第8話 羊飼いの依頼
礼拝堂の壁に描いた落書きは跡形もなく消され、村人たちの間でしばらく噂になった。「あの子はまた妙なことをした」と笑う者もいれば、「神聖な場を汚した」と眉をひそめる者もいた。僕は顔を赤らめ、足早に通り過ぎるしかなかった。
父はそれ以上叱らなかった。けれど沈黙の中に冷ややかさが漂っていた。契約の言葉を汚すのと同じ過ちを繰り返すな、という無言の圧力。母は僕をかばったが、心配そうな瞳は隠せなかった。
(やっぱり、正しい場所でなければ駄目なんだ……)
それでも「描きたい」という衝動は消えない。むしろ壁が消されたことで、余計に胸の中の炎は強くなった。
ある日、丘の上で羊飼いたちと出会った。彼らは羊の群れを追いながら草笛を吹き、笑い合っていた。その中の一人、髭を蓄えた年長の男が僕を呼び止めた。
「お前、絵が得意なんだろう?」
「……うん、少しだけ」
「なら、この板に印を描いてくれ」
彼が差し出したのは、群れを管理するための木札だった。羊の所有を示すため、焼き印や刻印が使われるが、今回は簡単な絵を求められたらしい。
「ただの印じゃつまらん。群れの目印になるようにしてくれ」
僕は頷き、木炭で羊の横顔を描いた。角の曲線を強調し、群れの誇りが表れるように。男は目を細め、しばらく眺めた。
「おお、これなら一目でわかる」
彼は笑い、木札を仲間に見せた。周囲からも「いいな」「面白い」と声が上がった。
胸が熱くなった。未来で見た絵画の壮大さとは比べものにならない。けれど、この村の暮らしに役立つ線を引けた。それは初めての実用的な「絵の仕事」だった。
夜、父にその話をすると、意外にも小さくうなずいた。
「そういった物は契約の補助になる。印は信頼を守るものだ」
彼の声には叱責ではなく、納得が混じっていた。芸術を飾りや遊びとしか見ない父が、初めて絵を役立つものと認めた瞬間だった。
母は柔らかく笑いながら言った。
「羊だって、あなたの線で少し誇らしげに見えるわ」
僕は照れくさくて顔をそむけた。けれど心の奥は暖かさで満ちていた。
翌日、羊飼いが再び訪ねてきた。今度は仲間の分も、と複数の木札を差し出された。僕は夢中で線を重ね、羊の角や体の模様に変化をつけて描いた。村人たちは楽しげにそれを受け取り、口々に感謝を告げた。
その光景を見て、僕はふと気づいた。大きな壁画だけが絵ではない。日常の道具や生活の中にも絵は息づき、人を支える力を持つのだと。
夜更け、木片に描いた羊の横顔を眺めながら考えた。未来の大作に比べれば取るに足らない。けれど、この線は確かに村人の生活を支えている。小さな実用と大きな芸術は、きっとどこかでつながっている。
その思いを胸に、僕はまた木炭を握った。次に描くべきものは何だろう。答えは出ない。けれど、描くことが誰かの役に立つ――その確信が新しい道を照らしていた。