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ALF  作者: 由城 要
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第3章1 妖精の国


 露草が頬を打った。湿った地面の感覚にルークはやっと重い瞼を持ち上げる。体は意識に反して上手く動いてくれない。とりあえず、視界に入った右手に力を込め、動かしてみた。5本の指がゆっくりとだが、地を掴むように拳を作る。まだ完全とはいかないが、もう少しすれば体も動かせるようになるかもしれない。

 ふと、耳元の雑草がざわめくような音を立てた。葉擦れの音だけではない。靴が草を踏み、木々をかき分ける音も混じっている。ルークは上手く働かない思考の中で、身体に動くよう命令をしてみた。けれど、動かない。視線だけをその音の方向へと向けて、目を細めた。


「……なんだい、珍しいね。行き倒れかい」


 足は見えた。女物の靴。声色からしてもその人物が女性であることに間違いなかった。ルークは何か答えようとしたが、出てきたのは息と小さな唸り声だけ。喋ろうとすると体の節々に痛みが走った。

 ルークは視線だけでもその人物の顔を見ようと、視線を上に上げた。すると、その女性は、ルークの目を覆って小声で言う。


「おっと、ちょっと待ちな。わたしゃ、スカートだからね。見上げられると困るから」


 若い女の人の声だ。けれど、その言葉遣いは何処か古くさいような感じも漂わせる。するとルークは突如感覚が反転したのをかんじた。どうやら俯せになっていた体を仰向けにさせられたらしい。一瞬痛みに顔を顰めたけれど、段々とその痛みも和らいできたように思えた。


「……おんや?あんた人間じゃないかい?ははん、あの扉の圧力のせいで脱力してんだね。大丈夫だよ、痛みはあるだろうけど折れてはいないさ」


 するとルークは半開きになった唇に何かを流し込まれた。小さな瓶のようなものに入っているそれは、無味無臭の液体。水だろうか?


「別に怪しいもんじゃないよ、ほら」


 少し強引に口を開かされ、口内に流し込まれる。一気に流れ込んだ水分にルークは噎せた。その女の人はルークを抱きかかえ、咳込んでいるその背中をさすってやる。


「……けほっ、けほっ……」

「これで喋れるようになっただろ?そんで?アンタ名前は?」


 咳き込む度に痛みはあったけれど、ルークは体を落ち着かせて視線をその女性に向けた。深海の色をした髪の毛。黒とも紺とも青ともとれる髪を1つの三つ編みに結んで、左肩からそれを垂らしている。悪戯そうな瞳と、白い肌。

 歳はレオナより上か、同じくらいと言ったところだろう。


「……ルーク、……フロー……」


 すると視界の中の女性は間をおいて豪快に笑った。


「そうかい。わたしゃ……カルナ。ここいらじゃそう呼ばれるね」

「ここ……は?」


 ゆっくりと身を起こそうとするとカルナは背中に手を回し、それを助けてくれた。まだ立てないので、とりあえず上半身だけ起こして辺りを見回す。


「……レオナさん、は……」


 ルークは辺りを見回した。けれどそこにはカルナの姿しかない。答えを求めるように視線を向けると、カルナは首を横に振った。


「ここに行き倒れてたのはアンタだけだよ…とりあえず、立てるようになるまで、もう少しこうしてな」


 ルークの体を巨木に背を預けるようにして座らせると、カルナは立ち上がって足下の草を払った。木々のざわめきが、心地よく耳を掠める。澄んだ風が、森の間を縫うように通り過ぎ、ゆっくりと消えていく。





「……それじゃあ、ここが妖精の国なんですか?」


 まだ覚束無い足取りで崖の近くまで行くと、木々の間から果てしなく遠くまで街が続いていた。所々に山がそびえ立っていて、その向こうにまた街が見える。集落のような小さい家々の集まりも望むことができる。

 ルークの想像に反して、そこは人間の住む土地と何ら変わりなかった。トリクの言っていた、「人間と変わらない生活」というのも、今なら頷ける。


「そうさ。そしてここは国王様の城下、クレーサっていう街さ」

「凄く大きい街ですね」


 そうだろ、と鼻を鳴らしてふんぞり返るカルナ。視線を眼下へと向けたルークは辺りを見回して見える限りの人々を観察する。道の1つ1つを見つめて、ルークは首を傾げた。


「……なんだか人間の国とあんまり変わりがない……?」


 すると後ろからカルナが大きな声で笑い出した。突然の事に、ルークは驚いて後ろを振り向く。崖の横の坂から街へ降りようとしていたカルナが、腹を抱えて笑っていた。


「くくっ、ははははははっ!そりゃそうさ!妖精は小妖精だけじゃあない。むしろこうゆう街とかは人間の大きさをした奴の方が多いんだよ」

「そ、そう……なんですか?」

「そうさ。それじゃあ、何も知らない人間様に、観光旅行でもさせてやるかね。ついて来な!」


 手招きをするカルナに、ルークは満面の笑みを浮かべた。見知らぬ土地、そして妖精。一時、この世界を見て回るのも良いかもしれない。なにより、ルークの探求心の大きさは誰もが認める位なのだから。


(もしかしたらレオナさんも街にいるかもしれないし……)


 舗装されていない獣道をカルナの後を追いながら歩いていく。時折滑り落ちそうになりながらも、ルークはカルナの手を借りて街へと降りた。


「クレーサってのは城下街さ。王様がいるのはもうちょっと離れた所なんだけどね。ちなみに国王の名はバルク・セラヴル」


 しばらくして街の外側の街道に出た。先程上から見た城下の風景と違ってここは少し田舎のように見える。所々に小さな林があり、家や店がバラついている。カルナは持っていた袋を肩に背負うようにして歩き始めた。ルークもその後ろをついていく。


「っま、国王っつってももう歳さ。新しい王を決めるために今色々とゴタついてる」

「王様って、長男が継ぐんじゃないんですか?」


 道にそって歩いていくと、家々が密集しだした。端から見ると人間のつくるそれと何ら変わりはなかったが、よくよく覗いてみると見たことのない文字の看板が見える。どうやら、レオナの家の書庫で見かけた妖精の国の地図と同じ文字に見えた。崩し方も書き方もそっくりなのだ。

 カルナはその紺色の三つ編みを揺らしながら、大股に足を進める。


「母親が一緒なら問題はないさ。けどね……4人とも母親が違う。1子は資産家で有名なセルディール嬢の子、2子は南の海岸周辺で権力を振るうアレース家の長女との子、3子はアンシーリィ・コートと繋がりがあると言われているサルト嬢の子、4子は何処の誰だか知らないクロートレンと名乗る女との子……まぁ、2子と3子は完全に政略結婚」


カルナの持つ袋が歩く度に盛大に揺れた。ルークはその様子を見上げながら、王室の複雑な人間関係に驚きの声を上げる。王都でもそうゆう噂はよく聞くけれど、実際自分の街にはあまり関係がないので、実感がわかない。


「凄いですね……偉い人って大変そう……」

「いやいや、大変なのはここからさ」


 ちっちっち、と指を動かすカルナにルークは首を傾げる。人通りの多くなってきた道。やはり近くで見てみても、妖精と人との区別が分からない。時折目の前を通り過ぎる小妖精以外は、人間の国にいても見分けがつかないかもしれない。


「こうゆう時は国王様の任命になるんだ。けど、どうやら国王様のお気に入りは4人目のお后……つまり何処の誰とも知らない女なんだよ。ま、恋愛結婚だから当然って言えば、当然さね」

「そっか……それじゃあ、周りが許してくれませんよね」


 カルナはルークの目を見つめ、ゆっくりと頷いた。


「けどその4人目のお后って言うのが、今行方不明なんだよ。第4子も一緒にね」

「え……?それじゃあ……」


 向こうから来る妖精達にぶつかるのを避けながら、ルークは首を傾げる。カルナは視線を道の向こうにむけて、袋から出した地図らしきものを取り出した。


「4子を探せってんで城は大騒ぎ。出てこられちゃ困ると思ってる他の王子達も大慌てさ。……おっと、買い物があったんだ。ちょっといいかい?」


 ふと足を止めたカルナにルークも立ち止まり、その店を見上げた。煉瓦らしいものを積み重ねて出来ている店の看板は、何と書いてあるのか分からない。けれど装飾された看板の横に何やら薬の瓶らしき絵が描かれている。薬屋だろうか。


「ちょっとここで待ってな」


 そう言われたルークは頷いて、入り口の前で道行く妖精達を眺めていた。本当に人間と何ら変わりがない。まるで、人間の国にいるような感覚だ。街の賑わいも、行き来する者達も…。

 小妖精の子供らしい、更に小さな妖精が飴玉のようなものを持ってはしゃいでいる。その奥には縄跳びをする人間の子供くらいの大きさをした妖精。聞いたことのない遊び唄を唄いながら駆け回る子供達。親に手を引かれて歩く妖精。その幾つもの笑顔。ルークはふとそこから目を逸らした。

 見たくないわけじゃない。人間の国でもそんな微笑ましい風景を何度も見た。微笑ましいと心から思った。


(……どう、したんだろ……)


 孤児院にいた頃も、こんな想いをしたことはなかった。同じ院の子供の中にはそうゆう光景を見るのが嫌で外に出なかった友人もいる。けれど、ルークはそんなこと思わなかった。けれどいつの間にか視界が滲んでいる。


(どうして僕、こんなに……)


 悲しいんだろう。


 風が頬を撫で、前髪を揺らして通り過ぎてゆく。耳元を擽る微風は心地よかったけれど、心には痛みしか与えなかった。木々のざわめきをこんなに不快に思った事はない。街の喧噪に耳を塞ぎたくなったこともなかった。


『天の目の如く光揺れ

幾許清き風は吹く

千の護りと証を持って

汝、扉の鍵とせん』


 ふと一瞬幻のように聞こえた言葉が琴線に触れた。顔を上げたルークは歌声の元を探す。声はこの店の裏手から聞こえてきているようだった。


『氷雨の降りし国なれば

亡者行き交う刻苦の地

紅ひ薫る誘いの地

その心その場に許すことなし』


 店の門はどうやら庭へと続いているらしかった。ルークはゆっくりと庭の方へ足を進める。角を曲がると、どうやら日向ぼっこをしているらしい母と子の姿が見えた。子供は1歳か2歳といったところだろうか。着ている服装からして男の子だと分かる。


『真の未知を望みしものは

証をもって答えたり』


 縁側で子供の頭を撫でる母の表情は、慈悲深い優しい表情をしていた。ルークはその風景に足を止める。


『鍵を唄うは眠りの精

子よ、その言が鍵なれば

忘るることなく、汝の中に……』


 ふ、と子供の寝顔を見つめていた母親がこちらの視線に気付いた。驚くでもなく、ルークに問いかける。子供を起こさない程度の音量で。


「……あら、お客さま?」


 急にそう尋ねられて、ルークは驚いて首を振った。そして考え直したように、こう答える。


「えっ……あ、待っているんです。知っている人が今お店にいるから……えっと、その……」


 覗き見していたことを謝ろうとルークは口を開いたが、良い言い訳が思い浮かばず結局口を閉ざしてしまった。赤面しているのに気付いたのか、その母親はふっと微笑む。

 金髪の癖のある髪の毛が微風に揺れた。


「気にしなくてもいいわ」


 そう言って小さな我が子の頭を撫でる。ルークは少しだけその母子に近づいて、先程の唄について聞いてみた。相手はことのほか優しく返答を返してくれる。


「あの……今のって、子守唄ですよね……」

「あら……そうよ。この国全体の共通の子守唄。……貴方、知らないの?」


 不信な感情は微塵も感じない。ただ純粋な疑問のみで聞き返してきたのだろう。けれど、それに焦りを覚えたルークは、とりあえずカルナの名を出すことでそれを回避した。


「えっ、あ、か、カルナさんの知り合いで……遠くから来たんです……」



 嘘をつくことは心苦しかったが、それでも相手は信じたようだった。何かを悟ったように、あの慈悲深い微笑みをくれる。風に揺れる庭の木々が優しく揺れ、やっとルークは先程の辛い感覚を忘れる事が出来た。


「あら……それは大変ね」

「あっ、そ、それで……その、子守唄ってなんなんですか?僕、よく分からなくて……」


 自分の正体の話題から話を逸らそうと、ルークは話変えた。それはあの扉をくぐった時からずっと悩んでいたことでもある。なぜ、あの時レオナに唄が聞こえなかったのか、そして自分が合い言葉を知っていたのか。

 母親は金の癖毛を髪にかけスヤスヤと眠る子供の様子に微笑むと、ルークに視線を向けて言った。


「そうね……この国に住む人共通の合い言葉、かしら」

「合い言葉、ですか……?」


 暖かな日差しが空から降り注ぐ。それは人間の国の季節とは違い、吹く風も春の面影を残している。ルークはこの季節が大好きだ。誰かに抱かれているような、そんな暖かさが自分を包んでくれるから。

 母のような、そんな感じがするから。


「そう。1番は共通だけど、2番からはその母親によって唄が違うのよ」

「へぇ……そうなんですか」


 母親は微笑んでルークを見つめた。


「2番の歌詞にはね、その母親の想いがこもってるの」


 その柔らかい笑顔。ルークはふと自分を捨てた母のことを思った。記憶は欠片も存在しない。

まだ赤ん坊だったルークは山の中、灰に包まれて捨てられていたのだという。辛うじて顔を外に出し、泣き声を上げていたルークを見つけてくれたのが今の義父と義母。一旦ルークは孤児院へ連れていかれたが、7歳になっても引き取り手がつかなかったため、義父と義母が自分を引き取ってくれたのだ。ルークという名前は拾われた時着ていた服に書かれていたらしいのだが。


 ふと庭に誰かの足音が入り込んできた。


「おや……こんな所にいたのかい」

「あら、カルナさん」


 1人で考え込んでいたルークの背中を、カルナの手が叩いた。それでやっと我に返ったルークはとりあえず母親に会釈して、荷物を手一杯抱えているカルナの手助けをする。その様子を微笑んで見つめていた母親が、後ろから声をかけた。


「それじゃあ、カルナさん。ええと……」

「あ、ルーク・フローといいます」


 その名前を聞いた母親はおや、と首を傾げた。あまりこの国には無い名前なのかもしれない、とルークは思う。


「……それじゃあ、ルーク。また来てね。今度はこの子が起きている頃にでも」

「はい!」


 男の子が起きない程度の声でそう答えると、ルークはカルナの背中を追って歩き出した。春風が今は心地よく首筋を撫でて、消えていった。





 行くあてもないだろう、とカルナが案内してくれた家は、豪快なカルナの性格に反して割と小さい家だった。扉を開けるとルークは一瞬固まってしまう。その様子を見て、カルナは笑った。


「汚い家だと思ったろ?ま、入りな!」

「えっ、あ、ああああの、そんなことは……」


 生来の正直者は嘘が下手だった。ん?と覗き込むようにその悪戯な表情をむけられて、降参したように小さく頷く。まず最初に目に入ったのは、散乱した下駄箱。どうやらカルナは派手好きらしく、色とりどりの靴がそこかしこに散乱しているのだ。中には玄関口に飛び出したスリッパも見える。とりあえず踏みつけないように、と注意しながら中に通されたルークはカルナの後ろについて、家の隅々を見渡していく。心なしか床の隅が白く染まっている気がした。


「リビングは真っ直ぐ行ったところにある。ま、それ以外の扉は開けない方が無難だね」


 それは開ける開けないの比ではなかった。開け放しにされた扉からは本やら得体の知れない液体の入った瓶やら、食料の食べかすが散乱している。臭いがしなかったのが唯一の幸いだった。閉まっている扉も何やら奥に詰め込まれているらしく、扉が時折ギシギシと軋んでいる。比較的新しい部屋なので蜘蛛の巣は張っていなかったのだが、それは何処かの風景を彷彿とさせた。


「……えっと、カルナさんって……何をしている人なんですか……?」


 尋常ではない部屋の散らかりように固まりながらもルークはやっとそれを口にすることができた。すると奥から埃を被ったティーカップを掘り出してきたカルナが振り返って、また豪快に笑ってみせた。女性であるにもかかわらず、その豪快さは男にも勝る。


「はっはっは、何をしているか気になるかい?」

「はい」


 素直にそう頷くルークにカルナはティーカップを洗いながら言った。勿論流し台も、目をあてられない程の有様。


「そうさね……発明家のようなもんだね。常に新しい情報を追いかけ、新しいモノを創る… けどそれだけじゃ金は入らないから、バイト中さ」


 発明家…そう聞くとあの部屋の有様も頷けた。研究中だったのかな、と思ったルークはとりあえず勧められた椅子に座る。辛うじてそこだけは綺麗にしてあるテーブルの上に、カルナが紅茶を持ってきた時だった。


「ま、物質的なもんじゃなくて、ま………」

「っ!?」


 衝撃音。そしてそれに連動して家が震えた。ルークはふと天井を見上げ、パラパラと落ちてくる土壁の砂を見つめながら、首を傾げた。


「……地震、ですか?」


 突然の振動に、入れたばかりの熱い紅茶をあろうことか足にかけてしまったカルナは床を跳ねながら叫んだ。


「まさか。この国に活断層なんてもんはないよ。……あっちー」

「それじゃあ、何か……」


 ふ、とルークは背筋を舐めるような感覚を覚えて窓の外に視線を向けた。日の暮れた風景の中、闇が一瞬だけ蠢く。ルークはその光景に目を見張った。あり得るはずなどない。この窓は道に面している場所にある。木々の生えている裏山なら風にざわめく枝の仕業かと思えるが、道の中心にそんなものありはしないのだ。


「ルーク、下がりな!」


 瞬間、その窓の硝子が消えた。遅れてルークの耳に窓硝子の破片とその割れる音が木霊する。丁度カルナに後ろへと下げられたルークは破片を被ることはなかった。


「……黒犬獣を持ってくるたぁ、やってくれるね……アンシーリィ・コート共」

「!?カルナさん、アンシーリィ・コートって……」


 視線だけを窓に向けたカルナは長い三つ編みをポケットから出したバレッタで留め、振り返らずに後ろにいるルークへ言った。


「まぁ何、いつものことさ。さすがに……」


 続く衝撃音。何処からか聞こえてくる恐怖の悲鳴。足下が覚束無い程揺れる床にルークは倒れそうになりながらも壁に手をつく。


「……貸家を壊されそうになったのは初めてだけどね」

「カルナさん、逃げなくていいんですか!?」


 なにやらこの状況でも余裕の表情を崩さないカルナに、ルークはそう声をあげた。アンシーリィ・コートという妖精がどれ位怖いものなのか、レオナ達に聞いたときは分からなかった。けれど、今なら分かる。全身に鳥肌が立っているのが嫌という程感じられる。

 カルナはズカズカと窓に歩み寄ると、後ろ手に廊下を指差した。


「ルーク。廊下に出てすぐの所に、開いていた部屋があったろう?あそこにアタシ特製裏口があるからね、そこから出て真っ直ぐ山を登りな」

「……え……?でも、カルナさんは……!」


 壁に身をまかせながら、ルークは叫んだ。けれどカルナは視線を窓に向けたまま、振り向かない。何かと睨み合っているのかもしれない、と混乱した頭が答えを出した。


「……いいから行きな。わたしゃ、こんな所ででくたばったりはしないさ」


 カルナはそう言うと、左手をスカートのポケットに突っ込み、何かを取り出した。それは黒い石のついた、ミサンガにも似たアクセサリー。それを後ろへと放り投げ、言った。ついさっき、初めて会った時と変わらないあの悪戯な声で。


「お守りさ。今度会った時にそれは必ず返してもらうよ」


 そして一瞬だけ、こちらを振り向いた。緊急事態などものともしない、余裕綽々の表情で人差し指を口元に持ってくる。


「……家に勝手に裏口作ったってことは、秘密だよ」

「……はい」


 ルークは弧を描いて自分の手元に収まったミサンガを握りしめ、小さく頷いた。リビングを出て、先程カルナの言っていた部屋へと向かう。その瞬間、窓から黒い影が飛び込んできた。死の予兆とも言われる妖犬は、その漆黒の闇のような黒い毛と真紅に燃える目をカルナに向けた。腰ほどもある黒犬獣。だが、カルナの瞳は対照的に笑ったまま。


「面白くなってきたね。追う黒犬獣に、逃げる少年。向かう先は暗君の城か、君子の城か……。ま、とりあえずは」


 カルナは口元をつり上げた。それは聖人の微笑みではなく、玩具をみつけた時の、子供の悪戯な笑み。



「……ゲーム、スタート」


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