その11
ミシェルが視線を落とすと泥まみれのニット帽がある。男達に踏みにじられたそれをフェリックスが拾い上げたが、とても被れる状態ではなかった。
かといって、犬耳付きの頭を放置しておくわけにもいかず、取り敢えず手元にあった物で代用する。
ニット帽を受け取ったミシェルは、せっかくのお洒落が台無しになってがっくり肩を落とした。
「私が遅かったばかりに怖い思いをさせたな」
「たいちょーさんが来てくれるって信じてたから」
正直な気持ちは怖かった。
彼女の周りは好意的な人達に対して、今日の人間達はどうだ。欲望むき出しの男達や見て見ぬふりをする見物人、どれも野良犬だった頃のミシェルに投げつける感情は北風のように冷たい。
今は、黒髪の軍人は広い背中でミシェルを護ってくれる。だから、怖くても信じていられた。
ミシェルが見上げると、サイズが大きかったのか顔の上半分まで士官帽がずれ落ちた。フェリックスが上げてやると、大きな瞳を覗かせてにっこり笑うさまが愛らしい。思わず緩みかけた口元だが、部下の目を意識して引き締めた。
「行くか」
「はい!!」
元気よく返事して並んで歩き始めて間もなく、二人は見物人のみならず軍人達の注目を浴びることとなる。
「あの……たいちょーさん」
「なんだ」
「気のせいか、すごく注目されているような……」
警衛隊長と美少女の組み合わせ、しかも後者は士官帽を被っているので否が応でも人目を引く。誰がどう見ても隊長が貸してやったとしか思えない構図に周りの軍人も興味津々だ。
「しばらくの間、我慢しろ」
「でも……」
「少し匂うが、ないよりはましだ」
「こんな大切な物をわたしなんかが被っていいんでしょうか?」
フェリックスは、鼻の利くミシェルが軍帽にこもった匂いを嫌がっていると勘違いしていた。
「帽子は被るためにある。誰が文句を言うんだ!?」
当たり前のことを真剣に言うものだから、見事ツボにはまったミシェルは吹き出す。
「何がおかしい!?」
「たいちょーさんのおっしゃる通りだなあって。ははは……」
腹を抱えて大笑いする彼女に、フェリックスは面白くないとばかりに背を向ける。
「気が変わった。案内はやめだ」
「わーっ!! ごめんなさい!! もう笑いません!!」
慌ててすがるミシェルに、フェリックスの表情がついに崩れた。
「おい、見たか……?」
「……ああ、見た。あの鬼隊長が笑っていたぞ」
警備についている若い軍人二人は、はしゃぐミシェルらに目が釘付けになった。『鬼隊長』と噂される男がずっと年下の美少女を連れて歩いている。これだけで大ニュースなのに、強面が笑みを浮かべているではないか。
「……笑うんだな」
「……ああ、笑っているな」
にわかに信じられず、若者は目をこすって改めて見たらいつもの無表情だった。
「見間違いだったのか?」
「かもな。俺達はきっと幻覚を見たんだ」
「コールダー隊長がこっちへ来るぞ。これも幻覚?」
幻覚ではなく、間違いなくこちらへ向かってきているので彼等は慌てて敬礼をする。
「任務、ご苦労」
「は、はい!!」
敬礼を返すフェリックスに、ミシェルの感動は止まらない。
「たいちょーさんは本当に隊長なんですね!?」
「……今まで私をなんだと思っていたんだ?」
半年近くも一緒に住んでいたのに、今更だとフェリックスは盛大なため息をついた。
普段の彼は、寝起きが悪くちょっとだらしない。おまけに時々髪に寝癖についている。通勤に軍服は着ていても、ミシェルには『隊長』ではなく『たいちょーさん』なのだ。
「お、噂通り可愛い士官殿のお出ましだ」
大きく太い声は言わずと知れたマシューで、その隣には引きつり笑いのクリスがいる。ミシェルを誘ったはいいが、エスコートの役目を尊敬する上官に奪われて釈然としない。
「噂になっているのか?」
「そりゃあもう、警衛隊ならず部隊全体だぜ? あの隊長殿に連行されてるかわいそうな女の子は誰だってな」
ほんの十分足らずで、広まる情報の速度にフェリックスは舌を巻いた。
このままではに迷惑が掛かる、脱ごうとするミシェルをフェリックスが制した。
「オレガレン少尉、どこか帽子を売っていないか?」
「そこのミリタリーショップにありましたよ」
クリスはすぐ近くにある店を指差す。
「大至急買ってきてくれ。サイズは確かSだったな?」
ミシェルが頷く。フェリックスはスラックスの後ろポケットから財布を抜き出して、数枚の札を部下に手渡した。
やっとミシェルに会えた喜びも束の間、さっそく使いに出されたクリスは渋々店へと歩いていく。
やがて、迷彩柄のキャップを片手に彼が駆け足で戻ってくると、ミシェルに差し出した。それを見てマシューが一言。
「少尉殿、女の子に迷彩柄はどうかと思うが?」
「ミリタリーショップだから仕方ないでしょう!!」
急きょ買いに行かされた挙げ句、センスを疑われてとんだ災難だ。
ミシェルが帽子を付け替えると、フェリックスはお役御免の士官帽を頭に納める。
「やっぱり、たいちょーさんの方がよく似合ってますよ」
ミシェルちゃん、俺も同じもの被ってるんですけどね。
全くいいところなしのクリスが拗ねていると、「まあ、気にするな」とマシュー。
「モーガン軍曹に慰められたら、一段と落ち込みます」
「失礼なやつだな。人の善意はありがたく受け取るものだ」
「クリスさんもわざわざ買いに行ってくれてありがとうございました」
ミシェルが礼を言うと、さきほどの不機嫌な気持ちはどこへやらたちまち機嫌を直した。
「ミシェルちゃん、まだ時間あるなら、俺と一緒に行こうよ」
「でも、たいちょーさんと……」
困ったミシェルと懇願のクリス、交互に見やり
「私は行く所がある。ミシェルを頼んだぞ」
そう言って、部下にその役目を譲った。
「いいのか?」
マシューが、視線は若者二人に残してフェリックスに訊いた。
「私の役目はすんだ」
クリスに話しかけられて、応えるミシェルの横顔を感慨深く見つめる。まるで、結婚する娘を見送る父親の心境だ。
「ミシェルも年頃だ。そろそろ覚悟しとけ」
「そうだな」
彼女は血縁関係どころか人間ではないのだ。それを知らないマシューの忠告は、フェリックスの胸にずしりと響く。
賑やかな祭りが終わった部隊は、嵐が去ったように閑散としていた。片付けやら報告やらで、フェリックスが家に帰ったのは夜の九時を回った頃だった。
「ただいま」
返事がない。リビングに行くと、ソファーで体を丸くして眠っているミシェルがいた。きっとはしゃぎ過ぎて疲れたのだろう。
「おい、ミシェル。風邪を引くからベッドで寝なさい」
肩を軽く揺すると、彼女の目がうっすら開いた。
「ん……、お帰りなさい」
「立てるか?」
「ふぁい」
眠い目をこすって立ち上がった瞬間、ミシェルの体が大きく揺れた。フェリックスが咄嗟に支えると、脱力した体がもたれかかる。
「ミシェル?」
顔を覗くと、また眠りに落ちていた。フェリックスは横抱きしてミシェルの部屋へ向かう。彼女が幼い頃はよくこうしてベッドまで運んだものだ。
「たいちょーさん……」
当時と変わらぬ寝言に、フェリックスは口角をあげた。




