小説断章『二千円の米と沈黙する田んぼ』
第一幕:農家・高橋啓一(秋田・大仙市)
六月、田んぼの水が陽に照らされて銀色にきらめく。高橋啓一は、背筋を伸ばして育苗箱を並べながら、スマートフォンの画面をにらんだ。
【農水省:令和6年産米の標準価格、1俵2,000円で維持】
「……またかよ」
啓一は口の中でつぶやいた。その価格は、去年も一昨年も聞いた数値だ。けれど、JAが買い取ってくれるのはせいぜい1,850円。農協の担当者に聞いても、「調整ですから」と苦笑するだけだった。
「だったら最初から、“調整込みの現実価格”って言えよ……」
機械の音が静まり、遠くでカエルが鳴いた。
啓一は高校卒業後、父から農業を継いだ。減反政策、TPP、ドローン農法、あらゆる言葉が飛び交ってきたが、本質は変わらない。
「この国では、米は政治の道具だ」
「米が高いと選挙で票が取れる。米が安いと消費者にウケる。俺たちは、どっちでも都合いい駒ってわけだ」
毎年、彼の田んぼからは品質Aの米が出荷される。だが、「A」の意味など、市場には反映されない。
啓一は静かに、泥のついた苗の箱を手に、田の中へ戻った。
第二幕:官僚・松島俊哉(農水省生産局穀物課)
霞が関の9階、穀物課の会議室。松島俊哉は、印刷された資料のタイトルを確認した。
【令和6年産米価政策案(内部調整用)】
その右肩には小さく記されている。――「進次郎案件(留意)」。
「またこのタグか……」
松島はため息をついた。
ここ数年、「進次郎案件」という言葉が霞が関の中で暗黙の了解になっていた。
それは、小泉進次郎前農相が在任中に打ち出した「コメ価格2000円維持」政策を指している。
消費者目線を掲げ、JAとの距離感を強調する姿勢は、省内の若手には一定の支持があったが、一方で「農政族議員」と「JA本部」からの圧力は苛烈だった。
「2千円は政治的な数字だよ。現実じゃない」
松島は、農林水産政策研究所時代の恩師の言葉を思い出す。
――“数字が決まっていて、それに論理を合わせるのが農政の宿命だ”――
「現場農家には通じない価格設定だって、わかってる。でも、上は“やれ”って言う。JAと折り合いつけて、政務官に納得させて、記者会見で大臣が胸を張れるようにする。それが俺たちの仕事なんですか?」
松島は声を出さずに思った。
第三幕:若手政治家・村田理央(衆議院農林水産委員)
議員会館の執務室。村田理央は、配られた資料を読み終えて、眼鏡を外した。若干34歳。元農林水産省出身で、秋田1区から初当選したばかりの新人議員だ。
「2千円。JAと農政族がこれを“死守”するって聞いた時、心底幻滅しましたよ」
そう吐き捨てるように言ったのは、理央の政策秘書だった。
理央は黙ってうなずいた。
「票田だから。調整が難しいから。言い訳は山ほどあります。でも、それでいつまで現場を騙す気なんですか?」
彼は秋田の実家が農家だった。父が倒れてからは兄が継ぎ、理央は官僚の道を選んだ。だがその中で見たのは、「現実を見ない政治」の数々だった。
進次郎元農相が掲げた「脱・JA依存」は、当時は改革と呼ばれた。だが今や、「進次郎案件」は失敗の代名詞として省内文書に残り、実態は旧態依然に戻っていた。
「田んぼに真水を入れても、政策は濁ってる」
父が昔、口にした言葉が蘇る。
理央は、来月の委員会質疑で「2000円」の根拠を問うつもりだった。
でも、今も上層部からの圧力は続いている。「やりすぎるな」「JAとは敵に回すな」。
彼は静かに呟いた。
「なら、敵でもいい。俺は、田んぼの泥を知ってる」
終章:交わらぬ声、交錯する沈黙
夜。秋田の啓一の家には、テレビの音が静かに流れていた。
【――本日、農水省は米価政策について“2千円維持”を正式発表――】
彼はテレビを消し、冷えた茶を一口すすった。
「どうせ、また“お上の都合”だろ」
一方、霞が関では松島が夜の省内でひとりPCに向かっていた。
「現場の声」を整理して、政策補足文書に組み込もうとしていた。
同じ時間、永田町の会館では、理央が原稿を書いていた。
「なぜ米は“票”として扱われるのか」
タイトルをつけて、目を閉じた。
三人の声は、まだ交わらない。だが、沈黙の中で、同じ問いを抱いている。
「この2千円は、誰のための数字なのか?」
【了】




