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満月の晩。
命を救われたその時から、亜季の心はもうずっと奪われたままだった。
「また君か」
困ったように、呆れたように、けれど許されたように笑われ、亜季はほっと緊張を解いた。奏也の怒った顔など見たこともないが、今日こそは何度言われても姿を現す亜季に痺れを切らすかもしれないと、その程度の不安はあった。
「ご無沙汰しております。 奏也様」
だから、かける声も小さくなってしまう。
「……おそばによっても」
「どうぞ」
くすりと微笑まれ、亜季は口元を綻ばせた。枯れ枝を踏み分け、おずおずと奏也に近づく。
深い深い森の中。
ぽっかりとできた空間に広がる湖のほとりに、奏也は時折そうして座り込んでいた。何をするでもなく、ただぼんやりと澄んだ水面を眺めながら。
その横顔はどこか憂いに満ちている。人間には人間の事情があるのだろう。亜季には計り知れない、不安や、徒労が。もしも亜季が人間であれば、その苦悩の少しでも打ち明けてくれるのだろうか。そう思えば、この身が人間でないことがもどかしかった。
「失礼致します」
心中を隠しながら亜季は、奏也から拳ふたつほどの距離をあけて湿った土草の上に腰を下ろした。着物の裾がはだけぬように注意し、たてた両ひざを両腕で抱え込む。奏也が言った。
「元気そうだな。 安心した」
向けられた思わぬ言葉と微笑に、亜季は戸惑った。
それはきっと、奏也にとっては大した意味のない会話の一端。けれど亜季の胸の内には喜びが沸き起こってしまう。
会えなかった間、少しは自分のことを気にして、考えてくれていたのかもしれないだなんて。
「はい、何事もなく。 ……奏也様は、お元気でしたか」
「見ての通り、風邪も引いてやしないよ」
「それはようございました」
亜季が安堵し、はにかめば、奏也も穏やかに双眸を細める。暖かな風がふたりの間を吹き抜けて通り過ぎた。草木の懐かしいような香りがした。
「……お前と初めて会ったのもこのくらいの季節だったね」
ぽつりと言った奏也に、亜季も「そうですね」と続ける。
そうだ。もう十年も前になる。亜季はまだ幼い子狐で、仲間とはぐれてひとり森を彷徨っていた。狐は食料にもなるし皮は暖をとるにも便利で――だから亜季は大きな大きな鬼に襲われていた。粗野で乱暴な悪鬼は、大声を発しながら亜季を狩るのに夢中になっていた。
小さな四肢を必死に動かし、亜季は走っていた。
そこを助けてくれたのが、まだ見習いに過ぎなかった頃の奏也だった。空を覆うほど大柄な鬼の巨体を、奏也は、一瞬で斬り落とした。満開だった夜桜が血しぶきと共に飛び散り、亜季はそれでずぶぬれになったのを覚えている。先ほどまで雄たけびをあげて腕を振り回していた大鬼の首が、亜季の足元にごろりと転がっていた。
奏也は疲れた様子も見せず、淡々と鬼の亡骸を見つめていた。そうしてふと、そのそばで震える亜季に気づく。妖狐、と呟いた彼は亜季を見て困ったように眉を寄せた。
『お前、まだ子供だね』
亜季は返事をすることも出来ず、さりとて逃げることも出来ず、ただただ奏也を見上げていた。
『……お前が悪さをしないと誓うのなら見逃してあげよう。 いいね。 決して人にあだなしては駄目だよ。 その時は、わたしがお前を斬るからね』
亜季はこくこくと頷き、奏也が鬼の首をかかえて立ち去るのを見つめていた。
彼が陰陽師と呼ばれる魑魅魍魎を討伐する存在だと知ったのは、それから間もなくしてのことだった。他の妖が教えてくれたのだ。あれは危ない。決して近づいてはいけないと。
だけれど亜季はその陰陽師である奏也に助けてもらったのだ。彼にその意図がなかったとしても、結果として亜季は奏也に命を救われた。
以来亜季は、ことあるごとに奏也に礼を運び続けた。
珍しい木の実だったり、獲れ立ての川魚だったり。
奏也はそうして亜季が人に化けて現れる度に「また君か」と笑って「もう人里に来てはいけない」とさとしてきた。
けれど亜季は、奏也と話すこのわずかな時間を好いていた。
十年経った今も、その習慣は続いている。
奏也が帝という人に仕えるようになってからは警備が厳しくなり、彼の住む場所へ行くことは難しくなってしまったけれど。




