第1話 蝉と、玉音
【東京・日本橋区小舟町 倉持家土蔵脇/1945年8月15日 午前五時頃(昭和20年)/倉持慶一郎の視点】
蝉の声で目が覚めた
まぶたの裏が白い。首筋に土の熱が残っている。倉持慶一郎は石段に背を預けたまま、しばらく動けなかった。
夢を見ていた気がする。長い、あまりに長い夢だ。目の前を数字が流れ、灯りのついた高い建物が並び、手のひらの中で薄い板が光っていた。八十一年ぶんの夢。
――いや
慶一郎は目を開けた。
夢はこちらだ。そう思いかけて、やめた。どちらも夢ではない。頭の中に、二つの朝がある。一つはたったいま覚めた、二〇二六年の夏の朝。もう一つは、昨夜、母の枕元で夜通し看病をして、夜明け前に土蔵の脇へ出て、石段に腰を下ろした憶えのある朝。
昭和二十年、八月十五日の朝だ。
掌を見た。若い手だった。指の節が細く、爪の間に機械油が染みて、火傷の痕ひとつない。動員先で治具を握り続けた、二十二の手だ。慶一郎はその手を握って、開いた。関節が軽い。肩も、膝も、腰も、何も軋まない。息を吸うと、胸の奥まで空気が届いた。
握った拳の形に、憶えがあった。ゲージを当てるときの指の据わり。やすりを寝かせる角度。工場で身体に叩き込んだものは、頭より先に手が憶えている。この手は、まだ何でも憶えられる手だ。
焦げた匂いがした。
五ヶ月経ってもまだ、この町は焦げた匂いがする。三月十日の夜に父が死に、母屋が半分焼け、日本橋の空が朝まで赤かった。その匂いだ。慶一郎は石段から立ち上がり、敷地を見渡した。
焼け落ちた母屋の骨組みが、朝の光の中で黒く立っている。土蔵は残った。石造りの倉庫も残った。鉄筋の塀も、傾いだ門も残った。塀の内側の、この一角だけが焼け残って、あとは瓦礫と、瓦礫の間から伸びた夏草だ。
塀の向こうに、日本橋の朝が広がっている。焼け跡の起伏の先に、焼け残った家の屋根がまばらに浮かび、その間を煮炊きの煙が細く立っていた。堀の水の匂いが、焦げた匂いの下に薄く混じる。東へ行けば人形町通りだ。あの通りにも、もう昨日までの町はない。それでも人の起きる気配だけは、瓦礫の下からでも立ちのぼってくる。
土蔵の脇、庇を差しかけた下に、蚊帳が吊ってある。
母がそこに寝ている。
慶一郎は足音を殺して近づいた。蚊帳越しに、包帯の白が見えた。胸が浅く上下している。息のたびに、乾いた笛のような音が鳴る。三月十日の火は母の背と腕を焼き、煙は母の肺を焼いた。五ヶ月、母はそれでも生きている。
――八月二十日
頭の中で、日付がひとつ、石のように据わっていた。知っている。慶一郎はそれを知っている。知っていて、どうにもならなかったことも、知っている。
蚊帳の脇に、女がひとり、壁に背を預けて眠っていた。中本葉月。倉持の台所を三十年預かってきた女中だ。膝の上に手拭いを握ったまま、口を薄く開けて眠っている。夜通し母についていたのだろう。額に汗が浮いていた。
慶一郎は葉月を起こさず、井戸の方へ回った。
釣瓶の音がしていた。若い女中の千代が、桶に水を汲んでいる。こちらに気づいて、千代は目をすがめた。
「坊ちゃん。寝てないでしょう」
坊ちゃんはよせ、と言いかけて、慶一郎は言葉を呑んだ。この呼び方を、自分は八十年、聞いていなかった。
「少し寝た。石段で」
「石段で寝たのを寝たとは言いません」
千代は桶を持ち上げ、それから声を落とした。
「今日の正午、大事な放送があるそうです。隣組の回覧で。組長さんの店の前で、皆で聞くことになってます」
「……そうか」
「番頭さんは朝から出てます。放送までには戻るって」
大事な放送。慶一郎は井戸の縁に手を置いた。冷たい石だった。この石の冷たさも、釣瓶の軋みも、千代の声の張りも、全部が生々しくて、夢の側へ押しやることができない。
知っている。今日の正午、何が語られるか。この長い戦争が、今日、終わる。
そして自分の本当の戦は、今日から始まる。
指先が、無意識に、掌の内側へ触れた。皮膚の下の、皮膚ではないところに、あの感覚がある。目を閉じれば見える、暗くて静かな置き場所。あれも、持ってきてしまった。
慶一郎は目を開けた。千代が怪訝な顔でこちらを見ていた。
「なんでもない。水、母さんのところへ運ぶ。おれがやる」
「顔を洗ってからにしてください。ひどい顔です」
千代は桶をひとつ押しつけて、台所の方へ歩いていった。慶一郎は水面に映る自分を見た。若い男が、そこにいた。頬がこけて、目の下が黒くて、それでも若い男だった。
水で顔を洗った。冷たさが骨まで届いた。
生きている。二十二歳で、八月十五日の朝に、生きている。
【東京・日本橋区小舟町 隣組長宅前/1945年8月15日 正午(昭和20年)/倉持慶一郎の視点】
正午前、組長の店の前には二十人ほどが集まっていた。
焼け残った瀬戸物屋だった。店先の台にラジオが据えられ、組長が何度も角度を直している。国民服の老人、モンペの女たち、腕に包帯を巻いた男。防空頭巾を握りしめたままの子供が、母親の腰に顔を半分隠して立っている。汗の染みた戦闘帽の若い男は、復員か、それとも工場帰りか、壁に寄りかかって目を閉じていた。誰もが黙って、ラジオの布張りの丸い顔を見ていた。蝉だけが鳴いていた。
葉月は母のそばに残った。千代が慶一郎の斜め後ろに立った。番頭の大島は間に合わなかった。
正午の時報が鳴り、君が代が流れ、それから、聞き慣れない声が始まった。
雑音が声を削った。言葉は波の向こうから届くようで、切れ切れにしか形にならない。老人が耳に手を当てた。女がひとり、隣の女の袖を掴んだ。
「……堪ヘ難キヲ堪ヘ……」
その一句だけが、ふいに澄んで通った。
慶一郎は目を伏せた。
知っていた。何が語られているか、知っていた。それでも、この声を、この蝉の中で、この人たちの間で聞くのは、知っていることとは別のことだった。膝の裏が震えた。八十年前の夏に自分は立っていて、その夏は資料の中の活字ではなく、汗と、焦げた匂いと、隣の女の嗚咽でできていた。
放送が終わった。
誰も、すぐには動かなかった。
組長がラジオを切り、間違いだという者はいなかった。負けた、と誰かが言った。終わった、と別の誰かが言った。同じことを言っているのに、二つはまるで違う言葉に聞こえた。地面に座り込む老人がいた。声を上げずに泣く女がいた。空を見上げたまま動かない、包帯の男がいた。
千代が、袖で目元を強く拭った。
「……坊ちゃんは、泣かないんですね」
責める声ではなかった。ただ不思議そうだった。
「昨日までに、泣き終えた」
嘘ではなかった。八十年かけて泣き終えた、とは言えなかったが。
慶一郎は空を見た。雲ひとつない、白いほどの青だった。この空の下で、これから冬が来る。飢えが来る。母の日が来る。新しい札が来て、税が来て、それでも春が来る。
全部、知っている。
知っているだけでは、何も救えないことも、知っている。だから今度は、手を動かす。直せるものを直し、食えるものを増やし、残った人間を一人も手放さない。二十二の身体と、八十年の記憶と、掌の内側の静かな置き場所と。持ってきたもの全部を、そのために使う。
――ここから、やり直すんじゃない
慶一郎は踵を返した。
――ここから、始めるんだ
帰り道の表通りは、行きよりも静かだった。誰も彼も、まだ持って行き場のない顔で、それぞれの焼け跡の方へ散っていく。すれ違う顔のいくつかを、慶一郎は憶えようとした。この町に残った人間の顔だ。これから何年も、同じ井戸の水を飲む顔だ。
門をくぐるとき、右の扉が軋んだ。下の蝶番が歪んでいる。焼夷弾の掠った痕が、板の下端に黒く残っていた。あとで直そう、と思った。まず道具だ。道具と、油と、それから。
土蔵の庇の下から、細い声がした。
蚊帳の中で、包帯の白が動いた。
「……けい、いちろう……」
母の声だった。
(第一話 了)
――後書きの注記――
玉音放送は受信状態が悪く、多くの場所で内容がほとんど聞き取れなかったという証言が残っています。正午の重大放送があることは、当日朝までに新聞とラジオ、隣組の回覧などで周知されていました。作中の聞こえ方はこうした証言に拠っています。




