小説断章『ノートに記された最後の行』
――すべてを言葉にしては、いけないと思っていた。
灰色のファイルボックスを開けたのは、六月の曇天の日だった。
部屋の空気はぬるく、閉じきった窓の向こうには、梅雨入り前のぼんやりとした空が広がっていた。
「……これ、夫の字です」
赤木雅子は、ゆっくりとノートを取り出した。
A5判、表紙には「Official eco」と書かれた小さなロゴ。
指先が震えていた。いや、震えを抑えているように見えた。
彼女が見せたのは、夫・俊夫が亡くなる数か月前まで書き綴っていた記録だった。誰にも見せるつもりなどなかった。
だが今、自宅の押し入れにしまわれていたそれは、
「証拠」となった。
ノートの表紙裏には、こう書かれていた。
「これは事実の記録です」
「嘘は一行も書いていません」
そして、角の丸くなったページを繰ると、そこには名前があった。
「KAGINO」。俊夫が唯一、自分の手で記した「実名」だった。
それは本省の官僚の名だった。改ざんを命じた、あの男の名。
「8億は引きすぎです」
その文言は、ペンが一瞬止まったような筆致で、ゆっくりと書かれていた。
下には、太線の矢印と「指示あり」とのメモ。
赤木雅子は、そこに夫の迷いと怒り、そして諦めを感じていた。
俊夫は、言葉を大事にする人だった。
軽々しく誰かを責めることはしなかった。
だが、その“筆圧”は明らかに変わっていた。
「これは……彼の中で、誰かを責めることが“義務”になった証拠です」
雅子は、まっすぐに言った。
事件が起きたのは2017年。
大阪府豊中市にある国有地が、「森友学園」なる小学校法人に“特別価格”で売却された。
その額、1億3400万円。
しかし当初の評価額は9億5600万円。
値引きの理由は、「地下埋設物の撤去費」だった。
その「見積もり」こそが、後に俊夫が手を加えさせられた“改ざん文書”だった。
「汚れた見積書は、彼の手を汚しただけじゃない。魂も削ったんです」
赤木雅子は、声を抑えるように言った。
ノートの中には、誰にも言えなかった言葉があった。
「うまくいくわけがない」
「誰も守ってくれない」
「全ては指示だった、私の判断ではない」
文末には、何度も「指示」「命令」「上から」という言葉が登場する。
彼は「正義感が強かった」。
だからこそ、彼は壊れた。
俊夫が亡くなったのは、2018年3月。
職場復帰を目前に控えた朝、彼は一枚の便箋を遺して首を吊った。
その便箋には、「申し訳ありませんでした」の一文と、
妻と息子の名が並んでいた。
それ以降、赤木雅子の“第二の人生”が始まった。
静かな抗議。孤独な裁判。相手は国。財務省。
「法廷で、私は証言台に立ちました。だけど誰も、真正面から私を見ようとしなかった」
雅子は、東京地裁での一審判決を思い出していた。
国側の代理人は、彼女の目を見なかった。
「遺書は参考意見に過ぎない」と言い切った。
そのとき、彼女は言った。
「だったら、ノートを見てください。彼は“真実を伝えるため”に、命を削ったんです」
ある日、彼女のもとに一通の封書が届いた。
宛名は達筆な万年筆の字で書かれていた。
差出人は、元・検察官。
手紙には、こう記されていた。
「赤木ノートには、刑法239条(虚偽公文書作成等)に該当する記述が複数あると思われます」
「ぜひ告発を」
雅子は、一瞬、目を閉じた。
告発は、また彼女に苦しみをもたらす。
だが、逃げる理由はもうなかった。
2025年、六月。
ノートに記された最後の行が、メディアで報じられた。
「ごめんなさい」
その言葉は、赤木雅子にとって、ただの謝罪ではなかった。
夫が、最後の力で彼女に向けた“信頼”だった。
「君なら、きっと真実を伝えてくれる」。そう言っている気がした。
この日、彼女はひとり、裁判所前に立った。
手には、あのノートのコピー。
風が吹き、ページがめくれる。そこに、夫の字が現れる。
「真実を語れ」
その一行が、重く、深く、世界の端を揺らしていた。
【終】




