第9話 旅の職人との出会い
羊飼いの木札を描いた話はすぐに村に広まった。「レオナルドに頼めば目印を作ってくれる」と噂になり、商人や職人が小さな注文を持ち込むようになった。パン屋は店の看板に麦の穂を、織工は布に模様を、鍛冶屋は工具箱に家印を。どれも粗末な木や布に描く程度のものだったが、人々の暮らしを支える一部になっていった。
描いている最中、僕の胸には複雑な思いが渦巻いていた。未来で見た壮大な壁画や繊細なスケッチと比べれば、こんな絵はあまりに小さい。けれど、人の笑顔に触れると確かに心が温かくなる。自分の線が役立つ――その事実が、悩みを和らげてくれた。
ある夕方、町から旅の職人がやってきた。革袋を背負い、腰には道具をぶら下げたその男は、村人の頼みで馬の蹄鉄を打ち直していた。火花が散り、鉄が赤から橙へと色を変える。男の手つきは無駄がなく、打ち込むたびに金属が生き物のように形を変えていく。
作業を終えると、彼は休憩がてら僕に声をかけてきた。
「おい、小僧。お前が絵を描くと聞いたぞ。なら、この馬の脚を描いてみろ」
渡されたのは薄い木片だった。僕は木炭を握り、馬の脚を見つめた。蹄の硬さ、腱の張り、毛並みの流れ。頭の中で未来の解剖図の記憶がよみがえる。だが子供の手では細かくは描けない。それでも、できる限りの線を刻んだ。
男は目を丸くした。
「……筋が動いているようだな。子供の絵にしては、よく見ている」
彼は僕の描いた線を指でなぞり、低くうなずいた。
「ただ形を写すんじゃない。動きを写そうとしている。工房でも、最初に大事にされるのはそういう観察眼だ」
胸が跳ねた。工房――未来の記憶にあるヴェロッキオの名が頭をよぎる。あの場所で本格的に学ぶ日が来るのだろうか。
男の名はジョルジョといった。フィレンツェ近郊の工房で修行したが、師を失い、今は旅をしながら鍛冶や修理を請け負っているらしい。焚き火の前で彼は昔を振り返った。
「工房では最初、雑用ばかりだ。石を運び、絵具を練り、掃除をする。それでも必死に見ていれば、師の線や打つ音から学べることは山ほどある」
その言葉に、僕の胸は熱くなった。未来の彼も、同じように最初は雑用から始めたのだろうか。偉大な作品の裏には、こうした日々が積み重なっていたのだ。
家に戻ると父に話した。父は腕を組み、しばらく沈黙したあとで言った。
「町の工房に入れば、多くを学べるだろう。だが同時に、失敗も目立つ。お前にそれを受け止める覚悟があるか」
その問いに、僕は言葉を失った。覚悟――未来の知識を抱えているとはいえ、子供の体と未熟な腕しか持たない。心の奥で、恐れがじわりと広がった。
母は夜、灯の下で僕の肩に手を置いた。
「不安なのね」
僕は頷いた。
「でも、絵を描きたい気持ちは消えない」
母は微笑んだ。
「なら、その気持ちが道になるわ」
その声はやわらかく、けれど背中を押す力を持っていた。
外に出ると、夜空に無数の星が瞬いていた。丘に点々と羊飼いの火が灯り、村全体が一枚の絵のように広がっている。星々の間に、まだ見ぬ未来の工房や都市の姿が重なって見えた。僕は息を吸い込み、その光景を胸に焼きつけた。