エピローグ:雪の中の解剖学
#犬神家 #腐った愛の解剖学 #サイコスリラー #医学サスペンス #なろう小説 #創作
二〇二六年、一月の東欧は、死んだような白いキャンバスだ。モルドバの辺境にある名もなき小さな町。数千キロ離れた東京に残してきた過去の足跡を、降り積もる雪が静かに塗りつぶしていく。荘厳な東大の校舎も、銀座の贅沢な香りも、もうどこにもない。あるのは肺まで凍てつかせるような冷気と、崩れかけたアパートの地下にある古びたクリニックだけだ。
僕は木製の椅子に座り、剥げかけた壁を見つめていた。かつて日本最高の執刀医になると期待されていたこの手は、今、発音することさえままならない名前が記された偽造パスポートを握りしめている。
「江戸くん……寒い……」
部屋の隅にある手術台の方へ目を向けた。そこに朱里が横たわっている。大腿部の傷は癒えたが、そこには醜く盛り上がった瘢痕が残っている――あの逃亡の夜、僕が刻み込んだ緊急の署名だ。しかし、その処置は合併症を招いた。長時間の虚血により、彼女の足が元通りに動くことは二度とない。
彼女は僕の最も忠実な標本であり、同時に、僕の敗北を象徴する生きた証拠でもあった。
「こっちへ来て」朱里が囁く。痩せこけた顔の中で、瞳だけが異様に大きく見えた。「また私を解剖して……あなたの手の感触を、皮膚の下で感じたいの。それだけが、私たちがまだ生きている唯一の証明だから」
僕は立ち上がった。足取りは重い。決して後悔することのない罪に引きずられているかのように。僕は、持ち出してきた数少ない道具の中から、既に鈍り始めた古いスカルペルを手に取った。彼女に近づく。だが、今度は僕の手が震えていた。恐怖からではない。ある恐ろしい事実に気づいてしまったからだ。
この忘れ去られた地には、もう患者はいない。打ち負かすべき海斗のようなライバルも、力を証明すべき貞人のような父も、美しく飾るべき蓮華のような母もいない。僕には朱里しかいないのだ。
彼女を見つめる時、そこに映るのは愛した女でも、僕を崇めるヤンデレでもなかった。ただ、時間とともにゆっくりと朽ちていく肉と組織の塊。僕の魂と同じだ。
僕は彼女の腕に刃を当て、浅い切開を加えた。汚れた白いシーツの上に、どす黒い血が滲み出す。朱里は安堵の溜息を漏らし、まるで最上の接吻を受けたかのように目を閉じた。
「江戸くん……」彼女は低く呟いた。「決して止めないで……切り取るものが何も残らなくなるまで」
地下室の上にある小さな窓を見上げた。外の世界は、土の中に隠れた二匹の怪物のことなど構わずに動き続けている。僕たちを救いに来る英雄も、運命を変える魔法も存在しない。あるのは雪の静寂と、僕の手の下で次第に速度を落としていく朱里の心音だけだ。
今ならわかる。この逃走は自由などではなかった。これは、自分たち自身に対して行われる緩やかな司法解剖なのだ。僕たちは人間性を最後まで解体し尽くし、後に残ったのは凍てつくような虚無だけだった。
僕は犬神江戸。かつて天才と謳われた医学生だ。そして今、この見捨てられた世界の果てで、自分の中に残された最後の一片を執刀している。それは、永遠に続く空虚だ。
あと一振り。それだけが、僕に残されたすべてだ。
――完――
本作 【犬神家:腐った愛の解剖学】、これにて全編完結となります。
最後までこの狂気にお付き合いいただき、心より感謝申し上げます。
江戸と朱里に待ち受けていたのは、輝かしい未来でも地獄でもなく、終わりのない「虚無」でした。二人の愛が完成したのか、それともただ壊れただけなのか。その答えは、読者の皆様の想像に委ねたいと思います。
これまで応援してくださった皆様、感想をくださった皆様、本当にありがとうございました。
皆様の心に、この「冷たい雪」のような余韻が少しでも残れば幸いです。
もしよろしければ、完結記念に最終的な【評価】や【感想】をいただけると非常に嬉しいです。皆様の声が、私の次の物語を作る糧となります。
またどこか、別の解剖室でお会いしましょう。
ありがとうございました。




