まっさかさまに堕ちる日
「黙祷」
司会の慇懃な声に、その場にいる全員が目を閉じ思い思いに祈りを捧げる。
ただ一人新野をのぞいて。
新野はまっすぐ空を仰ぎ見ていた。
あの日、渋谷が混沌に堕ちた日とは真逆の晴天が、今日の空を覆い尽くしている。
渋谷でよく見ていた灰色の空ではなく、皮肉にもまるで病巣をなくしすっきりとしたように、この青い空は悠々と広がっていた。
黙祷が終わり、喪服の集団が解散する。
金髪に全く似合わない黒いスーツに身を包んだ新野は、集団から遠ざかり一人歩いていく。
スクランブル交差点の途中まで来て、眼前にそびえる無機質なフェンスに指をかけた。
それ以上は誰も近づけない――否、近づかない区間になる。
「危ないよ」
不意に背中にかかる声に振り返る。ちょうど同じ年頃の青年がいた。
「フェンス。脆くなってるところもあるらしいから」
「ああ」
フェンスから手を離した新野に向かって、青年はほっそりと微笑んだ。
「君も誰かをその穴になくしたの?」
「いや……」
青年の問いに濁った答えを返しながら、新野はわずかに違和感を感じていた。普通、そんなことを聞いてくるだろうか? たしかに今回、慰霊の会に出席している人物たちは、渋谷の事件によって身内や知り合いと別れた人たちだが。
渋谷で電話越しに話した課長の声を思い出す。職場の動物たちと同様に、彼もまたあれ以降行方不明扱いとなっている。もしかしたら親族が今日来ていたかもしれないが、新野とは面識がない。
新野はその課長の慰霊で来たわけではない。新野の中では彼が死んだとは到底思えなかったから。動物たちも死んだなどと全く実感がない。だからこそ黙祷なんて何を祈ればいいかわからなかった。
「大変だよね、こんな大きな穴が開いちゃって。落ちたらどうなるんだろう? 下はどうなってるのだろう?」
「普通に土だって、政府は言ってるな」
会話すると余計に違和感が強くなる。口調こそ明るいが、青年の表情は動かない。
「え、それじゃあ、渋谷はどこにいったの?」
「さあ。知らねえよ……」
新野は胡乱げな目で青年を見返す。詰襟の、漆黒の衣装は慰霊の会にそってはいるが、混沌に関してはばかりなく聞いてくる様子がなにかおかしさを感じさせる。
「で、君はなんで今日ここに?」
「は? そりゃあ……」
来るべきだと思ったからだ。来なければ、渋谷はもう自分の中で忘れられた存在になってしまうと思ったからだった。
「忘れちゃいけない、と思ったから」
独りごちるようにぼそりと言う。
「へえ。なぜ?」
「なぜって」
「だって君はなにも失くしてないんだろう? だったら渋谷のことは忘れて、もう日常に戻ればいいじゃない? たしかにショッキングなことではあるよ、でも君の日常を瓦解するほどの影響は無いように思う。ひきずって気落ちして陰鬱と暮らすよりは、さっぱり忘れてまた普通に暮らすほうが、よっぽど健康的だ」
あまりにも青年の声は軽く、よどみなく出てくる。思わずひるみそうな新野は視線に力を込める。青年の言っていることは、確かに新野だって考えたことがある、しかし今日は悩んだ末ここに足を運んだ。
「そりゃ俺はそんな固執するような被害受けてない。でも被害者だけが渋谷のことを嘆いててどうなる? かわいそうだ、残念だって言ってて、どうなるんだよ」
言葉を選ぶこともなく、ただ思うままに新野は続ける。
「確かに動物たちも課長たちも、穴に落ちたかもしれない。それはすごく不憫で、残念なことだよ。でも俺には関係ないんだ、俺がそれをずっと憐れんでるのは変だし、するべきじゃねえ」
「じゃあ同情はしてないってこと?」
「そうだ、落ちた奴らのことを俺は考えてない」
子どもを産んだばかりのサラマンカがいた。彼女は初の出産を無事終えて、これから子育てにいそしむ予定だったのだ。新野もそれを限りなく補助しようと思っていた。子どもを、ティカを美しくしたたかに成長させることにサラマンカも新野も夢見ていたのだ。
その夢は唐突に潰えた。
渋谷が落ちた時、その夢もともに奈落に落ちたのだ。そのことに絶望した時期は確かにあった。
しかし今の新野にその感情はもうない、あるのは――。
「俺をかわいそうって言う人たちはいる。そうかもしれない。でもそれを言ってどうなる、とうに俺は俺をかわいそうなんて思ってねえのに」
そうだ、と胸にぽつりと火が灯った。
同情され優しくされるたびに、新野が感じていた正体がわかった。
「どうして、渋谷は落ちたんだ」
それは、憤りだ。
感情の灯は大きくなり、炎へと燃え上がる。
「こんなことが、なんで起こる!」
自分はずっと憤怒していたのだ。
理不尽な混沌。それを甘受した世間。全てに新野は訝しみ、怒りを感じていたのだ。
自覚した怒りに、我慢ならずこぶしが強く握りしめられる。
「成程」
急に背筋を怖気が走った。
一瞬だった。閃光が目の奥を襲い、視界は白くはじける。非常に冷たい風が頬を切り付けるように通り過ぎた。
直後肩に衝撃が走る。
ちかちかする視界は地面ばかりを映していた。破損したコンクリートがばらまかれている。
頭はいっこうに働かないが、ぼんやり自分が倒れたことを自覚した。
(は? え、なによこれ)
混乱極まる中、目だけが周囲をうかがう。
倒れた自分にだれかが覆いかぶさっている。重みはさほど感じない、軽い何者か。どうやらその人物が、新野を地面に押し倒したようだ。
伏したまま、片目でぐるりと見上げてみる。白くて細い腕。それと橙の長い髪。
目を見開いた。たしかにあの少女だ、動物園で謎の言葉を残した、あの少女だ。
「なんで、こんなことをするんだ!」
膨大な怒りをなんとか抑えて、絞り出したような怒号が新野の上から発せられた。
少女の声だ。
「やめろ! 彼は、ニイノはなんにも関係がない!!」
「関係ない? よく言うな、わざわざ地上に出てまで会いに行ったくせに」
ぞっとするような低い声が少女の叫びに答える。すぐには合致しなかったが、それはたしかにさっきまで会話していた青年のものだった。
じわじわとコンクリートの固さと冷たさが頬から伝わってくる。しかしなぜか手足の感覚はまるで無い。
「だからって、なぜこんな……! こんな、ことを……!」
少女は嘆いているのではない。地底を這うような怒りの声色。全力で自らの怒りを抑えつけている。
それに対して青年の声は絶対零度のごとく、一切の揺らぎなく吐き捨てる。
「お前はいったい、何度同じ過ちをするんだ」
「過ち? お前が、お前が言うのかそれを!」
「お前が過ちを犯すたび、そのたびに俺はこうして臭い大地に立たざる負えなくなる。もうこれを最後にしてほしいもんだな」
青年の言葉に少し嘲りが含まれたかと思うと、新野はぎょっと目を見開く。
視界が急に、反転し真っ黒になったからだ。
「ニイノ!」
少女の絶望的な呼び声が、遠くはるか頭上から聞こえる。
体の感覚が無い新野には、自分がいったいどうなったのか判然としなかった。
ただ目だけは動く。自分の周囲は急に光を失くし、ものすごい速度で滑っている。
(ああ、これは――なんの冗談だ)
意識が闇に落ちる寸前、現状を理解した。
新野は深い穴底を、渋谷の混沌へと落下しているのだ。




