その10
「たいちょーさんはいい方です。わたしに良くしてくれます」
野良犬に傘を差し出す者もそういないし、「わたしは犬です」という娘と一緒に住む者もいない。双方をあっさり受け入れたのがフェリックス・コールダーなのだ。
弁護するミシェルに、ジェシカはクスッと思い出し笑いをした。怪訝そうなミシェルに、まだ笑みを残しながらフェリックスとの初対面を話し始める。
「軍用犬係になって間もない頃、訓練中に隊長がお見えになったの。いい噂は聞かなかったから緊張したわ。わたしの前で立ち止まって名前を訊かれたから答えたら『君じゃない、犬の方だ』ですって」
ジェシカは当時を思い出して懐かしそうに続ける。
「『鬼隊長』とか『冷血』とか怖いイメージがあったけど、犬好きと分かってなんだか嬉しくなっちゃって」
「……たいちょーさんが好きなんですか?」
声弾むジェシカに、ミシェルの心の呟きがそのまま口から溢れた。きょとんとしたジェシカが大きくかぶりを振る。
「尊敬しているけど、恋愛感情とは違うわ。それに今はあの子達に夢中だから」
ジェシカの視線を辿ると、役目を果たした軍用犬が犬舎へ戻っていくところだった。愛しそうに見つめる彼女は本当に犬が好きなのだろう。フェリックスは恋愛対象ではないと知ると、心なしかいい人に見えてくるから不思議だ。
「ミシェルちゃんの噂は市場で聞いたのよ。お料理、上手なんですって?」
先延ばしになっていたミシェルの質問に答える。
「上手かどうかはわかりませんが、お料理は好きです」
「いいなあ。わたしでも作れる簡単なレシピあったら教えて」
にっこり笑うジェシカは、他の軍人に呼ばれたので「楽しんでね」と片手を挙げて小走りで行ってしまった。
ジェシカをライバル出現と警戒していたが、言葉を交わすうちに親しみを覚えた。これまで年配の女性ばかりで、年の近い同性と触れ合って胸がすく気分である。
静けさにふと辺りを見渡すと、見物客もまばらとなっていた。フェリックスとの待ち合わせまで時間を潰そうと出店の方へ歩いていく。
すれ違う家族連れやカップルに、無意識に目の端で追った。皆幸せそうに笑っている。
ミシェルは野良犬で、家族もなく親の温かい愛情も知らない。だが、寂しいとはちっとも思わなかった。悲しい時や悩んだ時はいつもそばにフェリックスがいてくれる。饒舌ではないが必死に言葉を紡いで慰めてくれる。表情豊かでないからこそ笑った顔が心をときめかせる。
早く時間が過ぎないかな。たいちょーさんに会いたい。
逸る気持ちをそのままに、自然と歩調が速くなった。
ミシェルが待ちわびる時間と対照的に、フェリックスのそれは慌ただしく過ぎ去っていった。気がつけば待ち合わせの時刻が迫っていたので、急いで任務を片付けてミシェルの元へ向かう。
約束の場所へ行く途中だった。
人の波で見え隠れする横顔にフェリックスははっとした。クリーム色に輝く髪、ミシェルと同じ琥珀色の瞳。出張先でミシェルに道を尋ねたあの青年がいたのだ。
聞きたいことがたくさんある。どこかで会ったのか、ミシェルとどんな関係なのか。
目当ての人物目掛けてまっしぐらに追い掛けたが、この人混みだ。近づいては遠ざかりなかなか思うようにたどり着けない。思い出そうとすると頭の中に靄がかかり思い出せない、そんなもどかしさと似ていて余計フェリックスを焦らした。
やがて手を伸ばすと青年の腕を掴める距離まで捉えて、そして、ついに……。
「あ、あの、僕になにか?」
確かにあの青年の腕を掴んだはずだったのに、振り向いたのは別人だった。鬼気迫る表情の軍人に怯えているのか声がうわずっている。
「あ、いや。人違いだ、すまない」
指を放すと、間違えられた青年はよほど痛かったのか掴まれた腕を反対の手でさすった。連れの友人と共に足早に去っていく彼に、フェリックスは狐につままれた気分だ。
呆然と立ち尽くすフェリックスの耳に、すれ違う若者の会話が飛び込んでくる。
「さっきの女の子、可愛かったな」
「誰かと待ち合わせしているみたいだったぞ」
「いなかったら誘っちゃおうか?」
「よせよせ。なんかヤバそうな連中が狙っていたぜ」
やばそうな連中、そう聞こえてフェリックスは我に返った。これだけの人間がいるのに、何故かミシェルの不安げな顔が脳裏をかすめた。
「おい、今の話を詳しく訊かせろ!!」
今度はこの若者の腕を掴んでこちらを無理矢理向かせる。「ひゃっ!!」と間抜けな声を上げて、険しい顔の軍人に慄いた。
「どんな娘だ!? 年恰好は!?」
「く、栗毛で髪の長い女の子で、ニット帽を被っていました」
まるで尋問である。若者の証言が今日のミシェルとぴったり重なると、フェリックスは駆け出した。
約束の時間が来てもフェリックスの姿がない。待ちぼうけのミシェルは辺りを見渡した。
たいちょーさん、やっぱり忙しかったのかな。
探しに行きたかったが、はぐれたらその場所を動くなときつく言われていた。ふっと影が差して顔を上げると三人の若い男達に囲まれた。薄ら笑いを浮かべて胡散臭そうな雰囲気がある。よだれを垂らして子羊に近づく狼のようだ。
「どうしたの?」
「たいちょーさんを待ってます」
「たいちょう? ああ、あの隊長さんね」
薄ら笑いの男がさも知り合いのように呟く。
「俺達が連れて行ってあげるよ」
知らない男についていくな。
これまたフェリックスの教えなので、ミシェルは首を大きく左右に振った。
「ここで待っている約束だから大丈夫です」
「そんなこと言わずにさ」
一人の男が馴れ馴れしく彼女の肩に腕を回す。困ったミシェルが、通りすがりの人達に助けを求めるが皆見ぬふりだ。楽しい祭りの日にトラブルに巻き込まれたくないといった風である。こんな時に限って、マシューやクリスはおろか軍人の姿が見当たらない。
こうなったら自力で人生初めての危機を乗り越えるしかないと勇気を奮い立たせた。
「わたし、失礼します!!」
逃げようとするミシェルの進路を男二人で塞ぎ、揉み合ううちに男の手がニット帽のつばに当たった。
「あっ!!」と短い悲鳴を上げると同時に、突然視界が真っ暗になる。一瞬何が起きたか分からないが、暗闇でふわっと香る匂いが嗅覚を刺激した。
この匂いは……!?
視界が開けた時には、先ほどの勢いはどこへやら男達の態度がおどおどしい。
「待たせたな」
聞き覚えのある低い声に、ミシェルの顔がぱあっと輝いた。頭には地面に落ちたニット帽の代わりに士官帽が被せてある。
「たいちょーさん!!」
あの匂いはフェリックスの整髪剤だった。
黒髪に軍服、しかも強面と威圧感たっぷりの彼に敵うはずもなく、長身から見下ろす鋭い視線に男達は口ごもる。
「俺達は、ただその子が困っていたようだから声を掛けただけだ」
「本当か? ミシェル」
すがる男達の眼差しとダークグリーンの瞳に挟まれてミシェルは小さく頷いた。ここで真実を話したら、フェリックスの逆鱗に触れるのは間違いない。
「何もなかったので、その方々を許して下さい」
不本意ではあるがミシェルに頼まれては仕方がない。フェリックスが「行け」と顎をしゃくると、三人は一目散に走り去った。




