バットペニー・カムバック
2017年7月。都内某動物園にて、新野は額に浮いた汗をぬぐった。
比較的高地に位置する園内では、7月上旬の今でもまだ朝晩は肌寒い。しかし開園前の清掃作業中は、体を動かしている分熱をもち暑くなるものだった。
蛇口の水を止め、ホースを手早く輪状に巻く。それを所定の位置に戻した後、足早に移動する。動物園飼育員になりたての頃、歩きにくさになかなか慣れることのできなかった長靴も、今では全く気にならなくなっている。
「サイ終わりましたけど、次なにしましょ?」
戸口からひょっこり顔を出して伺うと、新人教育中の先輩飼育員が振り返る。
「早いな、じゃあ次カバやっといて」
「あーい」
適当な返事をして颯爽と去っていく新野の後ろ姿を、先輩である男性飼育員は見つめている。
つい先週入園した新人は、その見つめる姿を不思議に思った。
「新野さん、でしたっけ?」
「うん? そうだな。まだ話したことないか。金髪だしピアスだし目つき悪いしで、印象悪いからなああいつ」
散々な言いようとは裏腹に先輩はからからと笑った。その様子から新野の印象は言葉とは逆のものを感じる。
「いい人なんですね。仕事熱心に見えます」
「まあな……」
妙な含みをもって先輩は黙り込む。新人はその沈黙に困惑する。ふと続いた言葉は、新人に向かって言っているというよりも、ぼんやりと独り言を言っているようだった。
「新野は渋谷動物園から来たんだよ」
その言葉に新人は驚愕した。2013年に渋谷のど真ん中で開園した、記憶にも新しい都市型動物園だ。お世辞にも広大とは言えない敷地内には、ふれあいのできる動物が中心に展示されていて、新人も何度か足を運んだことがある。
華やかで新しい動物園、だった。
今ではそのイメージはことごとく壊滅してしまっている。
渋谷は開園の2年後に陥没してしまったのだから。
「渋谷に入園して、ようやく担当動物がついて、その矢先の災害だからな。同僚も何人か亡くなられたらしい」
新人は言葉を失う。
世界を襲う謎の大災害、そうテレビでは日夜報道されていた。現在、地球は文字通り穴だらけと化している。日本も例外なく、渋谷という繁華街を一朝にして失くした。原因不明で、天災のごとく防ぎようがない、大陥没。
渋谷動物園も開園してからわずかに2年で、その姿を消してしまった。
「だから人一倍頑張り屋だよ、あいつは。さてお前も負けずに、働け!」
「はい!」
新野の胸中など、新人には到底はかりしれない。しかしその背筋を正す程度には、彼を奮起させた。
――そんな先輩と新人の会話を、扉を背にして新野は終始耳にしていた。
会話の終わりとともに、新野も行動を再開する。
渋谷が落ちてから二年の月日が流れた。その二年間、新野は幾度も先刻の先輩のように、人に憐れまれる。新野の心中に同情し、優しい声をかけられることが多々あった。
ふう、と息をつく。
同情されることは嫌ではない。人の優しさを直に感じられることが、どうして不快になることだろう。
しかし新野はいつも、そんな扱いをされると落ち着かなくなる。どうしたらいいかわからなくなる。
大変だったろう、と気を使われるたびに曖昧に笑うしかできない自分に焦ってしまう。
「どう返したらいいもんかね……」
憐れまれても、なんと反応したらいいのか新野にはわからなかった。
自分は渋谷と一緒に落ちていないのだから。新野は自分を被害者などとはこれっぽっちも思っていなかった。むしろ運よく難を逃れたと思っている。なのに世間は自分を被害者と断ずるのだ。
だから今も。先刻の会話を聞いて、どう自分が思うのが正解なのだろう、と考えてしまう。
考えが全くまとまらないうちに次の作業場に着いてしまった。
新野が渋谷で担当した動物たちは主にふれあいが可能な種類だった。しかし今の職場ではこれとは全く逆の、人に脅威を与える恐れがある――いわゆる特定動物が相手となる。
獣舎の清掃を行うにあたって、まず動物を外の展示場に出さなくてはいけない。
普段飼育員しか入れない、裏側の出入口を通って、新野はカバの獣舎へと入る。
通路の片側には、片手で握りこめないほどの太い鉄格子が縦に並んでいる。その向こうには水の張ったプールがあり、オスのカバがのっそりと浮かんでいた。
新野の侵入に気が付き、カバは野太く、間延びした咆哮をあげる。空気を振動させる大音響と地を這うような低い声が、このつぶらな瞳の獣の声とは最初思えなかった。
「相変わらず悪魔みたいな声だな、っと」
壁から突出したバルブを、新野は両手でまわす。
すると連動して鉄格子の向こう、奥の壁が重たくスライドしていく。外の明かりが薄暗い獣舎を照らしていく。バルブをいっぱいに開けると、扉も全開になり、カバはプールからあがりのそのそと外を目指して歩いていった。
カバが全身出切ったところで、またバルブをまわしはじめる。扉を閉じて、動物のいなくなった獣舎を掃除するのが目的だ。
外の光がだんだんと細まっていく。
一瞬その光の柱に、影が横ぎった。
バルブをまわしながら、新野はその影にはっと意識を奪われる。
はじめ、鳥が外を飛んでいったのかと思ったが、それにしては影は大きく、鳥よりも遅く横ぎったのだ。次に想像したのは飛行機。しかし同時に馬鹿な、とも思う。
この動物園の上空を飛行機が飛ぶはずがない。
考えながらも扉は完全に閉まる。
バルブから手を離し、新野は清掃を開始するでもなく、外へと飛び出した。
もともと好奇心旺盛な性質なのだ、一度気になったら答えが知りたくてたまらなくなる。もう遅いだろう、と冷静な自分は思うが体は好奇心につき動かされていた。
外の展示場には、あらかじめためておいたぬるま湯の大プールがある。そのプールを見下ろす形でぐるりと客の通路があり、新野はそこに出た。まだ開園時間ではないため無人の通路だ。
と思っていた予想は見事に外れた。
通路には人影があった。
その人物を視界に入れたと同時に、新野は眉を潜ませる。
とても妙な、少女だった。
カバの展示場は客の通る道より窪んだ位置にある。そのため落下防止の柵で囲まれていた。
その柵に組んだ腕をのせ、あごものせて、カバを見下ろしている少女がいた。
服装が妙だった。スカートのような、ただ布が巻かれているようなところから、白い肌のすらりと細い足が伸びている。膝まであるロングブーツも、布が幾重にも垂れ下がる妙なデザインの上着も、とにかく全て漆黒の衣装。
容姿も妙だった。二つに結われた長い髪は鮮やかなオレンジ色。
黒と橙色をした少女は、じっと見つめる新野の視線に気が付いたのか、不意にこちらに振り返る。
驚くべきことに、その双眸も髪と同じ色に輝いていた。
「あ」
少女は新野をみとめて、そうぽかんと口を開けた。
少女は新野に向かい一歩踏み出す。薄手のグローブに包まれた手を新野にむかってのばす。
それに新野が自然と後じさりした時、
背後から人のどよめきが近づいてきた。
少女は鮮やかに身を翻し、颯爽と走り去っていってしまった。反対に男数名が息をきらせて新野に駆け寄ってきた。
紺色の制服を着た警備員たちが、ぜえぜえと息つく間もなく、
「だ、誰かこっちに来なかったか?」
少女のことを言っていると理解はできたが、即座に声が出なかった。
「勝手に入ったお客さんがいるって聞いてな、見かけたら連絡してくれ」
頷くと、警備員たちは去っていく。それは少女が走りさった方向ではなかった。
嵐のように過ぎた展開にまだ呆然としていると、
「おい君」
「どわああ?!」
突然足元にかかる声に新野は飛び上がる。振り返ると通路の茂みに隠れるように、膝をかかえた少女がいた。
走り去りこの場を後にしたと見せかけて、カバの池を一周し戻ってきたようだ。
ちょこんと小さくなったまま、オレンジの少女はこっそり話しかけてくる。
「おじさんたちいなくなった?」
「あ? ……ああ」
少女のいうおじさんとは警備員のことだろう。警備員が向かった通路はそのまま園内を一周するコースである。すぐこの場に戻ってくることはまずない。
ほっと胸をなでおろして少女は立ち上がる。間近で見ると、少女は十代半ばの、日本人とも外国人ともつかない容姿をしている。たれ目を細めて困ったように笑っている。
「ああよかった、おじさんたちの追いかけてくる顔マジ怖。もー説明する暇もないかんね! 待ってって言ってんのに全く聞いてない!」
身ぶり手ぶりで、警備員との格闘を説明する少女を見下ろしていると、新野はすっと頭が整理されていくのを感じた。
「そりゃお前が不法侵入者だからね」
警備員に連絡をとるべく、腰に差していた無線機を取り出した。口元に持っていくと同時に、
「ちょい待ったああ!」
少女は新野の腕にとびかかってきた。
「おお!? なにをする!」
「ちょっとちょっと待って! 今会ったばかりなのに、これから落ち着いて会話タイムでしょーが! そんな急がずとも、用事が終わったらすぐ帰るから!」
「用事?」
全身で邪魔をしてくる少女に根負けして、新野は少女に絡みつかれたままその双眸を見つめ返す。橙の輝きを間近から見て、その眼が自然のものなのだと知った。
「そう。それで、君はもしかしてニイノというんじゃないか?」
唐突に自分の名が少女の口からこぼれる。しかし新野はこの少女とは絶対に初対面だ。
無言を肯定と受け取ったのか、彼女は真剣な表情のまま新野を見上げている。
「サラマンカを覚えているか」
「サラ――」
反復しようとした新野の頭に、その単語の意味するところがはっきりと届く。そして新野は少女を乱暴に払いのけた。
突然のことに驚く少女は、見上げた先の新野の変化に眼をぱちくりとさせた。
目を見開き、言葉もなく固まっている新野。
「……大丈夫か」
少女はそっと問いかける。新野の心を無為に震えさせないように。そんな少女が気遣うほどに今の新野は異常だった。数十秒の静謐。ようやく落ち着きをとりもどしてきた新野の焦点が合ってくる。
「……サラマンカ、忘れるわけがねえ」
サラマンカは渋谷動物園で担当した動物のことだ。新野が担当した直後に妊娠が発覚し、子どもを生んだ。
「そう、よかった」
少女は満足したように満面の笑みを向けてくる。そして続く言葉に、新野は愕然とさせられる。
「サラマンカから伝言だニイノ。『ティカともども元気でやっている』。心配しなくてもいいよってことだろ、じゃあ確かに伝えたから!」
話している途中から、新野の手の中の無線機がしゃべりだしていた。開園5分前を告げる園内報告だ。それに急かされるように少女は早口で告げると、呆然とした新野をおいてまたも颯爽と走り去って行った。
あとに残されたのは、ただただ口を開け、職務も放棄して立ちすくむ青年が一人だった。
ティカとは新野が名付けた、生まれたばかりの子どものこと。本当に生まれたばかりで、同僚にさえ言っていなかった。知っているのは、自分と、親であるサラマンカだけ。




