第2話 庇(ひさし)の下
【東京・日本橋区小舟町 倉持家土蔵脇/1945年8月15日 午後(昭和20年)/倉持慶一郎の視点】
「……けい、いちろう……」
呼ばれて、慶一郎は蚊帳の裾をくぐった
庇の下は日陰でも蒸して、薬湯の匂いと、それより濃い傷の匂いがこもっている。敷布の上に母が横たわり、包帯の間からのぞく顔は五ヶ月前より一回り小さくなって、頬の肉が落ちた分だけ目ばかりが大きく見えた。
「ここにいます。母さん」
膝をついて顔を寄せると、母の目がゆっくりと焦点を結んだ。八十年ぶりに合う目だった。慶一郎はそのことを顔に出さないために、奥歯を噛んだ。
「……放送は」
「聞きました。表で、皆で」
「……終わったの、ですか」
「終わりました。戦争は、終わりです」
母は目を閉じた。長い息がひとつ、笛の音を引いて漏れ、それきりしばらく声がなかった。泣いているのかと思ったが、そうではなく、ただ何かを胸の中で置き直しているような沈黙だった。
「……長かった」
やがて母はそれだけ言い、薄く目を開けて、仏間のあった方角へ――いまは焼けて骨組みだけになった母屋の方へ、視線を動かした。
「お父さまに、お知らせしないと。……昭一郎にも」
「はい。あとで、手を合わせます」
「昭一郎は……間に合わなかったのねぇ、この日に」
責めるでもなく、ただ数えるような声だった。慶一郎は答える代わりに、母の手の甲に自分の手を重ねた。火傷を免れた左手は、驚くほど熱かった。
熱がある。それも、朝より高い。
慶一郎は目だけで母の全身をたどった。背中と右腕の火傷は五ヶ月経ってもふさがりきらず、包帯の縁に滲みがある。息のたびに鳴る笛の音は、煙に焼かれた肺の音だ。細くなった首、乾いた唇、落ちくぼんだ目。傷からの熱と、水が足りない乾きと、食うものが足りない痩せ――三つが互いに手を引き合って、母の身体から力を汲み出していく。
――感染と、脱水と、低栄養
頭の中で、八十年先の言葉が静かに並んだ。傷を洗い、菌を叩き、水と塩と糖を血の道へ直に戻し、栄養を入れて、清潔な部屋で寝かせる。それが揃えば、この人はまだ闘える。だが血の道へ水を戻す針も管も、この夏の日本橋のどこにもない。あるのは白湯と、匙と、庇の下の風だけだ。
薬だけでは、医は成り立たない
知識として知っていたその一行が、蚊帳の中では重さを持っていた。
「慶一郎……」
「はい」
「顔が、こわい」
母が笑おうとして、咳になった。慶一郎は母の背にそっと手を添えて、咳が収まるのを待った。掌の下で、包帯越しの背中は熱く、そして軽かった。
「なんでもありません。……母さん。今日から、薬を替えます」
「薬……」
「動員先の伝手です。工場が閉まるどさくさで、医務室の残りを分けてもらえた。熱冷ましと、傷に効くのと。志村先生には、おれから話を通しておきます」
嘘は三分、本当は七分。そういう配合で、慶一郎は言った。母は詮索しなかった。ただ、伝手、という言葉に少しだけ眉を緩めて、
「……お前は、昔から、拾ってくる優しい子」
と言った。犬の子でも拾ってきたような言い方だったので、慶一郎は少しだけ笑うことができた。
蚊帳の外で葉月が身じろぎする気配がした。いつから起きていたのか、目の縁を赤くした葉月が、それでも声だけは平らに言った。
「坊ちゃま。奥さまは、お昼すぎに白湯を二口だけ。志村先生は、薬がもう手に入らないと、昨日も頭を下げてお帰りで」
「分かってる。葉月、湯を沸かしてくれ。たっぷりだ。それと、きれいな手拭いを何本か」
葉月は一瞬だけ慶一郎の顔を見た。指図の声が、昨日までの坊ちゃまと違って聞こえたのかもしれない。だが問い返しはせず、はい、と頭を下げて台所の方へ立っていった。
門の方で、下駄の音がした
番頭の大島が、汗みずくで駆け戻ってきたところだった。放送に間に合わなかった詫びを言いに来たのだと、丸めた背中で分かった。慶一郎は蚊帳越しに小さく首を振ってみせた。詫びはいい、という意味と、母を頼む、という意味を込めたつもりだったが、老番頭は両方を受け取ったらしく、深く一度だけ頭を下げて、井戸端の千代の方へ回っていった。
【東京・日本橋区小舟町 倉持家土蔵の陰/1945年8月15日 夕刻(昭和20年)/倉持慶一郎の視点】
夕刻、慶一郎は土蔵の陰にしゃがんだ。
塀と蔵壁の間の、誰の目も届かない一間ほどの隙間だった。掌の内側の、あの静かな置き場所に意識を差し入れると、指先に硬い感触が生まれ、引き出すと白い小箱がひとつ、手の中にあった。
銀色の薄い板に、透き通った粒が行儀よく並んでいる。八十年先の姿のままの薬だった。
慶一郎はそれを一粒ずつ押し出して、懐から出した薬包紙の上に転がした。
熱冷ましと痛み止め――アセトアミノフェン
傷の熱を叩く白い粒――アモキシシリン
名前は頭の中だけで呼び、指は黙って動かした。銀色の板は空になり次第、置き場所へ戻す。紙に包んだ粒と、茶色い古薬瓶に移した消毒薬と、白い粉の小さな包み。表に出るのは、それだけだ。
どこの家の茶箪笥にもありそうな、薬包紙の束ができあがった。
――これでいい
薬は時間を買う。買えるのは、たぶん、五日
その五日を、痛みの少ない五日にする。それが、いまの自分にできる全部だった。八十年の知識と、置き場所いっぱいの薬を持っていて、できるのがそれだけだという事実を、慶一郎は噛んで飲み込んだ。飲み込んで、立ち上がった。
湯気の立つ薬缶を、葉月が庇の下へ運んでいくところだった。
白湯を椀に取り、白い粉の包みをひとつ切って溶かし、匙でゆっくりかき混ぜる。塩と糖の入った水は、匙で少しずつなら、弱った喉でも通る。慶一郎が椀を捧げ持つと、葉月が母の頭をそっと起こした。
「母さん。飲みにくかったら、舐めるだけでいい」
匙が唇に触れ、母の喉が小さく動いた。一匙、また一匙。三匙目で母は目を細めて、
「……甘い」
と言った。
「効きます、甘いのは」
「……贅沢、ねぇ」
夕暮れの光が庇の下まで伸びて、包帯の白を薄い橙に染めた。熱冷ましの粒を白湯で飲ませ、葉月が新しい手拭いで母の首筋を拭う。呼吸の笛の音が、心なしか浅くなった気がした。気がしただけかもしれない。それでも母は、日暮れ前に少しだけ眠った。眠れたのは、何日ぶりかだと葉月が言った。
慶一郎は蚊帳の外に座ったまま、暮れていく焼け跡を見ていた。
薬は効く。熱は下がり、痛みは遠のき、今夜の眠りは昨日より深いだろう。だが傷は開いたままで、肺は焼けたままで、血の道へ水を戻す術はない。買えるのは時間だけだ。
それでも、救えない
その一行を、慶一郎はもう一度だけ胸の中で読み、それから頁を閉じるように目を閉じた。買った時間で何をするか。それを決めるのが、生き残った者の仕事だ。母に伝えるべきことを聞き、伝えたいことを言わせ、痛みではなく人の声に囲まれて、その日を迎えさせる。
そして、そのあとの冬を、この家の誰にも飢えさせずに越えさせる
日が落ちて、千代が夕餉の雑炊を運んできた。芋の切れ端の浮いた薄い雑炊を、慶一郎は音を立てて食った。二十二の身体は正直で、椀の底まで正直だった。
夜が来た
葉月が母の枕元に座り直し、千代が後片付けの水音を立て、大島が帳場のあった焼け跡の方でひとり何かを検めている。慶一郎は立ち上がり、腰の手拭いで手を拭いた。
検めるべきものは、自分にもある。この家に何が残り、自分が何を持ってきたのか。今夜のうちに、全部の顔を見ておく。
慶一郎は土蔵の前に立ち、錠前に鍵を差した
(第二話 了)
――後書きの注記――
終戦直後は医薬品が極度に払底し、町医者が薬を手に入れられず往診しても施しようがない、という状況が広く記録されています




