第3話 棚卸しの夜
【東京・日本橋区小舟町 倉持家土蔵内/1945年8月15日 夜(昭和20年)/倉持慶一郎の視点】
錠前が外れる音は、夜の中では思いのほか大きかった。
慶一郎は戸を身体の幅だけ開けて中へ入り、すぐに閉めた。厚い土壁に囲まれた蔵内は外より涼しく、音も遠い。手燭へ火を移すと、土間と木の棚が淡く浮かび上がった。
一階には帳簿箱、銭箪笥、米と麦の俵、味噌や塩の甕が並んでいる。三月の空襲後、この土蔵は倉持家の食料庫であり、金庫であり、焼け残った家財の置き場にもなっていた。
帳簿箱の蓋には父の字で年月が書かれている。倉庫の貸し賃、取引先への貸付金や売掛金、預金、国債や株券。この家の表向きの財産を知るには、いずれ大島と一緒にすべて開かなければならない。ただし今夜確かめるのは、誰にも見せられない方だった。
慶一郎は手燭を持って二階へ上がった。長持が三棹、衣類を包んだ風呂敷、焼けた母屋から運び込まれた小机と食器箱がある。さらに急な階段を上ると、三階はほとんど空いていた。
隅に、黒漆の剥げた唐櫃が一つ置かれている。祖父・嘉兵衛の代からある物で、蓋を開けると古い書付と、古い木や紙の匂いが残っていた。母は数日後、この唐櫃と祖父の金貨について慶一郎へ話す。八十一年の記憶が、その言葉も、母の声も覚えている。
金貨の出所を問われる日が来たなら、家の来歴と結びつけられる場所はここしかない。だが今夜、金貨を移すつもりはなかった。存在そのものを隠し、総枚数は誰にも知らせない。それが最も安全だった。
唐櫃の隣には畳一枚ほどの空きがあり、壁際には古い莚が一枚畳まれている。床板を踏み、沈みや軋みがないことを確かめてから、慶一郎は位置を覚えた。あとで、ここへ出しておく物がある。
一階へ戻り、俵の陰へ風呂敷を広げた。戸が閉まっていることを確かめ、母屋跡や庇下から声がしないか耳を澄ます。聞こえるのは葉月が湯を替える小さな水音と、遠くの道を通る下駄の音だけだった。
慶一郎は風呂敷の前へ座り、掌の内側へ意識を向けた。
そこには、現実の場所とはつながっていない収納空間がある。容量は三百リットル。内部では時間が止まり、生き物は入らず、慶一郎が触れた物だけを出し入れできる。中に置いたまま削ったり組み立てたりはできないが、重量に制限はなかった。
第一の人生では、遊戯で使われる言葉を借りて、アイテムボックスと呼んでいた。
箱へ入れた物は傷まず、電池も薬も劣化しない。一方で、出した瞬間から熱、湿気、錆、盗難の影響を受ける。何でも取り出せることと、何でも使えることは同じではなかった。終戦後の制度や治安を知っているからこそ、物ごとに出す時期と、人へ見せられる姿を決めておく必要がある。
第一の人生で作った一覧は記憶している。それでも、八十一年前へ本当に持ち込まれた物が揃っているか、包装の破れや数量の違いがないかは、現物を出して確認しなければならない。今夜は一度、端から全点検するつもりだった。
最初に取り出したのは、厚い布袋だった。膝の上で口を開くと、手燭の火を受けて金貨の縁が重なって光った。英国の満ソブリン金貨が二千枚、半ソブリンは一枚もない。総重量はおよそ十六キログラムになる。
一枚だけ指でつまみ上げた。表には英国君主の横顔、裏には馬上の聖人が竜を退ける図柄が刻まれている。古銭としての来歴を持ち、金としても価値があるが、敗戦直後の日本橋で安全に換金できる品ではない。
盗難だけでは済まない。警察、税務署、占領軍、闇の商人のどこに知られても、入手経路を説明できない。少なくとも一九四九年四月までは一枚も動かさないと決め、金貨を袋ごと箱へ戻した。
次に、旧一円券の束を一つ取り出した。箱内にあるのは五万枚、額面で五万円分。翌年の新円切替でも一円券は通用するが、まとまった束をいま使えば、どこから出したのかを必ず聞かれる。これも当面は箱内へ隠し、必要な時期に少額ずつ使うしかない。
一円札を選んだ理由は、額面の小ささだった。大きな札が制限され、人々が小額紙幣を求める時期になれば、一円札そのものは珍しくなくなる。ただし五万枚という量は別であり、表の帳簿へ一度に載せることも、銭箪笥へ積むこともできない。使うときは買い出しや小口の支払いへ分け、倉持家の預金や修理収入とは混同しない管理が必要になる。
米ドル紙幣は五百ドル。高級万年筆が五本。どちらも価値はあるが、終戦当日の東京で持ち歩ける物ではなかった。慶一郎は数量だけ確かめ、元の位置へ戻した。
続いて、医薬品の箱、修理用の小物資、種籾、衛生用品を順に呼び出す。薬は外箱を外した最小包装で約千種類。種籾は二十品種が百グラムずつ密封され、消毒用品、包帯、ガーゼ、体温計もある。修理用品には、この時代では手に入りにくい小さな部品や材料が収められているが、何をどこで使うかは、実物を前に一つずつ決める必要があった。
品物の有無を確かめたところで、慶一郎は携帯用の鞄を取り出した。中にあるのは、艶を抑えた黒い筐体のノートパソコンだった。同じ型が二台あり、今夜使うのは稼働機だけである。もう一台の予備機、予備バッテリー五本、交換用液晶五枚、外付けSSD五台、USBメモリ十本とその他の補修部品は、時間の止まった箱へ残した。
風呂敷を頭から被り、裾を膝の下へ挟む。手燭を遠ざけて電源を入れると、画面の光が風呂敷の内側だけを照らし、冷却用の小さな送風音が続いた。音は耳を寄せてようやく聞こえる程度だが、油断はできない。連続して使わず、必要な箇所だけ読み、印刷はせず、外へ出す情報は自分の手で紙へ写す。この機械は便利な道具である前に、見つかれば説明のできない証拠だった。
最初に在庫一覧を開いた。
────────────────
在庫一覧
・英国満ソブリン金貨 2,000枚
・旧一円券 50,000枚(50,000円)
・米ドル紙幣 500ドル
・高級万年筆 5本
(モンブラン139、ペリカン100N、国産パイロット3本)
・医薬品 約1,000種
・種籾 20品種×100g
・修理用小物資、消毒用品、包帯、ガーゼ、体温計
・ノートパソコン 2台(同型、稼働機1台・予備機1台)
・予備バッテリー 5本/交換用液晶 5枚
・外付けSSD 5台/USBメモリ 10本
・現代護身装備 一式
・現代式耐火金庫 1基
────────────────
容量台帳へ画面を切り替える。
────────────────
正味体積(空の耐火金庫搬出後)
・旧一円券 35L
・医薬品 30L
・現代護身装備 20L
・ノートパソコン、予備部品 15L
・修理用品、種籾、衛生用品 12L
・金貨、米ドル、万年筆 2L
使用量 約115L/空き 約185L
────────────────
容器の外形や包装内の空気ではなく、中身の正味体積で数える方式になっている。箱から出せば、俵もケースも元の形で現れる。空き容量は、食料や部品を一度に運ぶときの余裕であり、不要な容器を入れたままにしておく理由はなかった。
金貨も紙幣も、数字にすれば大きい。だが人前で使える物となると急に少なくなる。修理用の小物資は出所を隠して使える物に限られ、種籾も栽培時期と説明が要る。薬は母へ使えても、設備と人手までは箱から出せなかった。
保存資料には、百科事典、技術書、医薬品資料、株価、特許、地図、法律が揃っている。必要な答えへ近づくことはできるが、資料を読んだだけで工場、病院、人脈が生まれるわけではない。未来の情報を現実へ移すには、この時代の材料と職人と制度に合わせ、自分の言葉と図面へ直す工程が要る。
慶一郎は医療資料を開き、広範囲の火傷、煙を吸ったあとの肺損傷、感染、脱水、低栄養の項目を読み直した。必要とされるのは、十分な輸液、傷んだ組織への処置、清潔な病室、栄養、そして状態を追い続ける医師と看護の手である。
庇下にあるのは、経口の薬と補水用の粉末、煮沸した布、それに家の者の看病だった。今夜の苦痛を減らせる可能性はあっても、救命に必要な条件は揃わない。庇の下で理解したことが、資料の文字でもう一度確認されただけだった。
慶一郎は必要な項目の見出しと、明日志村医師へ尋ねることを手帖へ書いた。画面を閉じて電源を落とすと、送風音が止まり、風呂敷の内側も手燭の色へ戻った。ノートパソコンは鞄ごと箱へ戻す。
最後に、工具箱に見せかけた硬いケースを呼び出した。留め具を外し、中身が揃っていることだけを確かめる。分解して収めた七・六二ミリ口径のボルトアクション銃、光学照準器、弾薬五百発。四五口径の拳銃、専用サプレッサー(減音器)、予備弾倉と弾薬。薄型の防弾ベストが二着。
これは最後まで使わずに済ませたい装備で、見つかるだけでも家の者を危険に巻き込む。慶一郎は数が変わっていないことだけを見て、ケースを閉じた。
風呂敷の上から物がなくなったあと、慶一郎はもう一度在庫へ意識を向けた。箱の中には、旧一円券を収めていた現代式の耐火金庫が残っている。外形は約百五十リットル。暗い塗装の扉に、精密な錠と太い取っ手が付いた、この時代の倉持家には存在しない金庫だった。
一円札の束を箱内の別の位置へ残し、金庫だけを空にする。慶一郎は手燭を持って三階へ上がり、先ほど確かめた唐櫃の隣へ向き直った。
床へ意識を合わせ、空の金庫を取り出す。
厚い金属の底が床板へ触れ、低い音が一度だけ響いた。慶一郎はしばらく動かず、下の階と蔵の外をうかがったが、誰かが来る気配はない。扉が開かないことを確かめ、古い莚を上から掛けると、四角い外形も暗がりへ紛れた。
当面、この三階へ家の者が上がる用事はない。いずれ表の現金を置く場所として使えるよう、来歴を整えられる時期までは中身を空にして莚の下へ隠す。現代の錠や扉を大島が見れば、古い倉持家の品でないことはすぐに分かるからだ。
火事や盗難で金庫だけを失っても、一円札は時間の止まった箱に残る。金庫と紙幣を分けておけば、表へ出す準備を進めながら中身を守ることができた。
空の金庫を外へ出したあとの箱は、正味で約百十五リットルを使用し、約百八十五リットルが空いている。将来、米や部品を人目から隠して運ぶには、この空きが必要になる。今夜の棚卸しは、持っている物を数えるだけでなく、使える余地を作る作業でもあった。
一階へ降り、風呂敷を畳んで元の場所へ戻す。手燭を消す前に、慶一郎は土蔵の中をもう一度見回した。表に出せない金と道具は箱の中、表向きの財産を記した帳簿は木箱の中、現代の金庫は三階の莚の下にある。どれをいつ使うか、順序を誤れば家ごと疑われる。いま表へ出せるのは、自分の機械技術と、これから得る信用だけだった。
戸を細く開けると、東の空がわずかに明るくなっていた。庇下では葉月が蚊帳のそばに座り、うつむいたまま目を閉じている。千香子の呼吸は浅いながら続き、咳の合間には短い眠りもあった。それを見届けて、慶一郎は井戸端へ向かった。
【東京・日本橋区小舟町 倉持家井戸端/1945年8月16日 早朝(昭和20年)/倉持慶一郎の視点】
井戸端から、乾いた軋みが繰り返し聞こえた。
千代が手押しポンプの柄を上下させている。柄は動くのに、吐き口からは空気の抜ける音がするだけで、水は一滴も上がってこない。
「また空を切る……。前から時々こうなっていたんですけど、とうとう駄目みたいです」
千代は柄から手を離し、釣瓶と桶へ目を向けた。釣瓶でも水は汲めるが、煮炊き、洗濯、母の看病に使う湯を毎日それだけで賄えば、朝から人手を取られる。
慶一郎はポンプの前へしゃがみ、吐き口を覗いた。柄をゆっくり二度動かすと、抵抗が途中で抜ける。弁かパッキンが水を保持できず、胴の中へ空気が入っている可能性が高い。詳しくは開けてみなければ分からなかった。
「蔵から道具箱を持ってくる」
「直せるんですか、坊ちゃん。帝大では、井戸のポンプまで習うんですか」
「習ったのはもっと大きな機械だが、理屈は同じだ」
千代はまだ半信半疑の顔で、ポンプと慶一郎を見比べた。
慶一郎は袖をまくり、土蔵へ道具箱を取りに戻った
(第三話 了)
――後書きの注記――
英国ソブリン金貨は明治期以降の日本にも流入し、収集や退蔵の対象となった例があります




