その3
絶体絶命のピンチに、ミシェルは犬耳を押えて慌てふためいた。
「どうしよう!! リゼットさんに見つかっちゃう!!」
「落ち着け。余計怪しまれるぞ」
勘の鋭いリゼットは、些細な感情の変化も見逃さない。仏頂面のフェリックスはともかく、目が泳ぎっ放しのミシェルは絶対ばれるだろう。
不可抗力とはいえ、ミシェルを刺激したのは自分なのだ。フェリックスは、首に掛けていたタオルを栗毛の頭に被せた。
「耳と顔を隠せ。目を合わせるな」と、まるで逃亡中の犯人扱いである。ちょうどその時、二人は背後に気配を感じた。振り向くと、ピンクのネグリジェを着たリゼットが仁王立ちしている。
「ちょっと、二人で何してんのよ?」
「何しようと私の勝手だ」
「ベ、別に疚しいことはありません」
顔は隠しても動揺で口ごもり、リゼットにじろりと睨まれた。彼が奥の方へ顎をしゃくると、ミシェルは逃げるようにリビングを飛び出した。
「怪しいわね」
リゼットは、すかさずフェリックスにぴたりと身を寄せる。薄い生地を通して胸の膨らみを感じたが、彼が動じなかったのはミシェルに比べてボリュームに乏しかったからだ。
フェリックスは小さく息を吐いて、リゼットに体を向けた。濡れた前髪から覗くダークグリーンの瞳に、彼女のときめきが止まらない。
フェリ様ったら、そんなに見つめちゃいや。
実際は、睨んでいたのだが。
「この際だからはっきり言っておく。お前と結婚するつもりはない」
「わたしもこの際だからはっきり言っておくわ。あなた以外と結婚するつもりはなくてよ」
二人がどこまでも平行線の会話をする頃、ミシェルはシャワーを浴びていた。いくらリゼットでもここまでは追ってこないだろう。
ピンと立った耳に水が入らないように慎重に髪を洗っていると、初めてシャワーを浴びたことを思い出す。野良犬のまま人間になったので、髪はボサボサだった。そんな彼女を、フェリックスは慣れない手つきで解しながら丁寧に洗ってくれた。今になって、裸を見られた恥ずかしさで全身から湯気が出る。
気を取り直して湯舟に浸かり、思い切り手足を伸ばした。当時は大きいと感じたが、大人になったらそうでもない。
ふと、天井から落ちた水滴で耳がぴくっと動いた。
明日には消えるかなあ。
フェリックスがいる限り無理かも知れない。非常に困るが、想いとは裏腹に顔が綻んだ。
ある日のこと、仕事が長引いたので隊長室で遅い昼食を摂っていると、マシューが形ばかりのノックをして入って来た。
「お、愛妻弁当か」
「彼女が作ったかと思うか? それに妻はいない」
「その出来はどう見てもミシェルだな」
マシューは、客用のソファーにどっかり腰を掛ける。この部下は、隊長室を憩いの場と勘違いしているに違いない。
「で、両手に花の暮らしはどうだ?」
「羨ましいなら一人譲るぞ」
「じゃあ、ミ……」
『ミシェル』と言おうとしたが、否定の一瞥にマシューが肩を竦めた。
「ミシェルが家を出たら、お前さんはまた一人だ。だったら、リゼットを嫁にしてやれ。性格は悪いが見た目はいいぞ」
「肝心な部分がだめだろうが」
「ミシェルみたいに、性格も見た目もいい女ってのはそういないぜ。いっそ、ミシェルを嫁にするか?」
マシューの言葉に、フェリックスの心臓が跳ねた。いつもの軽口なのに妙に心がざわつく。反応が返ってこないので、さすがに悪のりし過ぎたとマシューが罰悪そうに頭を掻いた。
「冗談だって。悪かったから、怒るなよ」
しおらしく謝る部下に、フェリックスは最後の一口を頬張ってコーヒーで流し込む。
「怒っていない。ただ、いろいろ考えていた」
「お前さんも公私ともに大変だな。相談ならいつでも乗ってやるから」
マシューは立ち上がると、上官の肩をポンと叩いて出ていった。
結局、なんの用だったんだ?
言いたいこと言って帰っていったマシューに、フェリックスは大きなため息をついた。
帰宅すると、出迎えたのはミシェル一人だった。いつもは飛んでくるリゼットの姿がない。ミシェルの話だと、友人の誕生パーティーがあるので隣町へ出掛けているという。社長令嬢の友人だから、さぞ豪華絢爛なパーティーだろう。
自室で着替えていると、携帯電話が鳴った。見慣れない番号だが、職種がら出ないわけにいかない。
「こちら、コール……」
『あ、フェリ様!!』
「なぜ、私の番号を知っている!?」
『だって婚約者ですもの』
電話の向こう側で聞こえる黄色い悲鳴に、フェリックスは眉を顰めて耳から遠ざけた。
「用がないなら切るぞ」
『あ、待って。今夜、友達の家に泊まることにしたわ。寂しい?』
「ゆっくりしてこい」
『わたしがいないからって、ミシェ……』
プツッ!!
通話の途中だったが、強制終了して携帯電話をベッドへ放り投げる。
リビングでは、ミシェルがテーブルに三人分の食事を並べていた。もう少し早く連絡すれば、せっかくの料理も無駄にならずに済んだものを。
「リゼットは友人の家に泊まるそうだ」
「そうですか」
少しがっかりしたのは、夕食がリゼットの好きなハンバーグだったからだ。珍しく美味しいと褒められたので、今夜また腕をふるったのである。仕方ないので、ラップに包んで冷凍保存することにした。
騒がしいリゼットがいないせいか、しんと静まり返った夕食となる。
「なんだか静かですね」
「一人で騒がしかったからな」
「たいちょーさん、寂しいんじゃないですか?」
自分でも墓穴を掘ったとミシェルは思った。もし「寂しい」と答えが返ってきたらどうしようか、そこまで考えが及ばなかった。
「どうして?」
「二人の会話を聞いていると楽しそうだから」
フェリックスのフォークが止まる。
「お前にはそう見えるのか?」
「はい」
「それこそ勘違いだ」
「そうなんですか?」
「そうだ」
聞いてよかった。心のもやが晴れて、笑顔がこぼれる。
「お前も相手して大変だな」
「リゼットさんはすごくお洒落なんですよ。洋服も『ぶらんど』ばかりです」
「ミシェルも欲しいのか?」
今の生活に不満とかもっと小遣いが欲しい。
フェリックスがそんな風に受け取ったかも知れない。
「わたしは今のままで充分です。洋服もこだわっていないし」
彼と一緒なら何も望まない、気持ちを伝えようとすればするほど泥沼にはまる。あまりにも必死な形相に、フェリックスは頷いた。
「お前の気持ちはよく分かったから、食べなさい」
促されて、ミシェルはぬるいスープを啜っているとふっと頭にあの疑問が横切った。
「わたしって、お仕事してますか?」
これを異なことを聞くものだ。またもフェリックスの食事が中断される。
「しているじゃないか」
「『はうすきーぱー』みたいな?」
ミシェルの口から飛び出した意外な台詞に、誰の入れ知恵が大体の見当がついた。「リゼットだな?」
と訊くと、彼女はぶんぶんと首を左右に振る。
「リゼットさんは関係ありません。少しでもたいちょーさんの役に立ちたいと思って」
「お前は充分役に立っている」
「でも、わたしの仕事は誰でもできます」
「私はできない」
「『はうすきーぱー』さんを雇えば……」
「ミシェル!!」
突然フェリックスが声を荒げたので、ミシェルの体がびくっと跳ねた。
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