きを累々と語るこの人は何者なのか。
那梨は、対峙する嘉眞の口が裂け、異形の顔付きに様変わりしたかのような錯覚を抱いた。恐怖を覚えるというのに、嘉眞の突き出さんばかりの大きな目玉から目を離せない。
那梨は嘉眞と目を合わせたまま、震えが走りそうな足に力を入れて、そろそろと起きあがった。
「あなたは一体何者なのです」
那梨が問い、息を詰めていると、嘉眞は瞠目した。口が開いていき、つばを飛ばして笑い始める。徐々に高くなる笑声が周りの建物に反響した。
「おお、すまない、怖がらせてしまったな」
呆気に取られる那梨をよそに、嘉眞は剣を突いて立ちあがり、胸を張って仁王立ちになった。口の端に自信に満ちた笑みを浮かべている。
「わたしは黄嘉眞。王妃陛下の配下だ」
初めて嘉眞は身の上を名乗った。
「景春陽の動きを調べるよう命じられてここにいる」
「……それでは、最初から春陽を疑って舞楽寮に?」
「そうだ。だが、それも今日で最後だな。景春陽は東宮殿に移されたゆえ」
今日春陽がいなかったのは異動したからなのか、と那梨が合点していると、嘉眞が那梨の背後に目をやった。二人だけが起立する広場に、土を蹴る音が近づく。
「嘉眞さま」と鋭い声がして、甲冑を付けた兵が駆け込んできて膝をついた。
「申せ」
「太子殿下の餐を弄る者がいたとの報告がありました」
兵は苦しげに胸を上下している。
「東宮殿の係の者ではないとのこと」
「拙速だな」
嘉眞は兵を下がらせると那梨に寄ってきて告げた。
「さて、わたしは王妃陛下の意のもとに、太子殿下さえ守れれば、景春陽が罪を犯そうが毒味係の礼朱貴が命絶えようが構わない」
嘉眞の平坦な声からは、痛いほど伝わってきた。この人は本当に何とも思っていないということが。しかし、嘉眞は続けて言った。
「だが、那梨殿、あなたは違うのではないか」
那梨は嘉眞の言葉を背に広場を飛び出した。




