その4
たいちょーさんの匂いがする。
夢うつつにミシェルはそう感じた。煙草や体臭など独特のそれではなく、気持ちが和む温もりに似た匂いである。彼の元へ半ば押しかけ女房みたいにやって来て以来、何度か潜りこんだベッドは心地良い眠りに就けるのだ。
いつもの習慣で起床時間に目が覚めると、無意識にまず頭の上をまさぐる。
あっ!! 犬の耳がない!!
嬉しくて早速フェリックスを起こしにかかった。
「おはようございます!!」
ミシェルが部屋のカーテンを開けると、朝陽が床で寝るフェリックスを直撃した。思わぬ攻撃に、寝返りを打ち背を向けてやり過ごす。
「たいちょーさん、見てください。また耳がなくなってますよ」
頭から被った布団を剥ぎ取られて、渋々目を開けるとぼんやりした視界に胸の谷間が飛び込んできた。四つん這いで身を寄せる姿が悩ましく、救いは色気が備わっていないことだ。でなければ、ベッドに引きずりこんで事に及んでいたかも知れない。
そんな気の迷いをミシェルに知られてはたまらないと、「出たり消えたり忙しいやつだ」と仏頂面で呟いた。
そんなこととは露知らず、「これで心配は一つ減りました」とミシェルはほっとした笑みを浮かべる。発情期も鎮まったのか、夕べは彼女も大人しく寝てくれたので問題は解決に向かっているかも知れない。
卓上の時計を見ると、通勤の時間が迫っていた。フェリックスは上着の裾に手を掛けて、隣でニコニコしているミシェルに視線を投げる。今までは誰の前でも平気で裸になれたが、ミシェルの前では何故か気が引けた。
「着替えるから部屋を出てくれ」
「あ、はい!!」
弾かれたようにミシェルは部屋を飛び出すのを目で追う。彼女の変貌が、お互い妙に意識してしまってぎこちない空気が漂った。
軍服姿のフェリックスが現れたが、二人は目を合わせづらい。
「今夜はなるべく早く帰る」
「わたしのことは気になさらずお仕事してきてください」
勤務よりミシェルを優先するフェリックスに申し訳ないと思った。一日家を空ける時も必ず様子を見に自宅へ帰ってくるほどだ。
「上官が残っていると部下がやりづらいらしい」
まだミシェルが来ない頃は遅くまで残って仕事をして、酷い時は夜勤の隊員と帰りが一緒になることもあった。
「お前さんがいると、どうもやりづらくてかなわん。だから、とっとと帰ってくれ」
そう言って、マシューがよく追い出したものである。
「そうなんですか」
「そうだ。飯は家で食うから準備してくれ」
「はい」
まるで、夫婦だな。
第三者の目にこの光景はどう映るだろうか。鞄を手渡す大人のミシェルに苦笑する。
異変が起きても家事に手を抜かない、これがミシェルのモットーである。というより体を動かせば余計なことを考えないで済むからだ。いつのように洗濯する間に食器を洗ったり部屋の掃除をする。それが済むと庭へ干すのだが、今日は雨の匂いがするので乾燥機に任せることにした。
一通り済ませて背伸びをすると、下着が窮屈と感じた。
ちょっと胸がきついかな。
新調する時は初めて買ったあの店と決めていたので、今夜あたり頼んでみようとミシェルは思った。
ミシェルの予想通り、昼近くから雨が降り出した。晴れの日が続いていたので花壇もこれで潤うに違いない。
今夜は何を作ろうかなあ。
冷蔵庫を覗くと、当分の食材はあるので買い物に行かなくてよささそうだ。フェリックスに迷惑をかけた分、少し豪勢にしようとレシピを捻り出す。髪を一つに結びエプロンを付けて、気合が入ったところで下ごしらえに取り掛かった。
野菜をテンポよく切って鍋に入れて煮る、肉を切り分けてフライパンで炒める。一連の動きに無駄なく料理を仕上げていく。
えっと、クッキングシートは一番上の棚だったかな。
背が伸びた今、大抵の棚に手が届くが一番の上の物はアレが役に立つ。それは、幼いミシェルが料理を作り始めた頃にフェリックスが作った踏み台である。成長した彼女には用済みだと捨てようとした彼から取り返して現在も大切に使っているのだ。
鍋の中の具材が煮えたので調味料を入れると、お玉で汁をすくって味見する。
うん、よくできました。
自画自賛して仕上げの隠し味を入れたが、最近は自信がない。実は、ミシェルの味覚がわずかに鈍っている。それだけではなく嗅覚や聴覚も以前より落ちていたのだ。それでも人間に比べれば格段に優れているが、ミシェルには不安の種となっていた。
フェリックスに相談すれば、また困らせるで黙っているが。
料理もあらかた作り終えて、アイロンがけの準備をする。軍服のワイシャツはこれまでクリーニングに出していたが、その役目はミシェルが引き受けた。隊長という肩書に恥じないように、スプレータイプの糊をワイシャツに振りかけてアイロンを滑らせる。ちなみに、ワイシャツを着てネクタイを結ぶ動作が彼女の一番お気に入りだ。
そして夕方となり、フェリックスを迎える支準備は万全となったが実際は九時ごろとなった。
「ただいま」
「お帰りなさい!!」
文字通り玄関へ飛んでいきフェリックスの前に現れる。鞄を渡す彼の息から酒の匂いがした。
「お酒、飲んできたんですか?」
ミシェルは責めるつもりはなかったが、フェリックスにしてみれば早く帰ると言った手前罰悪い。
「しつこい同期に捕まってな。これでも抜け出して帰って来たんだ」と、子どもじみた言い訳と口調だ。
うふふ、酔ったたいちょーさんって面白い。
笑顔がこぼれたミシェルに、フェリックスはほっとして一緒にリビングへ向かう。
「調子はどうだ」
「今日は耳も出てこなかったし、仕事もはかどりました」
「それはよかった」
「ご飯とお風呂、どちらにしますか?」
「飯にする。店の料理が不味くてほとんど食ってない」
「了解です」
上着を受け取ったミシェルを、何故かじっと見つめるフェリックス。
耳が出ても可愛いんだがな。
と、犬好きならではの感想だ。
そしてテーブルに並んだ手のこんだ料理に、フェリックスはほろ酔い気分も一気に醒めた。朝言った言葉を信じて、早いうちから準備をしていたに違いない。
「すまん」とフェリックスが謝った。
「連絡すればよかったな。あ、そうか、携帯持っていなかったか」
ぼそぼそと自問自答する彼に、限界に達したミシェルが思いっきり笑い出す。
「たいちょーさん、酔うと面白いです」
「私は酔ってない」
「酔ってますよ」
「酔ってない」
押し問答が続いて、フェリックスがいきなりミシェルの両頬を掌で挟んだ。驚く彼女を尻目に息がかかる距離まで引き寄せる。ふわっと酒の匂いがミシェルの嗅覚を刺激した。久しぶりの至近距離にこっちまで酔いが回りそうになる。
「鼻のいいお前なら分かるな?」
「わ、わ、分かりました!! たいちょーさんは酔ってません!!」
意地悪い笑みを浮かべて、ようやく真っ赤な顔のミシェルを解放した。へなへなと力が抜けてその場に座り込む彼女だが、急に頭に違和感を覚えてまさぐると……
「ああっ!! 犬耳!!」
「そのようだな」
涙目のミシェルに対して、フェリックスは冷めた言い方である。
「たいちょーさんのせいです!!」
「はあ!?」
ミシェルががっくりと肩を落すと犬耳も垂れるのだった。




