その3
ミシェルの頭に犬の耳が生えて数日経ったが、依然として消える気配がなかった。
彼女は異形のそれを気にして、日課だった市場の散策も足が遠のいた。出かける時は帽子かフードを深く被り、日が暮れるのを待って人目を避けるように慌ただしく買い物する。
そんな生活だから、市場の者達が心配するのも無理はないのだ。逃亡者じゃありまいし、今まで通りでいいとフェリックスは思うのだが。
休日、この日は朝から晴れ渡った。ここのところ、薄日がさす程度ですっきりと晴れなかったので、ミシェルは洗濯に追われている。二人分の量はたかが知れているので、彼女の狙いはシーツなどの大物だ。
ちょうど物干し台の場所に陽だまりができて、その中でミシェルが干している。いくら成長したとはいえ、背伸びをしなくては一番上の竿には届かなかった。
バスタオルの片端を洗濯バサミで止めて、移動する間に反対側が風でめくりあがる。
この繰り返しで、なかなか捗らないの彼女を見兼ねて、フェリックスはサンダルを履いて庭へ出た。
長身の彼はリーチも長く、バスタオルの両端を同時に止めた。見上げると、眩しい朝陽にフェリックスは目を細める。
「いい天気だな」
「ほんと。お洗濯物もよく乾きそうです」
最後に、二人でシーツを竿に掛けて作業が終了した。
「コーヒー、淹れますね」と、ランドリーかごを抱えてミシェルが部屋に入っていく。跳ねるように走る彼女の後ろ姿を見つめた。頭に居つく犬の耳を、どうしてやることもできない自分が不甲斐ない。
「どこか遊びに行くか」
コーヒーを差し出すミシェルを、気晴らしに誘ってみた。
「これから夕食の仕込みをしようかと思って」
ミシェルがキッチンへ行って冷蔵庫から取り出したのは、この前肉屋から買った包みである。
「やけに重かったが、それはなんだ」
「えへへ。ジャーン!!」
満面の笑みで見せた中身は、数本の牛の大腿骨だった。いかにも、といった見事なものである。
道理で重いはずだ。
ずっしりと感覚を思い出したフェリックスは、コーヒーと『納得』をごくりと飲み込んだ。ミシェルは、まだ愛おしそうに骨を見つめている。
犬に骨とくれば……。
「ミシェル、それをどうするつもりだ?」
「どうするって決まっているじゃないですか」
険しい眼差しのフェリックスに、ミシェルは無邪気に答える。
「しゃぶるんじゃないだろうな!?」「煮込んでスープにします!!」
二人の声がぴったり重なり、お互い顔を見合わせた。
「たいちょーさん、なんて仰ったんですか?」
フェリックスは、はっとした。心にないことを口走ってしまったのである。いや、頭の片隅にあったからこそ本心が零れたかも知れない。
事実、フェリックスの脳裏に一瞬、ミシェルが太い骨に食らいつく姿がちらついたのだ。
怪訝そうに見つめる彼女と目が合わせられなかった。今の台詞をミシェルが聞いたら、きっと深く傷つき失望するに違いない。あの悲しげな瞳は、何よりも心に刺さる。
「たいちょーさん?」
「美味そうだ」
「きっと満足していただけること間違いなしです」
どうにか誤魔化すのに成功したらしい。これ以上、ミシェルは突っ込んでこなかった。
「楽しみにして下さいね」
踵を返したミシェルの髪がさらりと流れると、フェリックスはたまらず天を仰いだ。
しっかりしろ、フェリックス・コールダー。
『親しき中にも礼儀あり』、馴れ合いが過ぎた自分に叱咤する。
煮込んだいわく付きのスープは、今夜の食卓には並ばなかった。ミシェルシェフ曰く、「手をかけた分、美味しくなるんですよ」。
家にいる時間が長くなったせいか、手のこんだ料理が度々登場する。彼女の名誉のために言っておくが、これまでの料理が決して手抜きだったわけではない。
それが証拠に、心がこもったミシェルの料理は『質より量』のマシューの胃袋をもがっちり掴んで離さなかった。ミシェルが来るまで寄りつきもしなかった隊長宅に、無理やり用を作っては食事時を狙ってやって来る。
フェリックスに言えばかなりの確率で断わられる、だからミシェルと直接約束しているらしい。何故か、彼女はマシューに心を許しているので大歓迎だ。
「甘やかすな」と注意したら、「いけませんか?」とあの上目遣いとアヒル口をされて渋々首を横に振る。
「お前が大変だろう」
「平気です。わたしの料理を美味しいって言ってくれるのが嬉しくて」
そう語るミシェルは、琥珀色の大きな瞳を輝かせて本当に嬉しそうだ。
「そうか」
労いと感謝の意をこめて彼女の頭を撫でる。子ども扱いするわけではないが、フェリックスにはこの方法しか思いつかなかった。
しばらくして、ミシェルの手料理に飢えマシューに禁断症状が出始めた。解消すべく、呼ばれてもいないのに隊長室へ乗り込む。
「よお、隊長殿」
「私は忙しい」
マシューが口を開くより早く、フェリックスが言い捨てた。
「隊長は、部下の悩みを聞くのも仕事だよな?」
「内容にもよる」
「悩みを取り除いて、気持ちよく任務遂行させようという気はないのかね?」
「それ相応の給料はもらっているはずだ」
書類から目を離さずフェリックスが返すと、かくも盛大なため息をつく。
「はあ。こんな上官をもつ俺達は不幸だ」
身勝手な部下を持った上官の方が不幸だ。
フェリックスは心の中でぼやいた。
隊長の隣の席で庶務に勤しむクリスに、マシューはコーヒーを催促する。言っておくが、クリスの方が階級は上だ。
「いつになったら、ミシェルの料理を食わせてくれる?」
「無期限だ」
むくれるマシューに、フェリックスが一蹴する。
「ミシェルちゃんの具合が悪いんですか?」と、クリス。
「近頃、買い物に来ないって市場の人達も心配していました。そういえば、あの高校生、俺の顔を見るなり逃げ出したんですよ」
温和な顔立ちのクリスにさえ怯えるとは、軍人トラウマになったかも知れない。やはりマシューの忠告を守って、当人達に任せればよかったのではと少しだけ後悔した。
「軽い風邪だが、念のため用心して外出を控えさせている」
「まったく、俺達には嵐でも立哨をさせるくせに」
「仕事なんだから当然でしょう。それに、モーガン軍曹は風邪なんて引かないでしょ?」
さすがに、このあとに続く言葉は出さなかった。
「なんだ、ここで隊長の肩を持ってポイント稼ごうってか」
「ち、違いますよ!!」
茶化す部下(?)に、クリスの真っ赤な顔で反論した。
「俺は軍人として、純粋に隊長を尊敬しているだけです!!」
「わかった、わかった。そう怒鳴るな」
犬を追い払うように手をひらひら振って、クリスの攻撃を軽くあしらう。
「ミシェルは大丈夫なんだな?」
真剣みを帯びたマシューの声色に、フェリックスは軽く頷いた。
「二人が心配していたと伝えておく」
「お見舞いに行きたいんですけど、今は無理ですか?」
「すまんな。良くなったら知らせる」
話題を断ち切るように、フェリックスはファイルの束を抱えて隊長室を出ていく。
部下達に嘘をついている罪の意識が、フェリックスの気を重くさせた。




