第7話 小さな礼拝堂の落書き
町で見た大きなフレスコ画の衝撃は、何日たっても胸から消えなかった。村に戻っても、頭の中ではあの光の筋や聖人たちの姿が繰り返し再生される。僕は村の礼拝堂の前に立ち、扉を押し開けた。そこは町の教会ほど大きくはない。けれど、白く塗られた壁が陽光を受け、柔らかく光っていた。
「ここに……描けたら」
口に出した瞬間、胸が高鳴った。壁一面に広がる真っ白な空間は、僕にはまだ見ぬ大きなキャンバスに思えた。未来で見た「最後の晩餐」や「天井画」の記憶が重なり、手が勝手に木炭を探していた。
礼拝堂の隅で拾った炭片を指に挟み、壁に近づく。手が震える。けれど、描きたい衝動が勝っていた。僕は壁に人の姿を描き出した。輪郭は幼稚で、布の皺もぎこちない。それでも、頭の中では町で見た壮麗な聖人たちが並んでいた。
「おい、何をしている!」
背後から鋭い声。振り返ると神父が立っていた。顔は怒りに紅潮している。
「神聖な壁に落書きなど……!」
僕は慌てて口を開いた。
「ごめんなさい! でも、どうしても描きたくて……」
声は震え、胸は痛みでいっぱいだった。
父が駆けつけると、さらに厳しい叱責が降ってきた。
「契約の文を汚すのと同じだ。神聖な場を乱すのは罪だぞ」
僕は頭を下げるしかなかった。未来の記憶にある大作に近づきたかっただけなのに、現実は落書きの罪人だった。
その夜、家で母がそっと声をかけてくれた。
「あなたが描きたい気持ちはわかるわ。でも、場所を選ばなきゃ」
僕は涙をこらえて頷いた。父の言葉が胸を突き刺したままだったが、母の声が少しだけ救いになった。
寝台に横たわると、目を閉じても壁の白さが浮かんでくる。僕は夢想した。もし本当にここに大きな絵を描けたなら――村の人々は驚き、祈りの声はもっと強くなるだろう。子供じみた想像かもしれない。それでも、胸の奥で灯は消えなかった。
次の日、僕は礼拝堂の前に立った。壁の落書きはすでに削られ、跡形もなくなっていた。指先で触れると、粉がこぼれ落ちた。悔しさと同時に、不思議な安らぎもあった。描いた線は消えても、描きたいという衝動は消えないのだ。
僕は胸の中で小さく呟いた。
「いつか、正しい場所で……」




