第2話 庇(ひさし)の下
【東京・日本橋区小舟町 倉持家土蔵脇/1945年8月15日 午後(昭和20年)/倉持慶一郎の視点】
「……けい、いちろう……」
呼ばれて、慶一郎は蚊帳の裾を上げた
庇の下は日陰でも蒸し暑く、煮沸した布と薬湯、それに化膿した傷のにおいがこもっていた。敷布の上に横たわる母は、五か月前より一回り小さく見える。頬の肉が落ち、包帯に囲まれた顔では目ばかりが大きかった。
「ここにいます、母さん」
枕元へ膝をつくと、千香子の視線がゆっくり慶一郎に止まった。母が亡くなってから八十一年を生きた記憶があるのに、その目を前にすると、昨日まで看病していた二十二歳の息子へ戻される。
「……放送は」
「聞きました。千代や町内の人たちと、組長さんの店先で」
「終わったのですか」
慶一郎は一度息を整えた。ラジオの雑音に紛れていた言葉を、今度は母に届く声で言った。
「終わりました。戦争は、終わりです」
千香子は目を閉じ、細い息を長く吐いた。胸から笛のような音が漏れ、そのまましばらく動かなかった。泣いてはいない。ただ、聞いた知らせを受け止めるために時間が要るのだと、慶一郎には分かった。
「……長かった」
やがて目を開けると、千香子は焼けた母屋の方へ視線を動かした。あちらには仏間があり、父と兄の位牌を置いていた。位牌は火の中から運び出され、いまは土蔵にある。
「お父さまに、お知らせしないと。昭一郎にも」
「あとで一緒に手を合わせましょう」
「昭一郎は……この日まで、帰れなかったのね」
責める声ではなく、分かっていたことをもう一度確かめる声だった。慶一郎は答えを探したが、どの言葉も母の前では足りなかった。敷布の上に出ていた手のそばへ自分の手を置くと、千香子の指がわずかに動き、慶一郎の指先へ触れた。
蚊帳の外では、放送を聞き終えた人々の声が道を行き過ぎ、遠くで戸板を打ちつける音がした。戦争が終わった午後にも、焼けた家を塞ぎ、湯を沸かし、病人の布を洗う仕事は残っている。庇の下でも、看病はいつもどおり続いていた。
触れた指先の熱に、慶一郎は眉を寄せた。朝より上がっている。
背中から左腕にかけて巻かれた包帯は、傷口に沿うところが湿り、縁には新しい滲みがあった。呼吸は浅く、息を吐くたびに細い音がする。乾いた唇、落ちくぼんだ目、細くなった首からも、水分と栄養が足りていないことは見て取れた。
感染、脱水、低栄養。現代の言葉なら三つに分けられるが、母の身体ではすべてが重なっていた。
経口の抗菌薬で感染を抑え、熱と痛みを和らげることはできる。口から水分と塩分を入れることもできる。それでも、広い火傷を処置する設備も、静脈から水分を戻す輸液も、清潔な病室もない。傷んだ組織を処置し、毎日状態を見て方針を変える医師も、ここへ付ききりにはできなかった。薬を持っていることと、治療を続けられることは違う。
「慶一郎」
「はい」
「そんな顔を、しないで」
千香子は笑おうとしたが、途中で咳になった。慶一郎は背へ伸ばしかけた手を止め、枕が動かないよう端を押さえた。包帯の下には深い火傷がある。咳のたびに身体が揺れても、そこへ不用意に触れることはできない。
蚊帳の外で眠っていた葉月が目を覚まし、すぐに中へ入ってきた。千香子の肩口と枕の間に畳んだ布を差し入れ、患部へ圧をかけないよう少しずつ姿勢を整える。五か月看病してきた手は、慶一郎より迷いがなかった。
咳が収まるまで待ち、慶一郎は母の呼吸を見てから口を開いた。
「母さん、今日から薬を替えます」
「薬を……」
「動員先の伝手です。工場が閉まる騒ぎの中で、医務室に残っていたものを分けてもらいました。熱と痛みを抑える薬と、傷の化膿に使える薬があります」
動員先に医務室があったことも、そこで薬が払底していたことも本当だった。薬を持ち出したという部分だけが嘘になる。出所を問われたとき、事実の中へ隠せる説明を選んだ。
「志村先生にも必ず話します。今夜は飲み薬だけにして、傷の包帯は動かしません。先生が来たら、母さんの状態と薬を見てもらいます」
次の往診がいつになるかは分からない。高熱が続く今夜は、母の状態と注意書きを確かめて内服だけ先に使い、傷の処置は医師を待つ。それが慶一郎の方針だった。
千香子はしばらく慶一郎を見つめていたが、薬の出所を尋ねなかった。
「お前は昔から、何か拾ってきては、人の役に立てようとする子でしたね」
「今度は薬です」
「それなら、大事に使わないと」
思いがけず普段の母に近い声が返り、慶一郎も少しだけ笑った。
葉月は目の縁を赤くしていたが、声を崩さずに報告した。
「坊ちゃま。奥さまは、お昼を過ぎてから白湯を二口だけです。朝のお粥は、ひと匙も入りませんでした。志村先生は昨日もいらしてくださいましたが、薬が手に入らないと……」
「先生は、また来られると言っていたか」
「明日にはもう一度と。ただ、往診のお家が多くて、お約束はできないそうです」
「分かった。葉月、湯をもう一度沸かしてくれ。匙と椀も煮て、きれいな手拭いを何本か用意してほしい。傷の包帯は、先生に相談するまで勝手に外さない」
「はい」
「葉月も何か食べてくれ。朝から、ほとんど口にしていないだろう」
葉月は答えず、代わりに千香子の額の布を取り替えた。その横顔を見れば、図星だと分かる。慶一郎がもう一度名前を呼ぶと、葉月はようやく小さく頷き、湯を沸かすため蚊帳を出た。
門の方で下駄の音が乱れ、誰かが息を切らして入ってきた。大島源蔵だった。額から汗を流し、放送に間に合わなかった詫びを口にしかけている。
慶一郎は蚊帳越しに首を振り、母が休んでいることを目で伝えた。大島は言葉をのみ込み、庇へ深く頭を下げる。井戸端から来た千代に何かを尋ねると、二人は声を落として台所の方へ回っていった。
家の者が戻り、いつもの仕事の音が少しずつ始まった。その音を聞きながら、千香子は目を閉じた。
【東京・日本橋区小舟町 倉持家土蔵の陰/1945年8月15日 夕刻(昭和20年)/倉持慶一郎の視点】
夕刻、慶一郎は土蔵と塀の間へ入った。
人一人が入れるだけの狭い通路で、門からも井戸端からも見えない。耳を澄まして葉月たちの足音が遠いことを確かめると、掌の内側に意識を向けた。
現実のどこにもない静かな収納場所から、小さな薬の箱を取り出す。中には、透明な樹脂のくぼみに一粒ずつ収められ、銀色の箔で封じられた錠剤と、印刷の鮮明な小袋が並んでいた。文字も材質も、この時代の薬屋に置けるものではない。
銀色の箔や小袋には、成分名、使用期限、製造番号が細かな活字で並んでいる。切れ端ひとつでも人に見られれば、薬の効き目より先に出所を問われる。母を看病する葉月たちまで疑われるような痕跡は、表へ残せなかった。
慶一郎は包装の注意書きと用法を読み直した。母の年齢と衰弱、今日飲めた水の量を考え、最初に使うものを選ぶ。
選んだのは、解熱鎮痛薬のアセトアミノフェン、経口抗菌薬のアモキシシリン、それに塩分と糖分を水へ溶かす経口補水用の粉末だった。
商品名は頭の中でも必要なかった。確かめるべきなのは成分と注意事項であり、母が飲み込める状態かどうかだった。
錠剤を包装から出し、薬包紙へ分ける。葉月が取り違えないよう、包み方を変えたうえで、どの包みをいつ使うかは自分が管理することにした。経口補水用の粉末も、一度に使う分だけ白い薬包紙へ移す。消毒薬は茶色い古薬瓶に必要な量だけ入れ、現代の容器、包装、説明書はすべて元の場所へ戻した。表に出るのは、動員先の医務室から持ち帰ったように見える薬だけである。
これで母の身体に足りないものが揃うわけではない。だが今夜の熱と痛みを軽くし、失われた水分を少しでも口から戻せる可能性はある。救えないという結末を知っていることと、苦しさを減らすために動くことは、別だった。
薬包を懐へ入れ、慶一郎は立ち上がった。膝についた土を払い、井戸端でもう一度石鹸で手を洗ってから、庇の下へ戻った。
葉月は薬缶の湯で椀と匙を煮たあと、清潔な布の上へ伏せていた。慶一郎が白い粉を椀へ入れ、冷ました湯を注ぐと、粉はすぐに溶けた。
「母さん。少し甘い水です。一度に飲まなくていいから、口を湿らせましょう」
葉月が枕と肩口の布を整え、千香子の顔をわずかに起こす。慶一郎は匙へ少量だけ取り、唇へ触れさせた。千香子が自分で口を開くのを待ってから傾けると、喉が小さく動いた。
一匙ごとに息が落ち着くまで待つ。急がせず、咳が出れば止めた。三匙目を飲み込んだあと、千香子は舌で唇を湿らせた。
「……甘い」
「塩も入っています」
「お砂糖の味がするなら、贅沢ですね」
「薬ですから、遠慮はいりません」
「戦争が終わった日に、甘いお水をもらえるなんて」
千香子の口元がほんの少し緩んだ。慶一郎はその表情を見てから、もう一匙だけ運んだ。飲めた量は多くないが、昼の白湯二口よりは喉を通っている。
今夜の分として包んでおいた薬も、白湯と一緒に飲ませた。次の分も慶一郎が母の状態と表示を確かめてから渡す。志村医師が来たら薬包を見せ、使い方を相談すると葉月へ説明した。葉月は薬包の違いを見比べ、触らずに頷いた。
「坊ちゃま、これは本当に、志村先生へ」
「話す。先生に隠したまま続ける方が危ない」
「では、明日いらしたら、私からも」
「頼む。ただし、工場の医務室から来た薬だ。それ以上は葉月も知らなくていい」
葉月は一瞬だけ慶一郎を見た。それでも問い返さず、母の首筋を新しい手拭いで拭った。
千香子の呼吸音は消えず、包帯の滲みも変わらない。薬を飲ませたというだけで、目に見えて回復するはずはなかった。それでもしばらくすると、千香子は目を閉じ、咳をせずに呼吸を続ける時間が少しずつ長くなった。
「お前は、食べましたか」
眠りへ落ちる前、千香子が目を閉じたまま尋ねた。
「まだです」
「葉月もでしょう。二人とも、食べなさい」
「分かりました」
「返事だけは、昔からいい子」
声は途中でかすれたが、咳にはならなかった。やがて呼びかけへの返事がなくなり、浅いながらも一定の呼吸が続く。葉月によれば、こんなふうに続けて眠れたのは何日ぶりかだった。
葉月は、飲めた匙の数と薬を飲ませた時刻を紙切れへ書き留めた。志村医師へ、摂取量と投薬時刻を正確に伝えるためだった。慶一郎はその紙を見て、次の薬も自分が同じ欄へ記すと約束した。
慶一郎は蚊帳の外へ出て、庇の柱に背を預けた。夕日の色が焼けた母屋跡から土蔵の壁へ移り、井戸端では千代が夕餉の支度に水を使っている。薬を飲ませ、水分も少し入れた。今夜眠れるかもしれない。確認できるのはそこまでで、救命に必要な条件は、ほとんど揃わないままだった。
それでも残された時間を、痛みと咳だけで埋めずに済む可能性はある。母が話せるときには話を聞き、眠れるときには眠らせる。慶一郎にできることを、明日も一つずつ続けるしかなかった。
日が落ちるころ、千代が芋の切れ端の浮いた薄い雑炊を運んできた。
「お母さま、眠れたんですね」
「ああ。まだ熱はある。静かにしておこう」
千代は蚊帳の中を見て胸をなで下ろし、椀を慶一郎へ押しつけた。
「では、坊ちゃんは食べてください。奥さまからも言われたんでしょう」
「聞いていたのか」
「聞こえました」
葉月の分も台所に取ってあると念を押し、千代は後片付けへ戻った。慶一郎は雑炊を口へ運ぶ。味噌の香りは薄く、米より芋の方が多い。それでも二十二歳の身体は空腹を隠さず、椀の底が見えるまで箸は止まらなかった。
夜になると、葉月は母の枕元へ座り直し、千代は井戸端で片付けを始めた。大島は焼けた母屋跡で、昼のうちに拾い集めた書類と木箱を確かめている。
慶一郎にも、今夜のうちに確かめる物があった。この家に残った食料、現金、帳簿、工具。それから、自分が未来から持ち込んだ物の全体である。何があり、何が足りず、明日から何に使えるのかを知らなければ、家の者を冬まで守る計画は立てられない。
庇の下を振り返ると、千香子はまだ眠っていた。葉月が小さく頷いたので、慶一郎も頷き返す。
慶一郎は土蔵の前に立ち、錠前に鍵を差し込んだ
(第二話 了)
――後書きの注記――
終戦直後は医薬品が極度に払底し、町医者が薬を手に入れられず往診しても施しようがない、という状況が広く記録されています




