翁・序章 影
〔謡〕
〽 とうとうたらり たらりら。
たらりあがり ららりとう。
〽 天も寿げ 地も寿げ、
日月めぐりて 欠くるなく、
山は動かず 海は涸れず、
四方の国土 安かれと。
〽 鶴は千年を 舞ひあがり、
亀は万年 甲を経て、
民のかまどに 煙絶えず、
代々に栄えむ、千秋万歳。
〽 かくも目出度き 天地の——
その片隅の 夜の底に、
寿ぎひとつ、届かぬところ。
〽 灯の下 影は幾重に、
ひとつ、ふたつと 数へてみれば、
いつしか紛るる 誰が影ぞ、
呼ばれて応ふな、夜のうつつに。
〔地〕
昔の話。あたしにも、隣を歩く人が、いた。
あの夜は、コンビニの帰り道。街灯がいくつも重なって、足元に、薄い影が何枚も伸びていた。一枚、二枚、三枚。電灯の数だけ、あたしたちの、影。
彼が、ふと、足を止めた。
「……なあ。影、ひとつ多くない?」
数えた。あたしの影。彼の影。そのあいだに、もう一枚。誰のものでもない、薄くて、痩せた影が、混じっていた。
その夜から、影は増えた。二枚。三枚。来るたびに、ひとつずつ。
影は、呼ぶらしかった。彼にしか聞こえない、声で。彼はだんだん、夜の窓ばかりを、見るようになった。
〔転換の謡〕
〽 灯ともる窓に 呼ぶ声ひとつ、
応へまじとて 堪へし果てに——
影は手を出だす、夜のあなたより。
〔地〕
止めればよかった。耳を、塞いでやればよかった。
でも、あたしが眠った夜に、彼は、答えてしまった。
「……なに?」
たった、ひとこと。
朝、隣はもう、空だった。代わりに——電灯の下に、影が一枚、増えていた。痩せて、薄くて、見覚えのある、肩のかたち。
あれから、ずっと数えてる。この街の、夜の影を。増えていく影を、一枚ずつ。
怪異は、名前があるうちは、斬れる。どんな未練だって、銭をもらって、落としてやる。
——でも。あの一枚の名前だけは、まだ、呼べずにいる。
斬れもせず、抱きもせず。
だから今夜も、灯りの下を、数えて、歩く。
〔締めの都々逸〕
影を数へて
ひとつ多いと
知ってしまった
影を追ふ




