その2
ここにいるはずもないフェリックスを目の前にして、ミシェルは頭の中が真っ白になって立ち尽くした。帰りが遅いと言っていたのになぜ今時分いること、なぜこの場所が分かったのか。尋ねようにも震える唇から洩れるのはうわずった声。
「どうしてここに……?」
答えずこちらをまっすぐ見つめる彼に、今すぐ逃げ出したいが足が竦んで動けない。仏頂面だから分かりづらいが愉快な気分ではないことは確かだ。
怒ってる? 怒ってる……よね? どうしよう!!
「ミシェル、お客さん?」
異変に気づいたモニカが店の奥から現れると、突如現れた軍人に目を丸くした。黒髪にダークグリーンの鋭い瞳、噂の隊長と特徴がよく似ている。「もしかして隊長さん?」とモニカが訊くと、ミシェルは泳ぐ目で返事した。
「わあ!! 初めて生で見たけど噂通り素敵な人ね」
ミシェルの動揺をよそに、モニカは瞳を輝かせて自己紹介をした。
「初めまして、わたしはモニカ。ミシェルには大変お世話になってます」
「フェリックス・コールダーだ。こちらこそミシェルが世話になっている」
にこやかな笑顔のモニカとは対照的に、フェリックスは無表情で挨拶を交したのちミシェルを一瞥する。
どういうことか説明してもらおうか、そんな目だ。
「ミシェル、どうしたの?」
黙りこんだミシェルに問いかけると、機械仕掛けみたいに振り向いた彼女は顔面蒼白だった。これにはモニカも驚いてミシェルの両肩を掴んで覗きこむ。
「ちょっと大丈夫!?」
「へ、平気れす」
極度の緊張からかろれつが回っていない。普段の話しぶりだと、ミシェルはこの軍人に好意を抱いているみたいだが、どうも様子がおかしい。と、ここでモニカはあることに思い当たった。
「ひょっとして、バイトのことまだ話してなかったの!?」
図星だったらしく今にも泣きそうなミシェルに、モニカは額に手を当ててため息をつく。「これは自分の問題だから」と彼に事情を話そうとモニカの申し出を断り続けてこれだ。あれからバイトに来てくれるのでてっきり合意のうえだと思い込んでいた。
ミシェルは口から魂が抜けて呆然としているし、フェリックスは重苦しい雰囲気を漂わせている。
どうすりゃいいのよ!?
二人に挟まれたモニカが頭を抱えていると、入り口のチャイムが鳴った。誕生パーティーの来客達が賑やかな話し声と共にやってきたのだ。三人の微妙な空気とはお構いなしに、数人の中年女性が自慢の飼い犬と一緒に店内へ進み入る。
「少し早かったかしら?」
「いいえ。どうぞ」
「あの方、コールダー隊長よね? 彼もパーティーにお呼びしたの?」
モニカがテーブルに案内すると、女性の一人が声を潜めて訊いた。
「え? ああ、ミシェルを迎えに来たんです」
「帰った方がいいわよ」とモニカが促すと、ようやくミシェルが我に返りモニカとフェリックスを交互に見やった。これから忙しくなるのに放ってはおけないが、フェリックスとも話し合わなければならない。
ミシェルの気持ちを察したフェリックスがやっと重い口を開いた。
「何時に終わる?」
八時ごろとモニカが答えた。
「その時間にまた迎えに来る」
ドッグカフェに紺の軍服は目立ち過ぎるし、下手すればご婦人方と同行しかねない状況である。ミシェルは、帰っていくフェリックスの背中が今日ほど遠くに感じたことがなかった。
ドッグカフェをあとにしたフェリックスは気まずさが残った。実は遅くなる予定はなく定刻で帰宅したのである。そうすればミシェルが動くと読んでいたが、怯えきったあの顔を思い出すたびに胸が痛む。
フェリックスとしては、ミシェルに男の影がなかっただけで良しとしたかった。ところが、生き生きと働いている彼女を見て複雑な感情が押し寄せる。フェリックスのために家事をしていたのに、今度は他人のために尽くす。
モニカと楽しそうに語るミシェルが眩しく映り、会うのが躊躇われて仏頂面になってしまった。どこから見ても人間の女性だった姿に、もはや自分の役割に限界を感じたのだった。
パーティーが始まり、ミシェルは必要以上に働いた。そうしなければ、フェリックスの顔がちらついて仕方がなかったのだ。
お陰で好評のうちに終了してモニカはほっと胸を撫で下ろす。今後に繋げるためのイベントとして企画しただけに、嬉しくもあり満足するものであった。
いや、まだ安堵するのは早い。まだ大事な問題が残っている。当のミシェルは落ち着かない様子でモップ片手にうろうろしていた。
そして、さすが軍人というべきか八時ぴったりにフェリックスが現れた。ベージュのサマーセーターに紺のパンツというラフな格好でもさまになる。
「ちょうど片付けが終わったらところなの。こちらへどうぞ」
モニカは近くのテーブルを勧めて、三つのカップに紅茶を注いだ。リラックスして話し合えるのは、コーヒーより紅茶の方が合っていると思ったからである。
清々しい香りが立ちこめるなか、フェリックスは身を小さくしたミシェルと向かい合わせに座った。
「ミシェルを怒らないで。元はといえば、わたしが誘ったの」
モニカがそう切り出すと、フェリックスはカップから唇を離した。
「怒ってはいない」
「よかった。それで厚かましいお願いだけど、このままミシェルをここで働かせてほしい」
ミシェルは上目遣いでフェリックスの顔色を窺っている。以前、ミシェルが仕事にこだわっていたのを思い出した。自分は役に立っているのか、そんなことも言っていた。
「犬の気持ちも分かるから、お客さんも安心して来店できるって評判なの」
そりゃそうだろうな、犬なんだし。
心の声が聞こえたのか、ミシェルはばちっと合った目を慌てて逸らす。いいも何もフェリックスに彼女の意思を拒否する権限はない。
「私は構わん」
ミシェルが驚いて勢いよく顔を上げた。
「ほんと!? ありがとう!!」
ミシェルの代わりにモニカが大喜びして、まだ飲み終わっていないカップに紅茶を注ぐ。甘い物が得意そうに見えないのに、カップケーキも差し出すサービスぶりだ。
「いいんですか?」
恐る恐る確認するミシェルに頷いてみせる。
「ただし、この子は事情が複雑だ。あまりプライベートなことは訊かないでやってほしい」
「わかった。気を付けるわ」
「これからもよくしてやってくれ」
「ええ、もちろん」
フェリックスが立ち上がると、ミシェルは帰る支度をしに奥の部屋へ行った。見届ける彼を見て、モニカがクスリと笑った。
「ミシェルの話題はいつもあなたのことばかりなのよ。よっぽど好きなのね」
『好き』という単語が柄になくくすぐったくておもはゆい。表向きは親戚となっているが、彼女の眼にはどう映ったのだろうか。
勝手な解釈をしていなければいいが。
少し不安になる。
店を出た二人は、すっかり暗くなった夜道を歩いた。まだ気にしているのか、ミシェルは少し離れて後ろからついてくる。
「ミシェル」
「はい……」
「夕食の支度はしているのか?」
「……まだです」
「だったら、外で飯を食おう」
「でも……」
渋る彼女に切り札を出した。
「デザートはパフェだ」
「えっ!! パフェ!?」
大好物の名前に思わずミシェルに笑みがこぼれた。やはり彼女には笑顔が似合う。
やっと笑ったな。
こんな時間がいつまでも続けばいい、繋いだ手と手にそっと託すのだった。




