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隊長さんちのわんこ《ミシェル》  作者: 芳賀さこ
第九章 さよならを言う同居人
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最終話

 ミシェルの姿は街の中にあった。小川に翻弄される木の葉のように、ゆらゆらとおぼつかない足取り。胸は苦しく前髪から滴る雨を払う気力すらない。薄れゆく存在に手を差し伸べる者はおろか気付く者すらいなかった。まるで捨てられた仔犬の時と同じだった。

 雨に打たれて体温が奪われる。寒さで小刻みに震える体を、両腕で抱いて鎮めるも限界だ。それでも最後の力を振り絞ってあの場所へ向かう。


 

「ミシェル、どこだ!?」


 好奇な目で追う通行人に構わず、フェリックスはありったけの声で叫んだ。彼もまたずぶ濡れで街をさまよう。

 料理上手なミシェルが足繁く通った市場、夜の噴水に瞳を輝かせた公園、初めて自分の意志でアルバイトを決めた『Dolce cane』。関わった場所は片っ端から行ってみたがミシェルはいなかった。

 まだ探していないところがあるはずだ。よく考えろ。

 焦る気持ちを落ち着かせて心当たりを探る。緻密に計画を練り行動する彼が、ただ闇雲に走り回り無駄な時間を消費する。情けないと思った。今まで培ったスキルがまったく役に立たない現状に絶望する。ミシェルには多くのものをもらったのに、返すどころか肝心な言葉も言えていない。

 

 

 ミシェルがようやく辿り着いた場所は、フェリックスと最初に出会った路地だった。小汚ない自分を温かい胸に抱いてくれたのを昨日のように思い出せる。壁にもたれてその場に蹲りぴくりとも動かない。このまま死を迎えるのに不思議と怖くなかった。心残りと言えば彼を一目見たかった。

 ふと、自分を呼ぶ声が聞こえた。会いたいと願うあまり幻聴となって甦ったのか、

 力尽きて上体が崩れる間際にふわりと温かいものが包みこむ。誰かが抱き止めてくれただろうか。


「ミシェル!! しっかりしろ!! 私が分かるか!?」


 ああ、たいちょーさんが来てくれた。

 朦朧とした意識のなかで聞き慣れた声に口許がほころんだ。


「ミシェル、目を開けろ!! 死んだら許さんぞ!!」

「……無茶……言わないでくだ……さい」


 力なく笑ったミシェルの声は囁く程度の掠れたものだった。この瞬間、死ぬのが怖くなった。生きたい、生きてこの人のそばにいたい。


「……たい……ちょーさん……一緒に……いたい」


 今にも消えそうな願いを聞き漏らすまいと耳元に近づける。


「私もお前と一緒にいたい。だから、生きろ」


 こんな時、どうすればいいのだろうか。数々の修羅場をくぐり抜けた男が、情けないことに何も出来ずにいる。自身の体温で少しでも命を繋ぎ止めようと、冷えきった彼女の体を力強く抱き寄せた。

 この世の輪廻があるならば、また巡り会いたい。今度は初めから人間として彼の前に現れたい。

 ミシェルの涙が頬を伝い、まぶたがゆっくり閉じていった。

 

 


 あれから数週間が経ち、いつもの日常が始まった。朝礼後、クリスと今日の予定を擦り合わせる。待機室でシフト表と見比べながら勤務状況を確認してサインをする。休憩を兼ねて、コーヒー片手に窓から空を見上げて物思いに更けているとあの男がやってきた。


「隊長殿、今夜どうだい?」


 マシューがグラスをくいっと煽る真似をした。酒を飲む誘いだ。受けたら必ず代金はフェリックスの奢りと相場は決まっている。


「やめておく」

「付き合い悪いな」


 太い眉を八の字にしてフェリックスの肩を抱いた。階級社会の軍において傍若無人に振る舞えるのはこの男だけである。周りの目からは変わりないように見えても、マシューにはちゃんと見抜いていた。座っているフェリックスの肩を二回叩く。

『お前さんが元気ないと張り合いがないのさ』、腐れ縁の彼らしい励まし。

 片手をひらひらさせて去っていくマシューとクリスが入れ違いにやってきた。差し出された書類にサインしようとしたがペンが見当たらない。


「いかがなさいました?」

「最近、ペンがよく無くなる」


 首を傾げながら机の引き出しを探る上官に、「ああ、実はですね」と申し訳なさそうに種を明かした。事の発端はフェリックス自身だった。

 

 ある日、会議の受付をする女性軍人が開始三十分前になって慌て始めた。

 ペンがない!!

 出席者のチェックをするのにペンは不可欠、事前に確認したはずなのに肝心な物がなくて顔が青ざめる。 隊長クラスの幹部ばかりの会議で、入隊して初めての大役に舞い上がっていた。

 そこへ狼狽える彼女の前に現れたのが、『冷血鬼隊長』フェリックス・コールダー大尉である。迫力あるイケメンに見下ろされて、ますますパニックの彼女から事情を聴き自身のペンを差し出したというわけだ。

 貸した本人はとっくに忘れていたが、彼女はなんとしても返さなければならない義務に駆り立てられた。いざ警衛隊の待機室の前へ来てみたが、いかつい男だけの中に入っていく勇気もなく廊下で途方に暮れていたら隊員に声を掛けられた。

 

 ー なにか用?

 ー コールダー隊長にペンをお返ししたいんですけど

 ー 俺が渡そうか?

 ー お願いできますか? 

 

 短いやり取りがきっかけで、二人は親しくなり交際することになった。当人はよほど嬉しかったのか、仲間に報告しまくった結果がこれである。職種の偏見か独身者が多いこの隊で、フェリックスのペンは名前の通り『幸福』をもたらすと噂になり密かに人気となった。一本くらいならバレないと思ったのか無断でペンを拝借するの者が続出した。頻繁に補充するので、陰険そうな物品係から「またですか?」と嫌味を言われる羽目になってしまった。

 以前の彼なら「馬鹿馬鹿しい」と一蹴したかもしれないが、微笑ましいと感じるのはミシェルの影響に違いない。このことを話したら、きっと目を輝かせてこう言っただろう。


 さすが、たいちょーさんです!!

 

 わずかに頬を緩ませたのち、また無表情でクリスに向き直る。


「物品係に睨まれるのは私だ。ほどほどにするよう皆に伝えておけ」

「了解。ところでそれ、俺にも頂けませんか?」


 恐縮するクリスの視線の先には、フェリックスが手にしたばかりのペンがあった。

 

 

 今日は斯くして定時より少し遅れて帰路に着く。本来ならまだ帰れそうにないのだが、部下達の手助けで思いの外仕事が捗った。ペンの一件がばれたせいかもしれない。


「おっさん連中に呼び出されないうちに帰っちまえ」


 予言めいたマシューの言葉に甘えて足早に待機室を出ていった。部隊から自宅まで歩いて十五分、公園を抜けるお決まりのコース。

 途中、フェリックスは足を止めて細い路地を見た。あの頃と変わらず薄暗く狭い。もし、ここを通らなかったらミシェルと出会うこともなかった。彼女が来てからあらゆる感情に溢れた日々で、変化のないフェリックスにはまさしく人生の岐路だった。

 幸せの形なんてあってないようなものだ。どんな些細なものでも本人が感じれば『それ』はある。楽しげな家族団欒、肩を寄せ合うカップル、愛犬と散歩する人……、フェリックスは視界から消える風景に幸せの何たるかを見出だした気がする。

 次第に近くなる自宅の窓から漏れる明かりに顔が綻んだ。ドアを開けると、奥からパタパタと足音がして長い栗毛の女性が現れた。


「たいちょーさん、お帰りなさい!!」

「ただいま、ミシェル」


 微笑み合う二人はまさに幸せそのものだった。


 

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