愚かな王子
大理石の床を乱暴に踏み鳴らす足音が、静寂に包まれた午後の執務室に響き渡った。
その足音の主が誰であるか、私は顔を上げるまでもなく察していた。分厚いオーク材の扉が、ノックの作法すら無視されて乱暴に開け放たれる。蝶番が悲鳴を上げ、壁にぶつかった扉が大きな衝撃音を立てた。
「エリシュカ! 貴様との婚約は、たった今この瞬間をもって破棄させてもらう!」
怒声と共に部屋に踏み込んできたのは、この国の第一王子であり、私の婚約者であるヴァーツラフだった。
彼の背後には、困惑した表情を浮かべる数名の王城近衛兵たちの姿が見える。しかし、彼らは誰一人としてヴァーツラフ王子と共に部屋の中へ踏み込もうとはしなかった。彼らはただ、扉の枠の外で彫像のように立ち尽くし、冷ややかな、あるいは呆れ果てたような視線を王子の背中へと向けている。
私は手に持っていた羽根ペンを静かにインク壺に戻し、丁寧に羊皮紙の上の砂を払ってから、ゆっくりと立ち上がった。
「……婚約の破棄、でございますか」
私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。悲しみも、驚きも、怒りすら湧いてこない。ただ、果てしなく深い疲労感だけが、鉛のように私の身体を重くしていた。
「いかにもだ! 貴様のような血も涙もない冷酷な女を、次期王妃としてこの城に置いておくことなど到底できん! 貴様が私の愛する『子供たち』に何をしたか、まさか忘れたとは言わせんぞ!」
血走った目で私を睨みつけ、ヴァーツラフ王子は唾を飛ばさんばかりの勢いで怒鳴り散らした。彼の言う『子供たち』という言葉を聞いて、私は思わず右腕を左手で押さえていた。衣服の下に隠された、包帯の巻かれた生々しい傷跡が、ズキズキと幻痛を訴えかけてくるような気がした。
王子の言う『子供たち』。それは、彼がどこからか買い集め、城の敷地内で放し飼いにしていた数十頭にも及ぶ双頭の猟犬――魔獣オルトロスのことである。
オルトロスは本来、深い魔の森に生息し、並の狩人や兵士では束になっても敵わないほど凶暴で危険な魔獣だ。二つの頭部には鋭い牙が並び、その顎の力は鉄の鎧すら容易く噛み砕く。知能は高いが、それはあくまで「獲物を狩る」ための狡猾さであり、人間に従順に仕えるような性質の生き物ではない。
しかし、ヴァーツラフ王子は「珍しいから」「恐ろしくて見栄えが良いから」という、ただそれだけの幼稚な理由で、莫大な国費を投じてこれらを買い漁った。
百歩譲って、頑強な檻の中で厳重に管理し、専門の魔獣使いに世話をさせているのであれば、私も口を出すつもりはなかった。だが、この第一王子は、オルトロスたちを「愛らしい自分のペット」だと勘違いし、基本的な躾すら一切行わなかった。それどころか、「檻に入れるなど可哀想だ」と言って、王城の庭園や一部の区画で彼らを放し飼いにしたのである。
結果がどうなるかなど、火を見るより明らかだった。
最初は、庭の小動物が惨殺される程度だった。しかし、血の味を覚え、人間が自分たちを攻撃してこないと学習した魔獣の行動は、急速にエスカレートしていった。
一ヶ月前、庭の手入れをしていた老齢の庭師が襲われた。彼らは遊び半分で庭師の足に噛みつき、引きずり回した。
三週間前には、見回りをしていた若い守衛が、三頭のオルトロスに囲まれて重傷を負った。
そして二週間前……洗濯場へ向かっていた幼い見習いメイドが襲われ、帰らぬ人となった。
城内はパニックに陥った。使用人たちは怯えきり、仕事が完全に手につかなくなった。私は婚約者として、そして実質的に城の内政を取り仕切る立場として、再三にわたりヴァーツラフ王子に抗議した。オルトロスたちを処分するか、せめて厳重な地下牢に移すべきだと。
しかし彼は、メイドが死んだという報告を聞いても、酒杯を傾けながら鼻で笑ったのだ。
『私の可愛い子供たちが少しじゃれついただけだろう。あの犬どもは賢いから、悪意のある人間にしか噛みつかん。襲われたということは、その者たちに何か私に対する反逆の意志があった証拠だ。』
狂気だった。
いや、狂気という言葉すら生ぬるいほどの、絶対的な無関心と傲慢。
そして三日前、ついに私自身が被害に遭った。
城の回廊を歩いていた際、物陰から飛び出してきた一頭のオルトロスが、私の右腕に喰らいついたのだ。護衛の騎士が咄嗟に剣を抜き、オルトロスの片方の首を斬り落としてくれたおかげで命は助かったが、私の腕には深く鋭い牙の跡が刻まれ、大量の血を流すことになった。
これ以上、被害を拡大させるわけにはいかない。次に襲われるのは、武器を持たない文官かもしれないし、城を訪れた他国の使者かもしれない。もし他国の要人がこの城でオルトロスに噛み殺されでもしたら、国際問題どころか戦争の火種になりかねない。
だから私は、腕の傷を縫い合わせる激痛に耐えながら、決断を下したのだ。
ヴァーツラフ王子が、湯屋の女たちを侍らせて三日三晩の酒宴にふけっている隙を突き、私は独自の権限で、隣国から来ていた懇意の魔獣専門の豪商オンドジェイに連絡を取った。そして、城内にいる全てのオルトロスを彼らに引き渡し、速やかに国外へと売却する許可を与えたのである。
もちろん、売却で得た資金は、犠牲となったメイドの遺族への見舞金と、負傷した者たちの治療費に全額充てた。
「……私は、次期王妃としての責務を果たしたまででございます」
私は静かに、しかしはっきりとした口調でヴァーツラフ王子に告げた。
「オルトロスは極めて危険な魔獣です。既に死者も出ており、城内の機能は麻痺寸前でした。王族たるもの、民と臣下の命を守るのが最優先の義務。躾もされず、人を襲う猛獣を放置することなど、到底容認できるものではありません」
「黙れ、黙れ、黙れ!!」
ヴァーツラフ王子は顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。その姿は、おもちゃを取り上げられた幼児そのものだった。
「私の許可もなく、私の所有物を勝手に売り払うなど、完全なる越権行為だ! 窃盗だ! 反逆だ! おい、そこでおとなしく見ている衛兵ども! 何をしている、この女を直ちに捕らえろ! 地下牢にぶち込んで、あの犬どもの代わりに首輪を繋いでやれ!」
王子は背後に立つ近衛兵たちに向かって声を張り上げた。
しかし、――誰一人として、動かなかった。
近衛兵の隊長であるカレルが、静かに一歩前に出た。彼は剣の柄に手をかけることもなく、ただ深く、事務的なお辞儀をした。
「……恐れながら、ヴァーツラフ殿下。我々には、エリシュカ公爵令嬢様を拘束する権限はございません」
「なんだと!? 私はこの国の第一王子だぞ! 私の命令が聞けないというのか!」
「殿下のご命令であっても、高位貴族であり、正式な王太子妃候補であらせられるエリシュカ様を捕縛するには、トマーシュ国王陛下ご自身の署名と王印が押された『正式な命令書』が必要となります。殿下の個人的なご感情に基づく口頭での命令のみで拘束を実行すれば、我々近衛兵が王法を犯すことになります。どうか、ご理解ください」
カレルの言葉は極めて冷静で、そこに一切の感情は混じっていなかった。だが、その瞳の奥には、ヴァーツラフ王子に対する明確な軽蔑の色が浮かんでいた。
カレルの後ろに立つ兵士たちも同じだ。彼らは皆、私の腕の包帯を知っているし、亡くなったメイドの葬儀にも参列していた。彼らにとって、諸悪の根源であるオルトロスを排除した私は、むしろ城の恩人なのだ。




