木端微塵の味方
「動くな」
瞬時にその場全員の喉元に突き付けられた、真白の切先は現れた男が背負う靄から発生している。
しかしそれをカラスの王は素手で払いのけ、男に向かって飛び出した。
「!」
男は一瞬にして眼鏡を外し、胸ポケットへ。その動作と同じくして、新野に向いていた鹿の角が花弁のごとく開く。
腕ごと胴に花弁はまきつき、新野の体は宙に浮いた。
どっと新野を連れて走り出した男の動きについてきたのはカラスの王だけだった。
森の中を新野は息が苦しいくらいの速度で連れていかれる。
後方でカラスの王の輪郭がぼやける。
それが数十羽のカラスとなって散開した。
あっという間に全員といた場所から離れ、鹿の王のテュラノスは尋常じゃない速さで進んでいく。
その上空を黒い団体が追いつく。
流れる光景にカラスたちが並び、不吉な合唱が男に降り注ぐ。
新野をつかむ角とは別の枝から、雷となってそのカラスを鹿角が急襲する。
放射状に開いていく角とそれから逃れるカラスたち。
まるで戦闘機の空中戦だ。
カラスの飛翔はさすが鳥類とだけあって見事だが、その軌道をじっと男は見つめていた。
そして不意に、カラスの翼を角がかすめ始める。
慌てたのかカラスたちの鳴き声があたりに響き、その近くなった声に新野もようやく気が付いた。
カラスたちは皆、低空飛行を余儀なくされていたのだ。
角の軌道から逃れていたはずが、実際は下へ下へと誘導されていた。
森の枝が網となって、カラスたちの動きは制限されてしまう。
そうすればもうそこは、鳥類の楽園ではない、鹿の狩場だ。
天から降り注ぐ角の雨にカラスたちが何羽も落ちていく。
その慈悲無き刃を背負う男は足を止めた。
追撃者はもういない。
残されたのは地面に同じく放り出された、新野だけだった。
時を同じくして龍王の頭に降り立ったのは、頭の一部が白い大鴉。三本脚のその鳥は橙の髪の上で羽を休める。
「お、重い……」
首を曲げて抗議する龍王の声など全く無視して、本来の姿になったカラスの王が嘴を開いた。
『おいおい俺らがあと何羽無駄になれば、あのクソ鹿を止められるってんだ。龍王てめえ、なんで行かせた』
その言葉に他の面々は驚く。
「ちょ、ちょっと、お兄さんが連れてかれちゃったのよ? いいの?」
それがわかっていて、止めることもできたはずの龍王は黙る。
「うん……本名さんがなにを考えているのかわからないから、反応が遅れたんだ。なんてのは、言い訳なんだよね」
「なんだよそれ。さっきの奴、見るからにやばかったじゃねえか。狼王のおっさんとも戦えてた奴だろう? ニイノは無事なのか」
龍王の態度に苛立ちを少し覚えたブラウが早口でまくしたてる。
それにいっそう龍王はうなだれるが、ロットは首をかしげる。
「なんなんだあの男」
「えと……。本名櫛奈さん、鹿の王のテュラノスでテュラノスとしては古株みたい。わたしの印象としては真面目で怖いって感じ」
「龍王の敵になりそうなのか?」
「全然よ。狼王と並んでわたしたちをひっぱってく存在だったのよ? 邪龍王の側につくとも思えないもん。てか、そこはどうなのよ、あんた本当はなんか知ってるんでしょ?」
『んう?』
神子の噛みつく勢いにカラスの王は首をかしげる。
「とぼけないで。本名さんがなにを考えてるのか知ってるんでしょ?」
「それは僕も知りたいな、銀」
龍王の静かで真剣な声に、数秒黙考していたカラスは答えた。
『さあな、知っててもわかるかよ。人間の考えていることなんか。でもま、お前らが心配してるあの龍王のチビがやられることはまずないだろうな。あいつはチビのために動いてるみたいだぜ、それが俺らに迷惑極まりないとしてもどうでもいいだろうな。なにしろあの鹿野郎こそ、もっともあれだ、目的のためならなにをするのもためらわないし厭わない。狼王より厄介度は高えよ』
カラスの王は再度首をかしげる。
『お前それがわかっててチビを連れていかせたのか? 火龍を食うよりはいいと思ったのか』
「さあ……、でもそうかもしれないって思ったよ。本名さんならきっと、新野の味方」
『わかんねえよ、あいつがチビの味方? 違うだろ、あいつは人間の味方だ』
カラスの王の言葉に、龍王の瞳が揺らぐ。
「なあほんとに助けに行かないのか? ニイノを!」
ブラウの言葉に更に龍王は迷う。
その頭の上でカラスの王は翼を開き甲高く鳴いた。
『ならお前は行きたいんだよな? いいじゃねえか、なあ?』
カラスの王に唐突に示されたブラウは面喰う。大鴉は声を出して、ヒトの真似をして笑ってみせた。
深い森の中は日差しも遮断して薄暗い。
そこで新野は絶対零度の視線で見下ろされていた。
その視線に怯えそうになりながらも負けないように見つめ返す。
男は眼鏡を取り出しかける、そして小さくため息を落とす。
少し柔らかくなった男の瞳からはテュラノスのしるしも輝きも消えている。
すとんと新野も緊張から解放され、するとどっと疲れが全身を襲う。
男と新野が衝突しかけた原因、それは新野の背後に落ちている数羽の鴉。
それらはみなぐったりと寝ているが、皆震えている。生きてはいる。
角に貫かれたはずの鳥たちは、次の瞬間には新野の翼の虹に包まれていた。
「それが君の力か」
男が仕留めたはずの鴉たちを、新野は治してしまった。
その声色は感情がこめられていなかったが、続く言葉はおそらく嘲りのものとなるだろうと新野は身構える。
「素晴らしいな」
しかし予想外に、直球の褒め言葉だったことに虚をつかれた。
新野を縛る白い靄が霧散していく。
自由になった体を確認しつつ、新野はおずおずと問う。
「これは、逃げていいってことか……?」
「勘違いをするな」
ぴしゃりと放つそれはひどく冷たく、ゆるみかけていた体も心も新野は再度正された。
男は近くの幹に背中を預ける。
「話をしよう、龍王のテュラノス」
提案に返答もできないでいる新野の戸惑いに気が付かない様子で男は続ける。
「追手は来ない、しばらくは二人きりだ」
その追手が何故来ないのか、などということはどうでもいいし念頭にすらないような口ぶりだった。
「自己紹介から始めるべきか?」
小首を傾げて聞いてくるので新野は気勢をそがれてうなだれる。出会って間もない時間しか経っていないが、この男が新野の話を真摯に聞くタイプでないともうわかってしまった。彼は人間だろうが、会話をする時の雰囲気は狼王やカラスの王など、どちらかといえば動物たちの雰囲気だった。
「……どうぞ」
「私は鹿の王のテュラノス、本名櫛奈だ。君の味方だ、おそらくこの世界で唯一のな」
「……は?」
目を見開いて男――本名の顔を見返す。
その眼鏡の向こうの目はまっすぐで嘘偽りなどみじんも見えなかった。




