キャッチノット・シャドウ
子どもの頃から夢は動物園の飼育員さん。
学がない頭でも運とコミュニケーション能力が人並みにあればなれる職業。
ただ動物が好きということは大前提だった。就職してみると、不思議なものだった、周り全部が自分と同じくその「動物好き」という特性を持った人間であることが。
この特性をもった人間は得てして皆、少し奇妙なところがあった。
人間嫌いであったり、ゲテモノ好きであったり、ゲームやマンガに没頭していたり、果てには臓器に興奮したりする変人もいた。
でもそんな中自分はごく普通である自信があった。
そう胸を張ると、職場の人たちは皆否定してきたが。
「いやいやいや! 変でしょ新野くん! なんかマイペースっていうか、驚かないっていうか」
「いつも心が平坦すぎます。冷静で気持ちの切り離しが上手なのはいいんですけど……」
「誰だってさあ、初めて動物死んだ時はショック受けるし、片づけるの躊躇したりすんのよ? でもあんた一瞬だったよね、ほんとすぐに死んだカンガルー袋につめてたよね。袋小さいからかなり押し込まなきゃだったのにさあ。頭がうまく入らないっす、とか言ってたよねえ~。最近のガキは怖いって思ったわあ」
などと散々に冷酷な奴だなんだと言われていたことがあった。
言われるたびにお得意の、曖昧な笑いを返してきたが、今ならはっきりと否定し返すことができる。
「今俺は、信じられないくらいにびっくりしてますから……」
人生最大の、驚愕値ですよ。なんて口の中で呟きながら、新野はへたりこんでいた。
もともとぼさぼさな髪は更に乱雑になっており、そこからはらりと葉が落ちた。
座り込んだ新野に燦々たる陽気が降りかかり、手のひらは新緑に輝く草原をつかんでいる。
目を開けたらそこは、森でした。
「とか思ってる場合じゃないわ!」
開口一番叫び起きた新野はそれからずっとぼうっとあたりを見回している。
しかしいくら観察しても紛うことなき森でしかなかった。柔らかに吹く風に、さざ波に似た音を奏でながら木葉が揺れている。鳥の声がその音の中に混じって聞こえ、耳をすませれば小さく流水音も聞こえる。どこかに川でもあるのか。手の近くに生えた野花に触れると、これは夢でないという現実感が全身を襲う。
夢ではない。
自分は森にいるのだ。
しかし気を失う前の、最後の記憶でまざまざと思い出される冷ややかな恐怖と浮遊感を新野は忘れていなかった。
混乱しそうになるたびに頭を振って、なんとか現状の分析に試みる。
「渋谷で混沌をのぞいてたら? 変な奴に声かけられて? それで……」
目が冴える橙色の髪と瞳をした少女が現れた。
新野は自分の胸を見下ろす。ちょうど心の蔵があるところに、風が直接当たっている。スーツの上着と白いシャツにぽっかりと穴が開いている。
少女が現れた時、新野の体は全く動かなかった。その理由はわからなかったが、
「これがなあ、何故か開いてんだ」
口端をひくつかせて服の穴に触れる。体には傷も違和感もないのがまた意味がわからなかった。
とにかくあの穴を落ちたのは間違いがないと思っていた。しかし目を覚ませばこの風景だ、新野は上を見上げる。
晴天がなんの変哲もなく広がり、太陽が中天に達している。白い雲がゆっくりと視界を横断している。
「なんなのよ、ほんと……」
呟き、重い溜息を吐いたその時、
横の茂みが大きく動いた。
反射的に振り返る。周囲の音は急に聞こえなくなり、茂みを注視する。猪や蛇が茂みから現れる想像が脳裏をよぎる。
しかし茂みにはもう動きが無い。新野は極力静かに膝をたて、腰を浮かせた。
目の端に黒い影。
もう、動けなかった。映画で殺人犯に追い詰められた標的は、言葉を失いただ震えていたりする。その展開を見るたびに「動けって、逃げろ逃げろ!」と野次を飛ばしたこともあったが、もう飛ばさないことをここに誓った。
蛇に睨まれた蛙。動いたら殺されるかもしれない次の瞬間が怖すぎて、なにもできない。
茂みがまた揺れる。その拍子に右から黒い影が飛び出してくる。
断末魔が耳をつんざく。新野の肩が跳ねた。
茂みにいたのは白黒ぶち模様の兎だった。その体はどんどんと真紅に塗り替わっていく、短い手足が咀嚼されるたびに奇妙に揺れて、骨の割れる音があたりに木霊する。兎の内臓が草原にこぼれ、鮮血が噴出していく。
その光景に新野は固まっているのではない。仕事で兎を生餌として与えた時と同じ光景だ、むしろ懐かしい。
しかしそれは見慣れた肉食動物が食んでいたならばの話。
目を見開いたまま、新野は指先まで硬直していた。
眼前で兎に夢中になっているのは、ヒトだった。
しかし、尋常ではない。兎を貪っているその姿が、漆黒。耳も髪も服もない、画用紙に塗り広げられたクレヨンのようなざらざらとした質感の全身が黒色。地面に四つん這いになり、頭の半分を占める口腔を開き、巨大な乱食い歯を存分に使って食事をしている。
景色にこの異様な存在だけが浮いていた。
硬直は長く続けられない。足は疲労し、主の意思に反して後じさりを起こした。
草を擦る音に、自らの足なはずなのに一番驚いたのは新野だった。
黒いヒトの頭がものすごい速さで振り返る。その頭の動きが梟と同じだ、首が異常にねじれている。
その顔を見て新野は叫ばなかった。いや、叫んだつもりが喉から声が出なかった。
ヒトの頭は下半分が口で、上半分はトンボと同じ目をしていた。複眼がびっしりと黒い頭を埋めつくしている。
無数の目玉がそれぞれてんで違うところを見回すために動きまくっている、その中のいくつかは新野の姿を映していた。
そのヒトの、筋肉が躍動する。
「いてえっ! あ……!」
新野はあっさりとヒトの体当たりをくらい、背後の幹に背中を打った。つぶった目を、恐怖がこじ開ける。
前方に振りかぶるヒト。
「っおわあ、ああ!!」
獣じみた叫びをあげて新野は横に逃げる。硬直がぬけきっていない足はうまく動かず、上半身を投げ出した形で倒れた。後ろで幹の砕ける音がする。それを見ている場合ではない、咄嗟の勢いに身を任せて、新野はもがく。なんとか立ち上がりその場から走り出した。
背後から樹木の倒れる音が聞こえていたが、一顧だにせず走る。
いつもの何倍も疲れるのが早かった、息はすぐあがり片腹が痛くなった、足は全然動かず進みは遅々としていた。
立ち止まりたい、振り返りたい、果たして今追われているのか? まっすぐに逃げているのか?
そんな考えがようやくうっすらと頭をよぎった頃には新野の息はすっかりあがりきっていた。全身が重く両足が痛い。のどの痛みに音を上げて、たまらず大きな岩の影にへたりこんだ。
両足は震え、呼吸音がうるさい。これでは隠れることなど出来ない。移動を止めることはできず身をかがめたまま岩から茂みへ、その茂みの中を移動した。しかし数歩でその茂みが揺れる音がうるさいことに気づき新野は動きを止めた。
両手で口をふさぎ、呼吸を繰り返す。何十秒か何分か、じっと縮こまり息が少しずつおさまってきたのと同時に周囲の音が耳に入ってきた。
沢の流れる音がする。
先刻の草原よりずっと薄暗いのは、いつの間にか森の奥へ入り込んでいたからだった。
乱立する木は一様に広葉を横幅に茂らせている、陽の光はその葉の間に見えるばかりだ。
おっかなびっくり周囲をうかがう。
静かな森が続いている。
(いないのか? さっきのはもういないのか?)
額から噴き出た汗が流れてきた。暑くてたまらず上着を脱ぐ。腰に巻いていると、沢の流水音が気になった。ここからそう遠くないだろう。
化け物の存在がひどく恐ろしかったが、のどの渇きが耐えられないために新野は動き出した。
茂みに隠れて動く自分が冷静になると馬鹿馬鹿しく思えるが、とても立ち上がる勇気はなかった。
やがて木が開けて岩の隙間を流れる小さな沢を見つける。透明な水を目の前にして衛生的にどうのなどと気にすることはなく、躊躇なく飲む。
「あー、うま……」
一息ついた直後、新野は顔を振り上げた。木々の間に立っていたのは、雌の鹿が二頭。
「な、んだ、びびらせんな」
肩から力を抜いて、新野はゆっくりさがる。太い木に背中を預け両足を投げ出した。
鹿の一頭は新野をじっと見つめ、もう一頭は水に口をつける。彼らは存外大胆である。
渋谷ではない方の動物園では、野生の鹿がよく園内を徘徊していたので、鹿は見慣れていた。むしろ鹿がそばにいることで安心する。
これなら先刻の化け物が出てきても鹿が先に気づくだろう。
新野の頭に兎が襲われた時の事が再生される。
あの時新野はヒトの化け物の出現に全く気付かなかった、しかし野生動物ならば新野よりもずっと周囲の気配に敏感だろう。きっとあれが近づいた時気づいてくれる。
ただでさえ目の前の新野に緊張している鹿だ。見張り役に徹している一頭の存在が、新野に少しの余裕を与えた。
沢の頭上は葉が開けているので空がよく見えた。どれくらい時間が経ったがわからないが少し陽が落ちてきている。
このまま夜になったら、どうしたらいい。
「ここ、どこよ……」
全身は非常にだるい。もういくらも動ける気がしない。どこかに身を潜める必要があるのはわかるが、新野は疲労から考える気力も失っていた。
ぼんやりと鹿を見つめる。見張り役を交代して、大きな体のほうが新野や周囲を警戒していた。
ぼうっとしたまま、口を開いてみる。
「お前らはいいなあ、一人じゃなくて」
鹿は耳を小刻みに動かし新野を見つめる。
「誰か助けてくれ……」
ずるずると幹にたくした体が滑る。いかん、このままでは寝る、とぼんやり思う。
鹿を見ていると、園内の動物たちを思い出す。そして無意識に口に出した。
「サラマンカ……」
「サラマンカ?」
新野はぎょっと目を見開いた。
反復したのは、鹿の口だったから。




