その6
リゼットとの突然の別れで、ミシェルは気が動転してバイトもうわの空だった。
「ほどほどにしないと、ふにゃふにゃになっちゃうわよ」
モニカの声で我に返ると、客のパグをいつまでもマッサージしていた。人間でいうと七十歳に近い老犬は、お陰ですっかりご機嫌である。飼い主は謝るミシェルに笑顔で「いいのよ」と言ってくれた。立ち上がって仕事に戻るミシェルを、パグは名残惜しそうに見つめている。
「今度はなに?」
「え?」
「あなたがぼうっとしている時は何かしら悩みがあるのよねえ」
モニカの鋭い指摘に、ミシェルは洗っていた皿を落としそうになった。「そ、そうですか?」ととぼけてみても泳ぐ目で図星である。
客が引けたところで、モニカがカウンターの椅子をポンポンと叩いて座るよう促した。ミシェルが従うと、カップケーキとコーヒーを差し出す。
カップケーキの甘さに癒されて、コーヒーのほろ苦さで思いが一気に溢れ出した。リゼットが出ていった事情を説明すると、モニカは「よかったじゃない」と歯に衣着せぬ一言だ。
一瞬フェリックスに向けられた悲しげな瞳、見てしまったミシェルは『よかった』では済まされない心情である。恋する気持ちを誰よりもわかるだけに胸が痛い。
「もう一度会って、ちゃんとお話しした方がいいと思うんです」
「やめておいた方がいいわよ。隊長さんの思いを尊重してあげなさい」
「たいちょーさんの思い?」
「そう。彼女よりあなたを選んだ気持ちを、ね」
フェリックスが自分を選んだ。
モニカの言葉がじわじわと心に沁みこむにつれて、思い上がりと分かっていてもミシェルの顔は真っ赤に染まった。
「わ、わ、わたし、そんなつもりじゃ……」
「隊長さんのこと、好きなんでしょう?」
ずばり言い当てられて狼狽える。まさかモニカにまでばれているとは思わなかったからだ。モニカはミシェルが人間でないことも知っている。
「ち、違います!! たいちょーさんはわたしの伯父さんです!!」
「あ、お客様よ。接客お願いね」
来店を知らせるドアのベルにモニカは席を立った。弁解しようにも接客に追われたミシェルは機会を失ったまま帰る羽目となった。
ミシェルが家に着くと、フェリックスはまだ帰宅していなかったので急いで夕食の準備に取り掛かった。一人いなくなっただけでリビングは静まり返り、野菜を刻む音だけが妙に響いた。
支度を終えた頃にフェリックスが帰ってくる。
「ただいま」
「お帰りなさい」
いつも交わしている挨拶が、なぜかミシェルは照れくさかった。
「顔が赤いな。熱があるんじゃないのか?」
ミシェルの額に触れようと彼の手が伸びる。
隊長さんのこと、好きなんでしょう?
モニカの声が耳元で蘇り、思わず後ずさり避けた。
「だ、大丈夫です!! いたって元気です!!」
「だったらいい。お前は頑張りすぎるからな」
フェリックスのやり場がない手が、今度はミシェルの頭を撫でた。リゼットがいないせいかやけに優しい気がする。
先にシャワーを浴びたいと言うので、その間テーブルに料理を並べておいた。つい癖で三人分のフォークを置いたところへ、彼が来てテーブルを一瞥すると軽く息を吐いた。
リゼットの父親と会ったことを口にするつもりはない。話したとしてもミシェルが心を痛めるだけだ。
「いただきます」と料理に手をつけるもどこか空気が重く味気ない。
「バイトはどうだ?」
フェリックスが空気を変えるように話し掛けた。
「マッサージを始めてみました。犬も結構体がこるんですよ」
「そうか」
「はい。よかったらたいちょーさんもしてみませんか?」
フェリックスの少し驚いた顔に、ミシェルは自分の発言を振り返って言葉足らずに慌てた。
「たいちょーさんが犬の代わりという意味じゃなくて、お仕事で疲れているんじゃないかなあって思っただけです!!」
「わかっている」
口角を上げるフェリックスにドキッとする。彼の仕草や存在に意識しまくりだ。実はリゼットが溢れる恋心の防波堤になっていたと今さら気づいても遅い。激しい動悸で体中が火照り、正面にいるフェリックスに気づかれるのではと本気で心配した。幸いにも彼はそのことに触れなかった。
食事が済んでしばらくの間、フェリックスとミシェルはソファーで寛いだ。今までリゼットが占領していたので感じなかった彼との距離を微妙に残してミシェルが腰を下ろす。
フェリックスは何やらカタログを眺めていた。ミシェルは覗き見した精悍な横顔にまたときめき、モニカが持たせてくれたカップケーキとコーヒーを忙しく交互に口へ運んでごまかした。
「今度の休み、久しぶりに遠出するか」
最近、リゼットに振り回されて二人きりで出掛けるのはご無沙汰だ。「忙しいならいい」とカタログに視線を落と彼に思わず身を乗り出す。
「明日、モニカさんに相談するので待っててください」
『にっこり笑う』とか『微笑む』などの仕草は一切ないが、ミシェルには不思議にもそう見えた。
再び沈黙が二人の間に流れて、今度はミシェルが口を開く。
「この間、マシューさんが『Dole cane』にやってきました」
「熊でも連れてきたか?」
「熊は店に入れませんよ?」
珍しく言った冗談が空振りしてフェリックスは憮然とした。
なんでも酒豪のくせに甘い物は大好物で、カップケーキを幾つも食べていったという。店の売り上げに貢献してくれたとモニカも笑顔だったらしい。
私には一言も言わなかったぞ。
プライベートを上官に報告する義務はない。ないにしても、ミシェルに関われば否が応でもフェリックスに繋がる。多分、マシューはどんな反応を示すか面白がっているのだろう。
「皆さんに差し入れしたいけど、男の人って甘い物は苦手だと聞きました」
「出された物はなんでも食う連中だ」
「じゃあ、モニカさんに頼んでおきます」
代金は支払うと申し出るフェリックスに、「宣伝になるから経費で落としてもらいます」とミシェルは笑った。いつの間にか専門用語が飛び出して、すっかり社会人となった彼女に尋ねる。
「楽しいか?」
「はい。いろいろなお客様と触れ合えるし、お喋りしたら勉強になります。人間ってすごいですね」
確かに言葉は人間だけが持っているコミュニケーションの手段だ。心を満たす道具でもあり、簡単に傷つける凶器でもある。
「前にも言ったが、いい人ばかりではない。なかには悪意のある人間だっている」
「そんな風には見えません」
「少し喋ったり接しただけでは分からない」
「たいちょーさんは分かるんですか?」
「相手の目を見れば大体わかる」
本当に様々な人間と出会った。何度も裏切られて傷つき、信じる心も失いかけたときにミシェルが現れた。純粋で真っ直ぐで、それでいて不安げに揺れる琥珀色の瞳に問う。
お前の目に私はどう映っているのだろうな。
「わたしはどうですか?」
一瞬ドキっとした。ミシェルも同じことを考えていたからだ。答えを待つ彼女を見つめ返す。
「お前はどうなんだ?」
「え?」
「私をどう思う?」
「わたしが先に質問しているのにずるいですよ」
答えは決まっているのに言えないミシェルが頬を膨らました。




