五番目物〔切〕 呼ぶ
〔次第・名ノリ〕
〽 数へし影の 果てに来て、
断てぬ名ひとつ 胸に抱く。
——今宵は、客も、銭も、ない。落とすのは、あたしの、未練だ。
〔道行〕
〽 灯また灯と 夜を縫うて、
あの夜の辻に ただひとり。
センセを、置いてきた。「ついてくんな」とだけ。あいつは、何か言いかけて、やめた。賢いやつだ。
行き先は、あの夜の、場所。彼が、答えてしまった、街灯の、下。何年も、避けてた。今夜、行く。
〔出端〕
街灯が、いくつも、いくつも、灯ってる。足元に、影。一枚、二枚、三枚——もう、数えない。
ぜんぶ、こっちを、見てる。痩せた、薄い、何十枚もの、肩。増えていった、消えた人たち。みんな、ここに、いた。
影が、立ち上がる。いっせいに。
来る。
〔舞働キ〕
息を、止める。抜く。
〘地謡〙 抜けば閃く 白刃の風、
斬れば散れども また湧き出づ、
幾十の影 手を伸べて、
女ひとりを 攫はんとす。
多い。きりがない。手首が、鳴く。それでも、振る。前へ。奥へ。
〘地謡〙 ひと太刀ごとに 椿散り、
夜の闇を斬り 斬り開け、
ただ一念 いちばん奥へ。
影の壁を、斬り開けて、いちばん、奥へ。
——いた。
〔キリ〕
彼が、いた。痩せて、薄くて。でも、肩のかたちは、あの夜の、まま。
彼が、笑った。なつかしい、笑い方で。
——おいで。一緒に、待とう。
待とう。その一言で、ぜんぶ、わかった。彼は、もう、彼じゃない。終電の、あの女と、おんなじ。待つことだけに、なって、自分の名前も、忘れてる。
名前があるうちは、斬れる。——でも、彼の名前は、もう、彼の中に、ない。あたしの、中に、ある。
ずっと、呼べなかった。呼んだら、認めることに、なるから。あの人は、もう、いない、って。
息を、吸う。
あたしは、彼の名前を、呼んだ。——ひとつ。はっきりと。
〘地謡〙 呼ばれて影は ふと止まり、
千々の闇より ただひとつ、
まことの顔の 立ち返る。
いちばん奥の影が、ほんの一瞬——彼の、顔に、戻った。本物の。あたしを見て、目を丸くして、それから、泣きそうに、笑った。
「……やっと、呼んでくれた」
抜く。振る。ぽとり。
椿が、落ちた。いちばん、きれいに。
〘地謡〙 影みな消えて 灯は静か、
残るは女 ただひとり、
永き未練を 断ち果てて、
あとは、おのれの 影ばかり。
あたしの影が、一枚、だけ。もう、誰も、隣に、いない。
……探すもの、なくなっちゃった。
自販機で、缶コーヒーを、買った。微糖。あったかいの。……ふたつ。癖って、こわい。
ひとつを、ガードレールに、置いて、歩きだした。振り返らない。呼ばれても、もう、いない。
(と、留拍子。)
〔締めの都々逸〕
呼べばさよなら
呼ばねば逢えず
椿落として
ひとりきり
〔結び〕
〘地謡〙 天地あまねく 寿ぎの、
ひとつ届かぬ 夜の底に——
今宵ばかりは、その灯にも、
しづかに、ひとつ、降りるらむ。
〽 とうとうたらり……たらりら……
たらり、あがり……
——ららり、とう。
黒椿 了




