その3
はぁ……、やっぱりわたしのせいなのかなあ。
ミシェルは、花壇に水をやりながらため息をついた。風はまだ冷たいが、日差しはだんだん春の気配を帯びている。マシューとクリスで植えた花や野菜の苗は、暖かい陽だまりですくすくと大きくなった。
もうすぐ賑やかになる花壇だが、ミシェルの気持ちは沈んでいた。昨夜の記憶が断片的に蘇りますますため息を誘う。
ソファーでフェリックスに甘えて、彼に馬乗りになって、朝起きたら満身創痍のフェリックスが床に転がっていた。これが彼女が思い出した一連の流れである。発情期のせいか、あの夜は違う人格が憑依した感覚だった。
とにかく、本人が帰ってこないことには真相は藪の中だ。
夜の八時頃フェリックスは帰宅した。「ただいま」「お帰りなさい」といつものように言葉を交わして、いつものように彼のバッグを受け取る。だが、視線はフェリックスから離せないでいた。
「私に言いたいことでもあるのか?」
ミシェルは、バッグを胸に抱いて重い口を開く。
「昨夜のこと、少しだけ思い出したんです」
「ほお。どこまで覚えていた?」
ミシェルは彼の反応を確かめながら話し始めたが、寝込みを襲って大乱闘という肝心な部分が抜け落ちていた。昼間、マシューに痛くもない腹を散々探られたので修正を加える気も起きない。
「おおかた合っている。もうこの話はおしまいだ」
怒っていると勘違いしたミシェルは必死に説明した。
「わたし、この前から変なんです!! フワフワした気分になったり、たいちょーさんの……」
まさか、匂いを嗅いで幸せな気分に浸っていたとは言えずに口ごもる。
「私がなんだ」
「とにかく、気持ちが不安定で」
「他に変わったことは?」
「今朝、トイレに行ったら……その……」
また口ごもるミシェルに、フェリックスは心当たりがあった。人間の女性も犬のメスも双方の事情は心得ている。身体の変化に戸惑う彼女になんて声を掛ければいいのだろうか。いや、こんな時こそ話を掘り下げず普段通りに接するのが無難だ。
「夕べよりもこの先だ。みんながどう反応するかが問題だな」
「クリスさんとかマシューさんとか?」
「それに市場の人達、お前に関わった人間すべて」
フェリックスは、腕を組んだ拍子に部下との会話を思い出した。
「そう言えば、オレガレン少尉を夕食に招いたらしいな」
ミシェルも思い出したのか、目を大きく見開いた。
「そうでした!! すっかり忘れてました」
この台詞にがっくりと肩を落とすクリスが目に浮かんだ。彼は実に細かい所に気がつく男だが、繊細で喜怒哀楽が激しい。ミシェルと出会ってから彼女の言動に一喜一憂するので、この頃は上官のフェリックスがフォローに入るのだ。
「やっぱり、断った方がいいですよね?」
「楽しみにしてたぞ」
「約束した時もとても嬉しそうでしたもの」
二人はしばし考え込んで沈黙だけが過ぎていく。確かにミシェルの言う通り、クリスはとても嬉しそうだった。そして、彼の約束を断ると言ったミシェルに心の片隅で安堵した自分がいた。これは決してクリスに妬いているのではないと咳払いとともに追い出す。
「オレガレン少尉には私から断っておく」
「嫌なことばかり押しつけてごめんなさい」
ミシェルが申し訳なさそうに謝ると、フェリックスが頭を撫でた。見上げた目線の高さがまた彼と近くなり、二人の距離も縮まる気がした。それが嬉しくて、されるがままにしているとダークグリーンの瞳とかち合う。
ちょっと照れたミシェルは、夕食の支度をすると言ってキッチンへ向かった。フェリックスの視線は、彼女の後ろ姿に自然と注がれる。
背中で揺れる栗色の髪も少し伸びて、頭にはピンと立った耳。
耳―!?
フェリックスは一瞬目を疑った。動体視力に自信があるから見間違えるはずがない。
「ミシェル」
エプロンを付けた彼女が振り向いた。やはり、頭にはあの犬耳が居座っている。
「耳があるぞ」
「ええ。ちゃんと聞こえてますよ?」
妙なことを言い出したフェリックスに首を傾げる。
「そうじゃなくて頭の上にだ」
「頭の上?」
ミシェルは両手で頭をまさぐり、例のモノを確認すると青ざめた。
「ど、ど、どうして!? なくなったと思ったのに」
ただでさえミシェルは身体の変化に混乱しているのに、再びあの耳が現れたとなってはもはや思考がオーバーヒートして煙が出そうだ。頭を抱えてうろうろと歩き回るミシェルだが、腕を掴まれてやっと動きが止まった。
「落ち着け」
「落ち着いてなんかいられません!!」
ぐうー。
一度にいろいろ有り過ぎて、気力が著しく消耗したのかミシェルの腹が鳴った。恥ずかしいやら情けないやら、彼女の顔がみるみる真っ赤に染まっていく。正直、フェリックスも同じだった。
「取り敢えず飯にしよう。腹が減っているといい考えも浮かばん」
どんなに悩んだり心配しても腹は減るものだ、そう言って涙目の彼女を宥める。
二人向かい合って食事をするが、ミシェルは心ここにあらずだ。口まで持ってきたスプーンをまた下ろしたり、パンをぼろぼろこぼしたり放心状態である。
「食う時は集中しろ」
「くうん」
項垂れるミシェルには悪いが、伏せた耳が可愛いとつい思ってしまった。
「……今、笑いましたね?」
「顔にソースが付いている」
琥珀色の拗ねた目を無視して、フェリックスは指でソースを拭ってやる。
やだ、子どもみたい。
姿はすっかり大人なのに、彼にしてみればいつまで経っても出会った頃のままなのだ。
夜も更けて、フェリックスが自室で資料に目を通しているとドアをノックする音がした。この家には二人しかいないので、言わずもがなミシェルである。返事をすると、ドアが少し開いてミシェルが覗きこんだ。
「たいちょーさん、入ってもいいですか?」
昨日の今日で、またひと騒動起きそうな予感にフェリックスの顔が強張った。
「入ってもいいが、私を襲うなよ」
「大丈夫です!!」と言い切ったあとに、「多分」と小声で付け足したので若干の不安はある。
ミシェルは、ティーセットを乗せたトレイを机に置くとフェリックスを見つめていた。目の端で感じたので体ごと彼女に向ける。
「まだ何か用か」
「ここにいてもいいですか?」
断ろうとしたが、独りでいるのが不安なのか思いつめた様子に言葉を飲みこんだ。軽く息を吐いて頷くと、部屋の片隅にちょこんと座って持ってきた本を読み始める。
やっと一段落して、ミシェルの存在を思い出すとその方向に首を巡らした。壁に体を預けて寝息を立てる彼女に膝をつく。顔に掛かった髪をそっと指で直してやると笑みを浮かべた。このあたりは子どもの頃と全く変わらない。
脇と膝に腕を差し入れて横抱きにすると、彼女の美しい髪が流れ落ちる。
犬は人間の四倍の速度で成長するという。だから、ミシェルも一年足らずで子どもから大人へ駆けあがる。だったら、この先彼女はどうなるのだろうか。そのうちフェリックスの年齢を上回り、あとは緩やかに死を迎えるだけとなるのか。
ミシェルとこうして過ごせる時間はどのくらい残されているのか。そう考えると無性に寂寥感が押し寄せた。




