その9
出鼻をくじかれたフェリックスは、また椅子に座り直して彼らに体を向けた。どうやらダンスパーティーで殴り合ったらしく顔が腫れて痣が痛々しい。二人は悪評高い警衛隊長を前に身を硬くした。
事情聴取によれば、階級は下士官と少尉、ダンスパーティーで誘った女性がたまたま一緒だったという。部隊では部下と上官の関係でもプライベートとなれば譲れないとのことだ。
「俺が誘ったんだぞ!!」
「なに言ってんだ!! 俺が先だろ!!」
「交代で踊ったらいいじゃねえか」
マシューのもっともな提案に、いがみ合う二人が同時に噛みついた。
「「それじゃ意味がありません!!」」
「どういうことだ」
フェリックスが訊くと、下士官は切れた口の端を押えながら説明する。
「このパーティーで最初に踊った相手と恋が叶う言い伝えがあるんです」
「お、その話聞いたことがあるぞ」
マシューが思い出してぽんと手を叩いた。今まで興味がなく参加しなかったフェリックスは初耳だ。
「なのに、こいつがいきなり邪魔をして!!」
「なんだと!!」
怒りが再燃して取っ組み合いを始める若者を、マシューが太い腕で引き放す。そんななか、フェリックスはミシェルのことを考えていた。
つまり、この言い伝え通りならミシェルは恋をしているということになる。そして相手はフェリックスで、願いを叶えるため誰とも踊らず、来ないかもしれない彼をひたすら待っているのだ。行きついた結論にフェリックスは大いに困惑した。ミシェルは幼い頃からそばにいた娘みたいな存在である。そして忘れてはならないのは犬であるということ。行けばミシェルに残酷な希望を与えるだけなのではないか。
《ミシェルは今しかないんですよ》
モニカの台詞が耳元で蘇り、フェリックスは腕時計を見た。今から行っても中断された広場には恐らく誰も残ってはいない。
たいちょーさん!!
屈託のない笑顔が複雑な感情を一掃する。これまでミシェルは見返りを求めず純粋な気持ちで尽くしてくれた。そのひたむきな想いに少しでも応えてやれるのは今しかない。
激しく降り出した雨に人々は散り散りとなった。望みが叶った男女は会場を去っていくが、店先で雨宿りする者も少なからずいる。ミシェルとモニカ、そしてクリスも軒下で小降りになるのを待っていた。
ミシェルの表情が暗いのは雨のせいだけではない。あんなに敏感だった雨の匂いに気付けなかった。人間の生活に慣れたから? 賑やかな雰囲気に気を取られたから? いづれも違うと思った。以前のように嗅覚も聴覚も人間並に衰えて、否が応でも時間が迫っているのを認識させられる。
冷たい雨粒が足元を濡らすたびに、ミシェルは捨てられた仔犬の記憶が蘇る。護ってくれる親もなく空腹で街の片隅で震えていた。寒くて寂しくて心細かったつらい思い出。
「ミシェル、大丈夫?」
寂しさに押し潰されそうなミシェルを心配してモニカが声を掛けた。おもむろに振り向いたミシェルの瞳は潤んでいる。
「ドレス、汚してごめんなさい」
「いいのよ。元々あげるつもりだったから」
「小降りになったから帰るかい?」
クリスの申し出に、「もう少しだけ待ってます」とミシェルは小さく笑った。雨が上がるのを待っているのか、それとも別の何かなのか。モニカに邪魔されたりミシェルが浮かない顔をしたりと、何度も踊るチャンスはあったのにとうとう生かせなかった。
それぞれの想いが交錯するなか、雨がやみ辺りに靄が立ちこめてた。やがて、こちらへ走ってくる人影に三人は目を見張った。傘を差さずに来たので黒髪の先から雫がしたたり落ちている。
たいちょーさんが来てくれた!!
あの日と同じだった。
自分の存在が消されそうになった時にフェリックスが手を差し伸べた。彼に出会わなかったら今この場にいない。どんな感情でもいい、目の前にいる人物がミシェルのすべてだった。
ミシェルは、嬉しさのあまり涙がこみ上げる。「よかったね」と耳元で囁くモニカに何度も頷いた。フェリックスはミシェルの前にやってくるとそっと手を差し出す。
「私と踊ってくれるか?」
「はい!!」
重ねたミシェルの手を握って引き寄せた。音楽も流れず派手な演出も雨で台無しになった広場で二人は踊り始める。軽やかにステップを踏むミシェルとリードするフェリックス、一緒に練習したから息もぴったりだ。まるで映画のワンシーンみたいな光景に周りにいた者達から感嘆が漏れる。
「わたし達も踊りましょう!!」
モニカがクリス腕を引っ張って促すと、二人の間に割りこめないと悟った彼は自棄ぎみで応じた。ぬかるんだ地面を気にせず踊る二組に、軒下から一人、また一人と広場へ集まってくる。その様子にテントで待機していた楽団も音楽を奏でて、いつの間にかささやかなダンスパーティーとなり皆楽しそうに踊り明かす。
やがて、スローな曲調に代わってチークダンスタイムとなり、ペアの男女が各々寄り添った。フェリックスはミシェルの腰を抱き寄せると、もう片方の手を驚く彼女の指を絡める。身を硬くする彼女の耳に、軍服の胸を通して低い声が聞こえた。
「遅くなってすまなかったな」
「ううん、こうして来てくれただけで幸せです」
すると、ミシェルがにっこり笑った。
「どうした?」
「そういえば、たいちょーさんの名前は『幸福』でしたね」
本来の意味とは無縁な生活を送っているのですっかり忘れていた。ミシェルの幸せは一緒に踊れるだけでいいというささやかなものだが、自分にとって幸せとはなんだろうか。
見上げたミシェルと目が合った。濡れたせいでセットした髪は崩れて化粧は落ちつつある。それでも彼女の美しさは少しもくすまない。
「モニカさんがしてくれました」
ほのかに光る雪洞の下で、ミシェルの顔が真っ赤に染まった。
「お仕事、忙しかったんじゃないですか?」
「優秀な部下に任せてきた」
「マシューさん?」
「ああ」
今頃、マシューが若い軍人達を上手く宥めているに違いない。顔はいかつく大柄だが不思議と男には人気がある。彼も独身なので参加する権利はあるが、年齢制限に引っ掛かると苦笑いしたのだ。
ミシェルちゃん、嬉しそうだな……。
第三者からは恋人同士に見える光景を、クリスは複雑な思いで眺めている。ミシェルが上官を選んだのは血縁の情で恋愛ではない、そう言い切るには無理があった。二人は赤の他人、以前リゼットが指摘した考えが頭をよぎる。
「なあに、わたしじゃ不満?」
ミシェルから視線を外さないクリスに、モニカは気を逸らそうとわざと口を尖らせた。
「別にそういうことじゃないけど」
「気にすることないわ。わたしなんか毎年参加しているけどご覧の通りよ」
「まあ、来年もあるし」
「そうそう、来年こそはね」
お互い小さく笑って曲に合わせて体を揺らす。
チークダンスが終わりダンスパーティーは幕を閉じた。フェリックスはとうとう言い伝えについて触れなかった。口にすれば大切なものが壊れそうな気がしたからだ。
「ミシェル、また来年も参加しよう」
ミシェルは即答しなかった。「そうですね」と無理に作った笑顔と空いた間がフェリックスを不安にさせる。




